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第26鮫 共に在るサメと星空の下の誓い

 ぐずぐずと崩れていく右腕の痛みに呻き、立っていられなくなった彼をカフカが支える。


「ど、どうしよう……止血! 止血しないと……」


 カフカは焦りながらも、すでにボロボロな自分のジーンズの右脚部分を根元から破り、ヒレブレヒトに羽織らせていたジャケットを脱がせ、辛うじて残っている彼の右腕の根元部分にデニム生地をねじって巻きつけきつく結ぶ。


「レヒト、大丈夫。大丈夫だから――」


 譫言のように呟きながら、痛みとショックで痙攣し脂汗を流しながら唸っているヒレブレヒトの背をさするカフカ。

 しかしその眼前で、ヒレブレヒトの身体の数カ所――胸や腹、左腕に、数センチの孔が開き、鮮血が噴き出していく。

 カチンコチン小鉄の鎧の棘で磔にされた際の傷だった。


「――なんで!? なんでこんなことするの!? レヒトはアンタらの目当てじゃなかったんだからどうでもいいはずでしょ!?」

「不死身の存在は世界に唯一、神たるわーのみで十分」


 カフカの悲痛な叫び声に、リラックスして眺めていたイナンナは感慨無さげに答える。


「その男は美味しかったし生かしておいてもよかったのだけれど、仕方ないわね。他の人間を探して飼うとするわ」

「……人間を……飼う、だと……?」

「レヒト……」


 ヒレブレヒトは、痛みで遠くなる意識をなんとか怒りで繋ぎ止める。


「させるか……そん、なこと……!」

「いいじゃない生きていられるだけ。そもそも神たるわーの統べる世界に人間を生かす予定など無かったのだから」

「お、お前は……何がしたいんだ……」

「わーはわーに治められるに値する世界を造るの。わーの認めた素晴らしいものだけが存在する素敵な世界。一体どれだけの者が神たるわーの眼鏡に適うかは分からないけれど……残る者がどれだけ僅かでも、理想のためだもの。涙を呑んで無駄は削ぎ落すわ」

「無駄、だと……? お前の基準で……他人の命を量るんじゃ――」

「もういいよレヒト! 理解し合えない奴と話すだけ無駄! 逃げよ!」


 カフカの周囲に風が渦巻く。

【アクリッド・マリネード】と【南風を背(トウェルブ・オ)に受けて(クロック・ハイ)】を習得した分【9998(クレイジー・)言祝ぐ奏(フォー・ユー)】と【鐵撞木(くろがねしゅもく)】は失ったが、飛行能力は保持している。


「プリルリちゃんも、飛ぶよ!」

「――あ、うっ……」


 プリルリはずっと心此処に在らずという状態で突っ立っていた。

 ただ『ヒーロー』でなくなったヒレブレヒトを見て、呆然としていた。

 今にも崩れ落ちそうなヒレブレヒトに肩を貸したまま、カフカは手を伸ばす。


「早く! 手を握って!」

「逃がすと思うのかしら。頭上をよく見てから羽を伸ばすことね」


 イナンナが余裕の表情で脚を組み替えた。

 爆発で巻き上がった煙や塵で煙った空を、何かが大量に蠢いている。

 カフカはその光景に見覚えがあった。


「――まさか……アンタなの……? 大統領を殺したっていうのは」

「支配者を僭称する者をわーが生かしておくとでも?」


 イナンナが片手を振るうと、空気中の塵が一気に薙ぎ払われた。

 どんよりと空を覆う雲の下で、数百という単位の飛行サメが空を覆っていた。


「【市民は衆愚が望ましい(デーマゴーゴス)】――2人抱えてこの防空網を抜け出せる自信があるなら、飛んでみればいいんじゃない?」

「くっ……!」


 カフカを取り巻いていた渦は消え去った。

 1人でも、50頭の飛行サメ相手に逃げ切れなかったのだ。どう考えても不可能である。


「わーは奪い取るよりも、献上される方が好みなの」


 両手をぽんと合わせて、首を傾けてカフカを眺めるイナンナ。


「【舞台の上(フェアリーテ)の王子様(イル・コード)】の持ち主、その少女を神たるわーに供物として捧げなさい」

「何をバカな――」

「うグぁアアアアアアア……ッ!」

「レヒト!?」


 苦悶の声を上げるヒレブレヒトの露わになった上半身が、煙を上げながら黒く炭化していく。喉や気管も焼け爛れ、明瞭な声も出なくなり、呼吸をするだけで激痛に襲われる。

 マリネの酸をかけられた痕が蘇ったのだ。


「ほぉら、早くしないとその人間死んじゃうわ。少女を献上するなら命は助けてあげる」

「何が神だよ……この悪魔……!」


 カフカは奥歯が砕けそうなほどに歯を食いしばる。


 プリルリを差し出すなどという選択肢はない。

 しかしこのままではヒレブレヒトは確実に死ぬ。

 戦っても勝てる見込みがない。

 プリルリを差し出せばヒレブレヒトの命は助けるとイナンナは言うが、どこまで本気なのかも分からない――それでも……。


 カフカは自分の内に宿る魂が叫ぶのを感じていた。

 ヒレブレヒトを死なせたくない。死なせてはならない。

 ――何を犠牲にしても。


「――馬鹿なことは考えるなよ、カフカ」

「レヒト……!」


 掠れてほとんど聞き取れないほどの声で囁いたヒレブレヒトは、不格好な壊れた人形のように数歩カフカの手から離れると、落ちていたカフカのジャケットを残った左手で拾い、彼の姿を呆然と見ていたプリルリの肩に羽織らせた。


