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第37鮫 神を殺すものは

「イナンナッ!」

「この親不孝者がッ!」


 妹の許へ駆け出したダーナを、ネイトが蹴り飛ばす。


「グアッ!」


 無防備な横っ腹にまともに喰らい、細いダーナは石壁に叩きつけられ崩れ落ちる。


「ぐぅ……本当に【舞台の上(フェアリーテ)の王子様(イル・コード)】以外の総ての『簒奪形質(カルマリウム)』が消えている……! 処分せずに側に置いてやった恩を忘れたか……!」

「恩だと……? 都合よく汚れ仕事ばかりさせやがって……」


 ダーナは割れたメガネをかなぐり捨ててふらふらと立ち上がった。


「お前は覚えてなかったみたいだが、俺は覚えている――83人だ。お前が捨てた妹たちの数だ。隙を見て逃がせたのはたったの4人。残りの79人は……俺がこの手で殺した。今でも全員の顔が浮かぶ。物陰から、暗がりから、すぐ背後から、いつもあいつらは俺を見ている。俺に囁いている」

「知るか。我には何も見えん」


 ネイトはダーナを放置し、まだ目覚めないイナンナの許へ向かった。


「手に入らないならばもうよい。もう一度潰してやるだけよ」


 足を振り上げ、イナンナの頭を踏み潰そうと振り下ろす。


「ぅおりゃああっ!」


 ヒレブレヒトがネイトの軸足にタックル。ネイトは少しふらついたが、すぐに持ち直してヒレブレヒトの顔面を踵で蹴った。


「邪魔をす――」

「【南風を背(トウェルブ・オ)に受けて(クロック・ハイ)】」


 ネイトは強制的に入り口側を向かされ、そちらからカフカが飛行能力の応用で気流操作による高速移動からのラリアットを喰らわす。


「ゴワッ……!」


 ネイトは後頭部から床に叩きつけられた。


「ひゅ~、お母さんぶっ飛ばしちゃった」

「ダーナさん! 早くイナンナを!」

「ヒレブレヒト・バーナード……本当に、よく来てくれた。ありがとう」


 ヒレブレヒトに促され、ダーナはおぼつかない足取りでイナンナの隣へ。


「イナンナ……生き返ってくれ――」


 呼吸と脈を確認し、相当不味い状況なのか裸の彼女の胸に手を当て心臓マッサージを開始する兄・ダーナ。


「――どいつもこいつも……親への態度がなっておらぬ」


 ネイトは起き上がり、首をゴキリと鳴らした。


「【舞台の上(フェアリーテ)の王子様(イル・コード)】以外を失った……それがどうしたというのだ。貴様らを改めて葬るのに、それさえあれば十分よ」

「僕だって不死身の身体だ」


 ヒレブレヒトはファイティングポーズをとる。


「やるか? 不毛な不死身同士の殴り合いを」

「ふん、粗野な男だ。不死身はこの能力の本質ではない。『対象に理想の力を授ける』のが本領よ。我は『我が出来ると信じること』ならなんでも出来る。例えば――」


 ネイトはヒレブレヒトを真っ直ぐ指さした。


「人間はサメを爆破して殺すのが好きだったそうではないか。では我は人間の貴様を爆破してやろう。貴様自身を爆弾に変えることでな」

「な……一体どうやって――」

「神に不可能はない。こうやってだ――バーン」


 ネイトはヒレブレヒトへ銃を撃つ真似をした。

 その瞬間、ヒレブレヒトが爆ぜた。

 彼の肉体自体が爆弾になったかのように、頭の先から足の先まで細切れに弾け飛んだ。

 部屋中にヒレブレヒトの血液が飛び散る。


「レ、ヒト……?」


 全身を彼の血で染めたカフカは足元に視線を落とし、転がっていたものを拾い上げた。

 ヒレブレヒトの心臓だった。


「ハッハッハ! 綺麗に散らばったな。さて、不死身の男よ。貴様は再生するのにどれだけかかるのだ?」


 上機嫌でせせら笑うネイトは、無意識に頬へ飛び散ったヒレブレヒトの血を舐めていた。

 瞬間、ネイトの脳髄に奔る電撃。


「ぬぅあっ!? なんだこれは……!?」

「美味しいでしょ、お母さん」


 カフカは心臓を手に、ゆっくりと接近する。


「理屈じゃないでしょ。サメの本能が、人間の味を求めてる。一度味わってしまったら、もう人間が食べたくて食べたくて仕方なくなっちゃう」

「これが……人間の味か……! こんなものを下級サメ共は食っておったのか……!」

「そう。お母さんが能力集めも全部下っ端任せにするから、もう食べ尽くされて、もしかしたらもう他に人間は存在しないかもしれないらしいよ」


 血塗れのカフカは、両手に載せた大ぶりの心臓を母親に差し出す。


「ほらお母さん、食べてみたいでしょ。きっと絶品だよ」

「お、おう……」


 ネイトは4億年生きてきて初めて感じる味覚への衝撃に抗うことが出来ない。

 おずおずと血の滴る心臓に手を伸ばし、カフカからそっと受け取ると、その重みを感じながら表面に舌を這わす。


「ほぁぐぅ……っ! これは、知らぬ、知らぬぅ……!」

「さあ、我慢しないで。がぶっと、サメらしく丸かじりしちゃいなよ」


 カフカの囁きに乗せられ、大きく開けた口で、一思いに齧りついた。


「アタシね、お母さんに紹介したい人がいるんだ。ヒレブレヒトっていうんだけど」


 弾力のある筋肉をブツリと噛み切り、口に含んで噛み締めると、濃い血液と肉の旨味がジュワっと溢れて口を満たす。


「~~~~~~~~っ!」


 味覚の神経が焼ききれて火花が散っているように感じるネイト。


「彼、たまに弱気になったり、泣いちゃったりすることはあったけど、優しくて、勇気があって、アタシ達のこと何があっても守るって約束してくれたの。アタシもそんな彼のことを守ってあげたいって思うんだ」


