滅びの兆し
雪が降っていた。
春の訪れを告げるはずの月に、凍えるような雪が舞い、
リゼット=フェンリスは粗末な外套をぎゅっとかき寄せた。
足元に積もる雪は音もなく、彼女の細い足首を覆い隠す。
「……こんなに、降るなんて」
誰に言うでもなく、リゼットは呟いた。
もう冬は終わったはずだった。
このティレナスの大地では、例年ならば今頃、若草が芽吹き、川辺には小さな花が顔を出す。
しかし今年は違った。
冷たい雪が降り続き、畑の作物は芽を出すことさえできない。
薪は底をつき、飢えと寒さに村人たちは静かに耐えていた。
リゼットが森に来たのは、そんな村の、ささやかな望みのためだった。
薬草――この季節には珍しい、奇跡的に冬を越す草が、森の奥に咲いていると聞いたのだ。
母の病を癒すには、その草がどうしても必要だった。
白い息を吐きながら、リゼットは足を進めた。
辺りには木々が立ち並び、幹にも枝にも雪が積もっている。
普段なら聞こえるはずの鳥の声も、今はない。ただ、しん、と静まり返るばかりだった。
どれほど歩いただろうか。
リゼットは気がつけば、見覚えのない場所に立っていた。
「……道、間違えた?」
胸がざわめく。焦りが喉を締めつける。
慌てて来た道を戻ろうとした瞬間、突然、空気が震えた。
ザァァァ――
強い風。
リゼットは思わず顔を覆った。木々がざわめき、雪煙が舞い上がる。
その中に、微かな気配があった。
誰かが、いる。
リゼットはごくりと息を呑み、慎重に辺りを見回した。
そして、雪煙の向こう、一本の古びた大樹の下に――ひとりの男が立っているのを見た。
男は、黒い外套を羽織り、剣を背負っていた。
鋭い銀の瞳が、まるでリゼットを射抜くように見つめている。
「……君か」
低く、しわがれた声が、静かに響く。
リゼットは思わず後ずさった。知らない男。
しかもこの森の奥で、剣を持った男など、警戒するに越したことはない。
「ご、ごめんなさい。わたし、道に迷って……」
震える声で言い訳する。
しかし男は近づこうともせず、ただじっとリゼットを見据えたままだった。
やがて、彼はふっと微笑んだ――それは安堵のような、諦めのような、不思議な微笑みだった。
「君から、精霊の匂いがする」
「……え?」
リゼットは聞き間違えたかと思った。
精霊? そんなもの、もう何十年も前に人々の前から姿を消したはずだ。
それに、匂いがするなど――
「名を、聞いても?」
男は尋ねた。リゼットは警戒を解けぬまま、答えた。
「リゼット……リゼット=フェンリスです」
「リゼット。いい名だ」
男はそっと呟くと、自分の名も告げた。
「俺は、ノア=クラヴィス。
君を、探していた」
リゼットは目を見開いた。
探していた――?
それは、どういう意味なのだろう。
雪は止む気配もなく、静かに降り続いていた。
「……探していた、って。わたし、別に……何も、してません」
リゼットは、わずかに身を引きながら言った。
だがノアと名乗った男は、それ以上距離を詰めることもせず、ただ静かに続けた。
「君の中に、精霊たちの声が響いている。……自覚はないだろうが、君は特別だ」
「……っ」
リゼットは小さく震えた。
"精霊の声"――そんなものを、自分が?
そんなはずはない。彼女はただ、薬草を摘み、家族を支え、細々と生きてきただけだ。
特別など、そんなものには縁がない。
「なぜ……そんなこと、わかるんですか」
必死に声を押し出す。ノアは少しだけ目を細めた。
「俺は精霊王に仕える者。君のような存在を、探し続けてきた。……君が、最後の希望だ」
希望。
その言葉の重さに、リゼットは言葉を失った。
遠く、凍りついた森の奥から、かすかな声が聞こえるような気がした。
助けて、と。呼んで、と。
「……わたし、何もできません。家族が、母が病気で、家を離れることなんてできない……」
リゼットは必死に言った。
だがノアは、責めるようなそぶりを一切見せなかった。
「すぐにとは言わない。ただ、知っておいてくれ。君は、この世界の春を呼び戻す鍵だ」
ノアは、そう言うと背を向けた。
森の奥へと、雪の中を歩き去ろうとする。
置き去りにされることに、リゼットの胸はずきりと痛んだ。
でも、追うこともできなかった。
雪はなおも降り続き、リゼットはただ立ち尽くしていた。
村へ戻ったリゼットを、姉のマーシャが出迎えた。
「リゼット! 無事だったのね……!」
心配そうに抱きしめられ、リゼットはほっと肩の力を抜いた。
小さな家の中は、凍えるような寒さだった。
それでも、母親は寝台で静かに眠り、幼い弟は火の気のない炉の前で膝を抱えている。
「ごめんね……薬草、見つけられなかった」
リゼットは唇を噛み締めた。
こんな寒さでは、あの奇跡の草さえ生き延びられなかったのだ。
「ううん、いいの。リゼットが無事なら、それが一番だよ」
マーシャは優しく微笑み、弟を毛布で包み込んだ。
この家族が、リゼットにとってすべてだった。
それを置いて、どこかへ行くなんて――そんなこと、できるはずがない。
だけど、心のどこかで、あの男――ノアの言葉が引っかかっていた。
(私が……春を呼び戻す鍵?)
