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契約の証


リゼットは、夜明けと共に家を出た。


小さな包みに、母のための薬と、ほんの少しの食料。

家族には「薬草を探しに森へ行く」とだけ告げた。

本当は、もっとずっと遠くへ行くことになるのに。


マーシャの不安げな顔、弟の寂しそうな瞳。

それでも、リゼットは振り返らなかった。


(必ず……帰る)


心の中で、固く誓う。

ノアが言った。「君が動かなければ、家族ごと巻き込まれる」と。


守りたいなら、動くしかなかった。


村の外れ、朽ちた街道の先で、ノアが待っていた。

黒い外套に、剣を背負い、凛と立つその姿は、どこか孤高だった。


リゼットに気づくと、ノアは静かに頷いた。


「よく、決断したな」


「……怖いです」


リゼットは正直に言った。

ノアは少しだけ目を細め、それでも穏やかに答えた。


「怖がっていい。怖いまま、進めばいい」


その言葉に、リゼットの胸は少しだけ軽くなった。


二人は並んで歩き出す。

行き先は、北東に広がる「精霊湖」。

そこに、今も眠る精霊がいるという。


「精霊湖……」


リゼットは小さく呟いた。

それは昔、母から聞いた伝説の地だった。

春を司る精霊が住まう、光の湖――。


(本当に、精霊に会えるのだろうか)


そんな不安を抱えながらも、リゼットはノアと歩を進めた。


森は、なおも雪に閉ざされていた。


踏みしめるたび、ぎゅっ、ぎゅっと乾いた音が響く。

だが、昨日とは違った。


空気に、かすかな温もりが混じり始めている。

木々の枝先にも、白銀の中に小さな芽が顔を出していた。


「これは……?」


リゼットが呟くと、ノアが答えた。


「君が来たからだ」


「え……」


「君の中には、春の精霊の気配がある。……君が歩けば、世界が少しずつ、目覚めていく」


リゼットは、思わず立ち止まった。

自分が、世界を変えている?

そんなこと、信じられなかった。


でも確かに、目の前に新しい命が芽吹いている。


「……不思議」


リゼットはそう呟き、小さく微笑んだ。

ノアもそれを見て、わずかに口元を緩めた。


「君は、この世界にとって奇跡だ」


その声には、かすかな温かさが宿っていた。


昼過ぎ、二人は精霊湖のほとりに辿り着いた。


湖は、雪に閉ざされた世界の中で、奇跡のように澄み切っていた。

凍ることなく、静かに水をたたえ、そこに淡い光が揺れている。


リゼットは、息を呑んだ。


(……きれい)


湖の中央には、小さな島が浮かんでいた。

そこには一本の古びた大樹――枯れたはずの花を咲かせた、伝説の樹が立っている。


ノアはリゼットに向き直った。


「ここからは、君自身の力が必要だ」


「わたしの……力?」


リゼットは戸惑った。

自分に、何か特別なことができるとは、まだ思えなかったから。


ノアは静かに説明する。


「精霊たちは、長い間人間から忘れられ、力を失った。

だが、君のような存在――『巫子』だけが、彼らに呼びかけ、目覚めさせることができる」


「……でも、どうやって?」


「心で呼べ。精霊たちは、心の声に応える」


ノアはそれだけ言うと、そっとリゼットの背を押した。


リゼットは、覚悟を決めて湖のほとりに進み出た。

冷たい風が頬を撫でる。


リゼットはそっと、目を閉じた。


静かに、深く、呼吸を整える。

そして――心の中で、呼びかけた。


(お願い。目覚めて)


(世界に、春を――)


その瞬間だった。


湖面が、淡い光に包まれた。


水の中から、小さな光が無数に立ち上がる。

それはまるで、夜空に瞬く星々のようだった。


リゼットは、夢中で手を伸ばした。


光たちは、リゼットの指先に触れると、喜びに震えるように舞い上がった。


そして、湖の中央、あの古びた大樹が――


ぱあっ


眩い光を放ち、一斉に花を咲かせた。


白、桃、薄紫――

春を思わせる柔らかな色が、一面に広がる。


リゼットは、ただ立ち尽くして見上げた。


(……これが、精霊)


胸の奥が、温かいもので満たされていく。

懐かしくて、切なくて、それでいて、涙が出るほど嬉しかった。


後ろで、ノアが静かに呟くのが聞こえた。


「やはり……君は、巫子だ」


その声に、リゼットは振り返ることもできず、ただ、涙を浮かべながら微笑んだ。


光の花が咲き乱れる湖のほとりで、リゼットはしばらく立ち尽くしていた。


まるで夢のような光景。

けれど、それは確かに彼女の呼びかけに応えた奇跡だった。


やがて、湖の中央――大樹の根元から、小さな姿が現れた。


それは、人の形をした、けれどあまりにも透き通った存在。

ふわりと浮かび、リゼットに向かって微笑んだ。


「……精霊」


リゼットは思わず声に出した。


小さな精霊は、リゼットの手のひらにそっと触れる。

すると、不思議な温かさが彼女の胸に広がった。


(ありがとう)