 もう止まらない。次、また次と心臓を齧り、獣の唸り声のような音を漏らしながら頬張って、咀嚼する度に脳が爆破され、飲み込むと喉を通り抜けていく感触を名残惜しく思う。

 あっという間にヒレブレヒトの心臓は消えてなくなった。


「これからもアタシは、どんな大変なことが起こっても、()()()彼と一緒にいたい」


 意地汚く手に着いた血まで舐め取ろうと躍起になるネイトを、カフカの目は酷く冷たい視線で見下ろしていた。


「だってレヒトは、アタシ達の無敵のヒーローだからね」


 その瞬間、ネイトが爆ぜた。

 内側から破裂するように吹き飛び、彼女がいた場所には裸のヒレブレヒトが立っていて、カフカと向かい合わせになっていた。

 ネイトの胃の中へ送られた心臓から爆発的にヒレブレヒトの身体が再生し、ネイトの身体を弾き飛ばしたのだ。


「お疲れ様、レヒト」


 カフカはジャケットを脱いで、ヒレブレヒトに羽織らせた。


「かっこよかったよ」

「……僕自分では何もやってない気がするんだけど」

「じゃあ、おいしそうだったよ、で」

「うーん……って、おいおい……あいつの肉片が――」


 散らばったネイトが、どんどん集まってくっついていく。

舞台の上(フェアリーテ)の王子様(イル・コード)】による回復速度は『対象をどれだけ信じているか』による。

 ヒレブレヒトが瞬間的に肉体を再生したのはカフカが彼の無敵を強く信じたからであり、ネイトも自分自身の無敵を強く信じている。


「――もう遊びは無しだクソガキ共……。我が娘よ、お前から殺せばよかったのだ。人間などもうどうでもよいわ……!」


 ネイトの肉体は元の形に戻りかけ、完成間近の粘土細工のようになっていた。

 そんな彼女の背後から、黒い影が飛び掛かる。


「返せぇええええッ!」


 ヒレブレヒトには一瞬それが何者か分からなかった。

 乱れた黒髪。煤けた暖炉の灰のような乱雑な服。

 その女がネイトの首筋に噛みつき、血を啜り始めたところで、彼女がイナンナだということにやっと思い至る。


「きっ……貴様はもう――大人しく死んでいればいいものを……ッ!」

「うううううううううううううううううう……!」


 高貴で浮世離れした仮面は既に剥がれ、飢えた猛獣のように牙を立てるイナンナ。

 背後からしがみついて離れない娘をなんとか引きはがそうとするネイトだが、イナンナの念動力で動きを阻害されているのか上手く動けずにいる。

 あんなにも汚れることを疎んでいたイナンナが、何度も何度も母親の首を直に食い破り、溢れる血液を被りながら意地汚くずるずると啜り飲んでいく。


「ああ……気に食わぬ……! 奪われていく……総てが……我の……永遠の未来が――」


 ネイトの肉体から潤いが失われ、皺が刻まれ、萎んでいく。

 枯れ木のようになるまで体液を吸われると、あまりに軽い音とともに床に倒れ伏した。


「うううああああ……ああああああああッ!」


 自分が殺した母親を見下ろして、イナンナは涙を流していた。

 そこにいたのは神でもなんでもない、親に裏切られ泣いているだけの子供だった。


「――イナンナ」

「うるさいッ!」


 声をかけたヒレブレヒトは念動力で吹き飛ばされ床に転がった。