「で……でも、レヒト……しん、死んじゃうよ……! 痛いでしょ……?」

「どれも、一度経験した痛みだ……我慢するよ……。でもここでプリルリを差し出したらさ……たとえ、命は助かっても――人間として僕は死ぬんだ……分かってよ」

「――うぅぅぅぅ……っ!」


 カフカは嗚咽を噛み殺しながら、プリルリを庇うように抱きしめた。

 その前に立ちはだかったヒレブレヒトは、瓦礫の中に落ちていたカチンコチン小鉄の生成した鋼鉄の棘を拾い、左手だけで肩に担ぐ。

 焼死体のような上半身で唯一無事な左目で、イナンナとダーナに眼光を向ける。


「不死身でなくたって、僕は彼女を守る――ヒーローは嘘をつかないから」


 イナンナは心底がっかりした様子で肘をついた。


「――あの時お風呂で吸い尽くしておくんだったわ。そんなに命を捨てたいなら、お望み通りにしてあげる」


 嫋やかな仕草で指を鳴らした。

 空を覆う何百という飛行サメが、気流の尾を引いて急降下突撃を開始する。

 ヒレブレヒトはその中で最初に落ちてきたサメに狙いを定めて、棘で槍のように突き、串刺しにしたサメを棍棒のように振り回して全方位から降り注ぐサメを薙ぎ払う。

 一挙手一投足に全身を裂くような痛みが襲うが、掠れ切った喉で血を吐きながらの絶叫で打ち消し、死の恐怖から目を反らして動き続けた。


「よく見て、プリルリちゃん」


 立ち尽くすだけの少女を抱きしめ、カフカは必死に呼びかける。


「プリルリちゃんを守るためにレヒトは戦ってる。彼はアナタのヒーローでしょう? 弱気なところもあって、泥臭くて、自分のことで精一杯になったときもあったけど、絶対にアナタを見捨てずに命だって懸けられる、とってもかっこいいヒーローだと思うでしょ?」

「不死身の力を取り戻そうとしてるなら無駄だぜ」


 ダーナが手をポッケに突っ込みながら横槍を入れてくる。


「そいつはプリルリちゃんから受け取った力を自分で捨てたんだ。一度捨てたものを、『やっぱ無しで』は通用しねぇのよ。もう()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のさ」


