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第31鮫 継承

 気がついた時には、独りで霧深い森の中を彷徨っていた。

 自分の名前も、どこから来たのかも、どこへ行くつもりなのかも分からない。

 ただ酷くお腹が空いていた。

 手足の感覚もおぼろげで、あてどなくふらふらと歩き続けた。


 不意に、荒々しい呼吸の音がどこかからしてきて、そっちへ足を向けた。

 太い木の幹にもたれかかって、体の大きな男の人が地べたに座っていた。

 その人のお腹は大きな傷がつけられ、破れて内臓が地面に零れ出していた。

 その人は青白い顔をこちらに向け、微かに笑ったように見えた。


「……おいで」


 その人は息も絶え絶えにそう言った。

 言う通りに近くまで来ると、その人は手を伸ばしてアタシの頬に触れた。

 分厚くてごつごつした手の平だった。


「ごめんなあ……」


 その人は呟いて、着ていたジャケットを痛みに呻きながら脱ぎ、アタシに羽織らせた。

 サイズが大きくて膝まで隠れ、おまけに重くて、変な臭いもした。


 くきゅるるる~。


「……お腹、空いたか」


 アタシは頷いた。


「いいぞ。好きなだけ食え」


 その人はにっこり歯を見せて笑った。

 アタシはその人の露出した内臓から食べ始めた。

 生まれて初めてご馳走を食べたみたいに、頭の中で火花が散ったみたいだった。

 お腹も空いていたから、夢中で食べ進んだ。


「美味しいか。当然だ……愛情たっぷりだからな……」


 その人は、自分を食べるアタシの頭に手を置いて、そっと撫でてくれた。

 アタシの目からは勝手に涙が零れてきて、鳴き声を漏らしながら食べた。


「いっぱい食べて、大きくなれよ」


 それが最期に聞いたその人の言葉だった。


 気がつくと、もうその人はどこにもいなかった。

 地面に染み込んだ血溜まりと、アタシの肩にかけられた大きすぎるジャケット。そしてお腹を満たす幸福な満腹感だけがその人の痕跡だった。


 ごわごわするジャケットに頑張って腕を通そうともがいていると、ポケットから写真が落ちてきた。

 そこにはその男の人と、小さな男の子、そしてアタシみたいなブロンドの女の子が、幸せそうに微笑んでいた。

 裏返すと、3人の名前が並んでいた。


 お腹がいっぱいになったアタシは、それからどこまでも力強く歩き続けられた。

 あの人の愛情が、想いが、魂が、心に宿って背中を押してくれている気がしたから。

 そして数日後、とある村にたどり着き、優しい(サメ)たちに受け入れてもらった。


「あなたのお名前はなんていうんだい?」


 そう尋ねられたアタシは、迷わず答えた。


「――カフカ」


 アタシに命をくれた人の娘の名を。


■□   □■


 カフカの独白を聞き、ヒレブレヒトは大きく息を吐く。


「父さん……」

「ずっと……言わなきゃって――レヒトに謝らなきゃって思ってたのに……言えなくって……」


 ポタポタと落ちる涙の滴が、カフカの太ももを濡らす。

 肩を震わせる彼女は、子供に戻ったかのようにしゃくりあげる。


「しかもレヒトのお姉さんまでアタシが食べたって知って……プリルリちゃんだって――もうアタシ、レヒトのために何をしたら償いになるのか、なんにも分かんなくて……」


 カフカはジャケットの袖で顔を覆い、か細い言葉を搾り出す。


「ごめんなさいレヒト……アタシ…………レヒトの家族――みんな食べちゃったぁ……」


 嗚咽を漏らし、声を上げて泣き出したカフカ。

 ヒレブレヒトは項垂れながらも、穏やかに語りだす。


「生き残りの人間を探すこと。それと、家族を見つけること。それが僕の目標だった。以前の僕なら、家族を食ったサメを許さなかったかもしれない」


 でもね、と彼は続ける。


「今は分かるよ、父さんの気持ち。自分の身を削ってでも家族に生きていてほしかったんだよ――例え君が本人じゃなかったとしても」

「レヒトぉ……」


 ヒレブレヒトは自分の右手の人差し指を咥え、犬歯で思い切り齧った。

 指の腹が痛み、口から出すと真っ赤な血が滴っている。


「あ……」


 血の匂いが鼻腔をくすぐると、本能に浮かされたのかカフカは頬を紅潮させ唾を飲み込んだ。

 ヒレブレヒトは血に塗れた人差し指を彼女の口許へ差し出す。


「僕も君に生きていてほしい。姉さんや父さんやプリルリの命を受け継いでいるからというだけじゃない。この数ヶ月、一緒に旅して、一緒に戦って、一緒に泣いて、一緒に食事をした君にこそ、一緒に生きていてほしいんだ」