心の中に、直接声が響く。


(あなたが、目覚めさせてくれた)


リゼットは涙ぐみながら、小さく首を振った。


「わたしは……ただ、願っただけ。春が来てほしいって……」


(それで十分)


精霊は優しく微笑んだ。


その瞬間、リゼットの胸の奥に、ひとつの契約が刻まれるのを感じた。

見えない糸が、彼女と精霊を結ぶように。


ノアが静かに歩み寄り、リゼットの肩に手を置いた。


「これが……君の力だ」


リゼットは、ゆっくりとノアを見上げた。

ノアの銀の瞳は、どこまでもまっすぐだった。


「君は、精霊たちと契約できる唯一の存在だ。

……この世界を救うために、君の力が必要なんだ」


リゼットは、小さく息を吸った。


自分には荷が重すぎる。

それでも――今、この小さな命たちを見捨てることはできなかった。


リゼットは、きゅっと拳を握りしめた。


「わたし、やります」


精一杯、震える声で、でも確かな意志で言った。


ノアは、微かに目を細めた。

それは、誇りに似た、温かな表情だった。


「……ありがとう、リゼット」


二人は、湖を後にした。


けれど、その背後――森の奥に、冷たい視線が潜んでいることには、まだ気づいていなかった。


黒いマントを羽織った者たち。

魔族の影が、静かに、リゼットたちを狙っていた。


「巫子が目覚めたか……」


低く呟く声。

彼らの目には、邪悪な光が宿っていた。


春を呼ぶ奇跡の裏で、確実に、闇もまた蠢き始めていた。


日が傾き始めた頃だった。


リゼットとノアが森を抜けかけたその時、突然、空気がざらりと濁った。


「――来たか」


ノアが剣に手をかける。


リゼットもすぐにわかった。

肌を刺すような悪意。

あの夜、家に押し入ってきた者たちと同じ、いやそれ以上に濃い"何か"の気配。


木々の間から、黒い影が現れた。

それは人の姿をしていたが、目は赤く光り、指先は鋭い鉤爪に変わっている。


「あれがノアが教えてくれた魔族……!」


リゼットは息を呑んだ。


黒装束の一団が、二人を取り囲むように広がる。


「巫子を、渡してもらおうか」


先頭の男が、低く唸るように言った。

ノアは剣を抜き、リゼットをかばうように前に立った。


「渡す気はない」


静かに、だが断固とした口調だった。


男はにやりと笑った。


「なら、力ずくで奪うまでだ」


次の瞬間、魔族たちが一斉に襲いかかってきた。


ノアの剣が閃く。

一体、また一体と切り伏せていく。

だが、敵は数が多かった。


リゼットは後ろで、ただ見ていることしかできなかった。


(ノアが……一人で戦ってる……)


歯噛みする。

怖い。手も足も動かない。


でも――


「リゼット、下がっていろ!」


ノアの叫びが聞こえる。


(違う。下がってるだけじゃ、だめだ)


リゼットは、胸の中の小さな精霊たちの声を感じた。


(――あなたの力を)


(――私たちと、繋がって)


リゼットは目を閉じた。


そして、心で呼びかけた。


(お願い……わたしに、力を貸して)


小さな光が、彼女の周囲に集まる。

リゼットの足元に、淡い紋様が浮かび上がった。


それは、精霊との契約の証。


リゼットは両手を広げ、震えながら叫んだ。


「精霊たちよ――この地を、守って!」


光が爆ぜた。


次の瞬間、森を覆っていた冷たい闇が、ぱあっと払われる。

温かな風が吹き抜け、魔族たちは苦しげに呻き声を上げた。


「ぐっ……!」


「この、巫子め……!」


魔族たちは、明らかに怯え始めた。


ノアも、リゼットに驚いたような視線を向ける。


「これが……リゼットの、力……!」


リゼットは震えながら、それでも立ち続けた。

精霊たちの力を借りて――この地を、守るために。


光に怯んだ魔族たちは、じりじりと後退していった。


「……覚えていろ、巫子……!」


悔しげに唸りながら、彼らは森の闇に姿を消す。

リゼットは、崩れ落ちそうな身体を必死で支えた。


光が、少しずつ消えていく。


全身が、鉛のように重い。

それでも、ノアが近づいてくるのを見て、リゼットは必死に笑った。


「……わたし、少しは……役に立てたかな……」


ノアは答えなかった。

ただ、そっとリゼットを抱きとめた。


驚いて目を見開くリゼットに、ノアは囁くように言った。


「十分すぎるほどだ」


ノアの腕は、しっかりと、あたたかかった。


リゼットは、初めて――自分が本当に、この世界に必要とされているのだと、心の底から感じた。


そして、同時に思った。


(……ノアに、守られてばかりじゃ、だめだ)


もっと強くならなければ。

この世界を、家族を、ノアを、守れるように。


リゼットはそっとノアの外套を握りしめた。


「……わたし、もっと頑張ります」


小さな声だった。

けれどその決意に、ノアは静かに頷いた。


「共に行こう。リゼット」


その言葉に、リゼットは微笑んだ。


精霊たちの声が、彼女の背中をそっと押していた。

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