第7鮫 難民サメと恐怖の始まり
「ここアンダウン・モーテルは、デリカタから逃げ出した者たちの隠れ家でな」
かつての街道沿いにあった簡易宿泊施設の廃墟は、手入れがされているのかかなり綺麗に残っていた。道路脇に立っている看板には「Sundown Motel」と書かれていたようだが、Sの部分が壊れて無くなっており、「undown Motel」と呼ばれているらしい。
「ワシ以外にも10人ほどがここで暮らしとる。他に行く当てもなく、いつかデリカタに帰れる時を待っとるんだ。家族があそこに残っとる者も多い……」
「じゃあヤホールさんは……」
「ワシの妻だ。そうか、まだあいつは無事か――まあ殺しても死なんようなババアだから当然だがのう」
冗談めかす老人は、しかし声がいくらか弾んでいた。
彼はダビドフと名乗った。このアンダウン・モーテルの最長老らしい。
洗った服を外に吊るした3人は、モーテルに併設されたダイナーでパンを齧りながら彼の話を聞いていた。
着る服が無いのでプリルリは相変わらずバスタオル姿。カフカは別にもらったバスローブ姿。ヒレブレヒトは毛布を古代ローマ人風に巻いている。
「ダビドフさん、一体デリカタで何が起こってるんですか?」
ヒレブレヒトが尋ねると、ダビドフは眉間にしわを寄せる。
「――全ては今のデリカタの長、デュエル・バス・プロ・バブチャンが原因でのう」
「2年前に何かがあったとヤホールさんが」
「うむ。前の長、父親の代までは良かった。しかしバブチャンは、正直あまり優秀ではなかった。跡を継がせたい父親の期待になかなか沿えず、家じゃ酷い扱いだったらしい。しかし腐っても長の子として住人にはちやほやされとったもんだから、いつしか家に帰らず集落の中でプラプラ遊び歩くようになった――」
ぐぎょろここここがらりるろ~。
「な、なんだ今の音は」
「ごめんなさい……アタシのお腹……」
カフカは赤面して挙手。
「パン1個じゃ足りなくって……」
「うーむ残念だが、ここも食料には余裕が無くてのう……」
「わたしの残り食べる? ちょっと大きいから」
プリルリが食べかけのパンを差し出すと、カフカの瞳が輝いた。
「いいの? ありがとう!」
「子供に恵んでもらって恥ずかしくないのか」
「アンタが恵んでくれたっていいんだけど? アンタの巨体をここまで運ぶのにどんだけカロリー使ったと思ってんの」
カフカはヒレブレヒトの茶々も構わず、プリルリから受け取ったパンを齧った。
その瞬間、驚いたように目を見開く。
「……ッ!」
「どうした?」
「……な、なんでもない。すいませんダビドフさん、続きをどうぞ」
カフカが促すと、ダビドフは咳払いをして語りを再開する。
「2年前の春のこと、愛想良しで有名だった酒場の看板娘にバブチャンが求婚したのが悲劇の始まりだった。バブチャンは当然OKされると思っとったようだが、娘には婚約者がおってのう、断られたのだ」
カフカが「あちゃー」と額を叩く。
「長の子で客だから優しくされたのを勘違いしちゃった感じね」
「そんな感じだのう……まあ、あの娘には集落中の男がメロメロだったがの」
「それで、その後どうなったんですか?」
ヒレブレヒトが急かすと、ダビドフは重い息を吐いた。
「……面目を潰されたと怒り狂った奴は、娘に乱暴をはたらきおった。どこで何をされたかはワシの口からはとても言えん。冷静でいられる自信がない――」
杖に置かれたダビドフの手がわなわなと震える。
「事態はすぐにデリカタ中に広まり、ついに奴の父親も匙を投げおった。バブチャンは勘当され、長の子という立場を失った奴に住人も手のひらを返し罵詈雑言を投げかけた。そしてついには大通りの真ん中で殴り掛かられた。やったのは娘の婚約者だった男だ。当然の怒りだ。バブチャンに穢された娘は大層傷つき、自ら命を絶ってしまったのだから――」
ダビドフの語り口は熱を帯び、額には脂汗が浮かんでいた。
「そして男はバブチャンに吐き捨てた。『長の子だからみんな気を使ってただけだ。お前には何の価値もない』と――その時だった。バブチャンがカッと見開いた恐ろしい目で男を睨みつけた。そしたら……うう、わ、ワシらは――」
「ダビドフさん……?」
苦しそうに震え出した老人を心配するヒレブレヒトを手で制して、ダビドフは続けた。
「――気がついた時には、原形も留めないほどの暴力に曝された婚約者の死体が転がっておった。そしてワシらの両手は、どす黒い血でべっとりと――信じられんかった……だがいくら理解を拒もうとも、なぜかワシらは自覚しておった――恐ろしい……自分が殺されるよりも恐ろしいことだ……。そんなワシらを見て、奴は心底楽しそうに笑っておったよ――」
「――やっぱり、住人たちは操られていたのか……」
「それから全てが狂っていった。バブチャンは気に入らない者を次から次へと消していった。父親、家族、逃げ出そうとした者、自分を悪く言った者はもちろん、少しでも自分の自尊心を傷つけた者を見境なく――自ら手を汚すことは一切なくのう。ワシらはただ顔を伏せて、奴を刺激しないよう目立たず過ごすことにした。自分が次の標的にならないように。そして――標的になった誰かを、手にかけることにならないように……。まあ、どれだけ息を潜めて暮らしておっても、どうしようもないことはあるが……」
ダビドフは動きの悪い右脚をさすった。
「逃げ出せたのは奇跡だった。しかし一番幸運だったのは、誰もワシを手にかけた罪の意識で苦しませずに済んだことだ。君らもこのままデリカタから離れた方がいい。水や食料なら、少しだが分けてやれるしのう。あのババアの無事を知らせてくれた礼だ」
「助けてあげようよ、ヒル」
プリルリが声を上げた。
「悪いやつを倒して、困ってるデリカタの人たちを助けてあげよう。わたしを助けてくれたみたいに」
「プリルリ……そんな簡単に言われても――」
ヒレブレヒトは口ごもる。
彼を見上げるプリルリの瞳が、あまりにも爛々と燃えていたから。
「だってヒルはわたしのヒーローだもんね」
彼女が首から下げたままの、ファイアオパールの歯のペンダントのように。
痛いほど煌めいていた。