ばかげている。
そう思いたかった。
けれど、窓の外には、なおも降りやまぬ雪が静かに、静かに積もり続けていた。
夜、リゼットは眠れなかった。
毛布にくるまり、寝台に横たわりながらも、瞼の裏にあの銀の瞳が焼きついて離れない。
あれは夢だったのだろうか? それとも――。
「……精霊の、声……?」
小さく呟いた瞬間だった。
耳の奥で、ふわり、と何かが響いた。
それはまるで、風のような、羽音のような、優しい囁きだった。
(――リゼット)
(――助けて)
幻聴だ、とリゼットは思った。
でも、確かにそれは、森で感じたものと同じだった。
ぎゅっと毛布を握りしめる。
心が、ざわめいていた。
恐ろしい。でも、どこか懐かしい。
どこかで、自分はずっとこれを知っていたような、そんな気さえした。
そのとき――
「きゃあっ!」
台所から、マーシャの悲鳴が上がった。
跳ね起きたリゼットは、急いで部屋を飛び出す。
薄暗い台所には、見知らぬ男たちが立っていた。
黒ずくめの服、鋭い目。剣を抜いている者もいる。
「リゼット=フェンリスだな?」
その中のひとり、赤い刺繍のマントをまとった男が、低く問いかけた。
「マーシャ! 弟を連れて逃げて!」
叫ぶ間も早く、男たちはリゼットに向かって一斉に飛びかかってきた。
「リゼット!」
マーシャの叫び声が響く。
絶体絶命――そう思った瞬間、
風が吹き荒れた。
爆ぜるような衝撃。
男たちの身体が、まるで吹き飛ばされたかのように宙を舞った。
「……間に合ったか」
低く、静かな声。
そこにいたのは、黒い外套を翻し、剣を片手にしたノアだった。
リゼットの前に立ちはだかるようにして、彼は剣を構える。
「俺の許可なしに、彼女に触れるな」
剣から微かに青白い光が立ち上る。
男たちは怯んだが、マントの男だけはにやりと笑った。
「……さすが、精霊王の番犬か。だが、ここで巫子を渡してもらうぞ」
巫子――リゼットははっと息を呑んだ。
自分は、ただの村娘のはず。
ノアは一歩も退かず、静かに剣を構え直す。
「渡さない」
短い一言に、強い意志が込められていた。
次の瞬間、激しい戦いが始まった。
ノアの剣は速かった。
普通の剣士とは違う――そう直感させる、異様な気配。
彼の振るう一太刀ごとに、黒装束の男たちは倒れていく。
リゼットはただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。
剣戟の音、裂ける空気の震え。
あまりに圧倒的な光景に、何もできなかった。
「ぐあっ……!」
マントの男が、血を吐きながら膝をついた。
ノアは剣先を向けたまま、一歩、二歩とにじり寄る。
マントの男は怯えた目を向けながら、苦しげに叫んだ。
「……覚えていろ、半端者め……!」
そう言い捨てると、男は何かの呪文を呟き、瞬く間に黒い霧と共に姿を消した。
残った手下たちも、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
静寂が戻った。
降り積もった雪の上には、いくつもの足跡と、血の跡が残っていた。
ノアは剣を収めると、リゼットの方を振り返った。
「怪我は?」
その一言で、リゼットは張り詰めていたものが崩れ、膝から崩れ落ちた。
「こ、怖かった……」
「……すまない」
ノアはすぐに傍へ駆け寄り、そっとリゼットを支えた。
その手は、驚くほどあたたかかった。
「君を巻き込むつもりはなかった」
低く、苦しそうな声。
ノアもまた、痛みを抱えているのだと、リゼットは思った。
「だけど、もう遅い」
彼は小さく呟いた。
「奴らは、君を"巫子"だと確信した。……このままでは、村ごと、君を狙うだろう」
「……そんな」
リゼットは震えた。
家族を、村を――自分のせいで、巻き込んでしまう。
「だから、一緒に来てほしい」
ノアは真剣な目でリゼットを見た。
「精霊王のもとへ。君が生きるために、君の大切なものを守るために」
リゼットの心は揺れた。
迷いと、恐怖と、そして小さな、かすかな希望。
――もし、本当に、自分が何かできるのなら。
リゼットは、ぎゅっと胸元を押さえた。
答えは、まだ出ない。
だけど、そのとき確かに、彼女の中で何かが目を覚まし始めていた。