 残された希望もガラガラと崩される音がした。

 ヒレブレヒトは後先考えない動きで、襲い来るサメを片手で打ち払い続ける。

 カフカも【南風を背(トウェルブ・オ)に受けて(クロック・ハイ)】で飛行サメの軌道を逸らして援護をするが、このような無謀な戦闘は、既に終わりが見えていた。

 カニサメとの戦闘で負った左脚の骨折が再発し、立てなくなったヒレブレヒトにカフカに給水タンクへ蹴り込まれた際の全身の打撲が追い打ちをかけ、完全に動きが止まった。


「レヒト! あぐ……っ!?」


 それに気を取られたカフカも飛行サメの急降下突撃を喰らい、プリルリの許から弾き飛ばされる。

 そして彼女らの眼前で、ヒレブレヒトの左腕にサメが食いついた。


「クソッ……」


 悔しさを漏らした彼の全身にたちまち他のサメも歯を立て、四肢を好き勝手な方向へ食い千切っていく。


「レヒトおおおおおおおおおおおおおおおお……っ!」


 カフカの慟哭が虚しく響く中、イナンナがスッと手のひらを見せると飛行サメの襲撃が止んだ。ヒレブレヒトの余った部分が、ゴミのように転がっていた。


「終りね。さあ、こちらにいらっしゃい。神たるわーの永遠の支配の礎となりに」


 そうプリルリを招く。

 プリルリはとぼとぼと数歩前に出ると、プリルリの側に控えるダーナを見た。


「――わたし、もう迷わないよ」


 そして首から下げた、オレンジ色の炎の輝きを秘めたファイアオパールのジュエルシャークの歯のペンダントを握りしめ、そっと細い首に当てた。


「あなたにはあげない」

「そのほー何を……やめ――」


 彼女の思惑に気づいたイナンナの制止も甲斐なく、プリルリはペンダントで己の首を力いっぱい掻き切った。

 頸動脈が切断され、勢いよく噴き出した鮮血が羽織ったジャケットと地面を濡らす。


「愚かなことを!」


 イナンナは椅子から立ち上がり、身一つで浮遊すると倒れようとしていたプリルリを捕まえ、首の傷口に直接口を当てて流れ出す血を飲み始めた。


「ああ……あああ……」


 目の前でヒレブレヒトを喪い、さらにプリルリの命まで吸い尽くされようとしている。

 絶望に打ちひしがれるカフカの耳に、プリルリの呟きが聞こえた。


「――わたしも……いっしょに、まもりたかった……カフカみたいに――」


 顔を上げると、白くなっていく顔でプリルリは微笑んでいた。


「――いっしょに……これからも、ずっと――」


 その言葉を最期に、小さな体は力を失った。


「……神たるわーに、こんな醜い真似をさせたこと……忘れないわよ」


 イナンナは口元や服を血で真っ赤に染めたまま、ふわりと椅子の上へ戻り不機嫌さを隠さず足を組んだ。


「興が醒めたわ。行くわよダーナ」

「はいはいプリンセス」


 さっさと浮かんでいく椅子の後に続きかけて、ダーナは足を止めカフカへ向き直る。


「あのレーザーディスク、劣化する前にさっさとどうにかしないと価値無くなっちまうから気をつけろよ。『コレクター』によろしくな」


 それだけ一方的に言って、ダーナは大股で歩き去っていった。


 いつの間にか飛行サメの群れも姿を消し、代わりに雨粒が落ちてきた。

 誰もいなくなり、だんだんと雨脚が増してくる爆心地で独り、カフカはすすり泣きながらヒレブレヒトの身体を出来る限り搔き集め、プリルリの身体の側に共に置いた。

 プリルリも既に冷たくなり始め、濡れた赤毛がしっとりと顔に張り付いている。


「最期に戦ったんだね、プリルリちゃんなりに……。かっこよかったよ」


 そっとプリルリの頬を撫で、血や泥を拭い去る。

 短い間ではあったが、共に旅をした思い出がいくつも過っていく。


「――まだ、終わらせないよ。いろんなとこに行こう。いろんなことをしよう。いろんなものを食べよう。3人で、これからもずっと――」


 カフカはプリルリの身体を持ち上げ、強く抱きしめた。


「――一緒に、ヒーローを守っていこうね」


■□   □■


 視界の右端に消えかけの夕焼け。左側の大部分は既に夜に侵され、雲は去り星が瞬き始めていた。

 ヒレブレヒトは自分が目を覚ましたことにまず驚いた。

 全身を襲う痛みの中、左腕から飛行サメに食い千切られていく感覚は確かに覚えている。

 しかしもう痛みは無く、無事な手足は後遺症すらなく力が漲っている。

 起き上がると、そこはまだ廃工場の爆心地の中で、地面はぬかるんでいた。

 すすり泣きが聞こえて右隣を見ると、大量の血が染みた軍用ジャケットを着た背中が、自分の身体を抱いて寂しそうに座っていた。


「――カフカ……?」


 名を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返る。

 泣き腫らした目は赤くなり、顔は血と塵と涙とでぐちゃぐちゃに汚れていた。


「レぇヒトぉ……」


 幼い子供のようにしゃくりあげるカフカの腕の中には、見覚えのあるワンピースが畳まれて抱かれていた。


「プリルリの――プリルリは……? まさかイナンナに――」

「違うの……プリルリちゃんは、自分で――」


 嗚咽交じりのカフカから、ヒレブレヒトは一部始終を聞いた。

 プリルリが自らの喉を切り裂き、イナンナに一矢報いたこと。

 最期に彼女が言い残したこと。

 そして――


「プリルリちゃんの想いと魂……そして【舞台の上(フェアリーテ)の王子様(イル・コード)】はアタシが受け継ぐ」


 カフカは胸に下げたファイアオパールのサメの歯ペンダントを握りしめた。


「そしていつか絶対にプリルリちゃんを蘇らせる『簒奪形質(カルマリウム)』を見つける。不死身の力を与える能力だってあるんだもん、きっと世界のどこかにあると思うの。それが今から、アタシの旅の目的」


 今にも沈もうとする赤い夕陽が、カフカの髪を黄金色に輝かせる。


「それまで――アタシの『ヒーロー』でいてくれますか?」


 ヒレブレヒトは、その哀しくも美しい姿に初めて姉としての面影を重ねることなく、カフカという存在を見れた気がした。


「――僕の旅の目的は変わらない。人間を探すこと。でもその前に、イナンナを止めなくちゃいけない。彼女の好きにさせたら、人間もサメも絶滅させられるかもしれない。何のプランも勝算も無いけど……それでも着いてきてくれますか?」


「もちろん。ずっと一緒だよ――アタシも、プリルリちゃんも」

「僕はヒーローになるよ。カフカもプリルリも、みんなを守って生き抜いてやる」


 カフカはヒレブレヒトの胸に寄り添い、ヒレブレヒトはカフカの身体を抱きしめ、星が煌めく夜空の下で、2人は疲れ果てるまで一緒に泣いた。

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