「もうどうでもいいの! わーはただの道化だったということでしょう!? そうよ、わーは所詮馬鹿で愚かな子供だった……!」


 あんなに美しかった髪は艶を失ってぐしゃぐしゃに荒れ、裸足の脚は傷だらけ。

 襤褸を纏ったような服らしきものには美学のかけらも感じられない。

 その手の上で溶けたガラスがうねり、透き通ったクリスタルの剥き身の剣が出現する。

 柄すらなく、ただの刃でしかないそれの一端を握り、イナンナは儚く嗤う。


「馬鹿で愚かな子供の我が儘で世界が滅んだら、笑い話くらいにはなるかしら」

「……イナンナ。もういいじゃない」


 カフカはネイトの遺体の傍らに座り、妹に語りかける。


「お母さんは死んだ。もうアンタを縛るものは何もない。好きに生きればいいじゃない」

「黙れ! 利用される価値すらなかった奴が姉面をするな!」


 イナンナはカフカの眼前に刃を突き付ける。


「カフカ!」


 ヒレブレヒトが彼女を守ろうと駆け出すが、ガラスの刃はすぐに振り上げられる。


「全部全部壊してやるわ――まずはそのほーからよ……!」


 振り下ろされる刃の下へ、カフカを庇おうと飛び込むヒレブレヒト。

 しかしあと少しの距離が間に合わない。


「――ちゃんと守ってやれっつったろバカ野郎」


 カフカを狙った刃は、ダーナの胸を斜めに切り裂いていた。

 ダーナは大量に血を吐き、細い体はぐしゃりと崩れた。


「ダーナ……?」


 一瞬呆けたように呟いたイナンナだが、すぐに鋭い視線で彼を睨む。


「ずっと母上と通じてわーを裏切っていたのね……当然の報いよ……!」

「そうだな……間違いない……」


 ダーナは吐血でゴボゴボと溺れそうになりながら応える。


「奴の言いなりになって……79人の妹を殺した……。おまけに、奴を殺すためにお前を利用した……最低のクソ兄貴だ……俺はずっと、こうしてお前に殺されたかった――」

「――な、によ……それ……!」


 刃を握りしめるイナンナの手からも血が滴っていた。


「イナンナぁ……」


 ダーナは光を失いつつある目で妹の姿を追いながら、か細い声で言う。


「……湯あたりには、気をつけろよ。長風呂し過ぎんな……」

「――うるっさいのよ!」


 イナンナが握りしめたガラスの剣が砕け散り、床に散らばった。


「裏切者め! そのほーの思い通りに事が運ぶと思うな! そのほーの命を握っているのはこのわーだ! 殺されたかっただと? 自分の贖罪のためわーを利用しようなどと二度と考えるな! 兄? そのほー風情がこのわーの兄を名乗るな! そのほーはわーの従者だ! そのほーの生涯をわーに捧げよ! あと煙草臭いのよ! わーの前で吸わなければいいと思ってるんじゃないわ!」


 早口で捲し立て、息を切らすイナンナ。

 その眼前で、ダーナの傷はすっかり治っていた。


「――分かりましたよプリンセス。禁煙するよ、明日から」

「……今日からよ、愚か者」


 神でなくなった少女と、彼女の『ヒーロー』になった男は、疲れたように座り込んだ。

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