 ブラウン管の向こうでは映画がラストシーンを迎えていて、ついに戦い終えた主人公が家族や仲間達との安らぎの時を取り戻し、誰もが幸せそうに笑い合っている。

 画面からの灯りを反射した潤んだ瞳を光らせ、カフカはやや息を荒げてヒレブレヒトを見上げて口を開き、返事の代わりに舌を伸ばす。

 彼の指から赤い雫が落ち、彼女の舌に染みて唾液と混じり合った。


「んっ……!」


 口腔に鉄の味と薫香が広がり、カフカの脳に電流のような刺激が迸る。


「――ひゅごぃ、こぇ……」


 我慢できずに人差し指に舌を沿わせ、流れ出る血液を夢中で舐め取っていくカフカ。


「んむっ……っは……はぁ……最初に会ったとき齧った腕も美味しくて、いつか味わってみたいと思ってはいたんだけど――その時の比じゃないよ……! こんなの味わったら、他の(サメ)のなんて食べられなくなっちゃうじゃん……」

「父さんも言ってたんだろ? 『愛情たっぷり』だからじゃないか?」

「……バカ」


 カフカは指を咥え込み、表面の血を残らずしゃぶり取る。

 しかしヒレブレヒトは不死身の『ヒーロー』。すでに傷口は塞がり、血も止まっていた。

 カフカはしばらくの間、躊躇うように指にゆっくりと舌を絡ませていたが、おずおずと肌に歯を立てた。

 上目遣いでヒレブレヒトに熱っぽい視線を送る。

 ヒレブレヒトは小さく頷いた。

 カフカは荒い息を吐きながら両手を彼の手首に添え、そっと人差し指の第1関節にサメの歯を食い込ませる。

 ぶつん、という感触と共に皮膚が破られ、血が溢れだし、カフカの喉を潤す。


「んんッ……! ~~~~っ!!」


 味覚から濁流のように快感が押し寄せ、眉間に皺を寄せて声にならない嬌声を上げたカフカは、つい歯を食いしばった拍子に第1関節で指を食いちぎっていた。


「んイ……ッ!」


 肉の味で味蕾を震わされたカフカは痙攣したように全身を硬直させ、溺れかけたかの如く必死に酸素を取り込む。


「カ、カフカ……?」

「レヒトぉ……もっと……もっとちょうだい……」


 瞳を蕩けさせたカフカはもう止まらない。

 遠慮などかなぐり捨て、ヒレブレヒトの指にむしゃぶりつき、野菜スティックのようにボリボリと齧っていく。


「おッ、おいひッ、レヒトのぉおいひいぃ……ッ!」

「ちょ、ちょっと待ってカフカ!」


 あっという間に手の平まで無くなり、袖口にまで顔を突っ込んできたカフカの血と唾液でべちゃべちゃの頬っぺを押さえて留める。


「やっ、やッ! 止めないで! 止めちゃやだぁ!」

「このままじゃ食べづらいでしょ。服脱ぐだけだから……」

「あ、アタシも脱ぐ……! 暑いし……!」


 ヒレブレヒトが毛皮の服を脱いで半裸になると、カフカもふぅふぅ言いながらジャケットを脱いで紐ビキニ姿になった。


「もういい? レヒトのお肉食べていい?」

「いいよ」


 たちまち飢えた犬のように飛びかかってくるカフカ。

 ヒレブレヒトはソファに押し倒され、互いに汗だくで光る身体を押し付け合う。


「ぉぶっ……んむグ……っぱ……ンおオっ……!」


 意味のある言葉を発することを諦めて一心不乱に腕を齧っていくカフカを左腕で抱きながら、ヒレブレヒトはぼんやりと天井を見ていた。


 当然だが痛みはある。生きながら食われているのだ。通常なら意識を保っているのも難しいかもしれない。

 ところが今、彼は暖かさを噛み締めていた。

 大量に血を流しているのに、寒さも感じない。

 肉を咀嚼し、血を啜り、骨を噛み砕かれる音ですら、家族が優しく自分の名を呼ぶ声にも聴こえる。

 今二人は最も密接なところで繋がっているのだ。

 心が混ざり合い、愛情をぶつけ合っている。


 カフカが右腕をほぼ食い尽くし、肩の辺りまで上がってきた。

 ヒレブレヒトの顔の2センチメートル先に彼女の顔がある。

 目が合い、見つめ合った。

 真っ赤に汚れた口の周り。唇から覗く尖った歯列。

 彼を見つめる蕩けた瞳。

 美しいと思った。

 姉とは違う、この欲望に忠実な人間サメの少女のことを。


「綺麗だ」

「レヒト――」

「カフカ――」


「あのぉ~……すいません」


 まだ2人が開けてない方の扉が開かれ、身長3メートルの修道女が腰を屈めて顔を覗かせていた。


「ここに生き物を収容したことがなかったもので、給餌するのをすっかり失念していたのは私めの失敗なので偉そうなことは言えないのですが……共食いはご遠慮願えますか?」

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