第21鮫 人喰いサメと女神の舌
「【鐵撞木】ッ!」
襲い掛かってきたピューマサメによって崖のようになった岩場の端まで追い込まれたカフカ達だったが、なんとかカフカの蹴りによって撃退することができた。
「ふ~……間一髪だったぜ。もうちょっとで真っ逆さまにウオッ!?」
「ひゃあああ!」
プリルリをおんぶしていたダーナの足元の岩が崩れ、崖下へ転がっていく。
ダーナは咄嗟に別の岩に両手でしがみついたが、完全に宙ぶらりんの体勢に。
「ひ、ひィー……!」
慌ててカフカが駆け付けて覗き込む。
「大丈夫!?」
「大丈夫じゃない!」
「早く掴まって!」
「まず先にこの子を!」
ダーナの言う通り、彼の首に抱き着いてぶら下がっているプリルリにカフカはまず手を差し伸べ、崖の上へ引き上げる。
「プリルリは大丈夫! さあ手を――」
「もう……ムリ……」
握力が限界に達していたダーナは、手が岩から離れ崖下へ落下していく。
「ダーナさあああああああああああああああん!」
■□ □■
「んんー、なかなか気持ちいわよ。手馴れているわね」
「プリルリにもせがまれたりしたことあるから……」
浴場の椅子に座らせたイナンナの頭をシャンプーしてやるヒレブレヒト。
触った感じ一切汚れなど付着していない頭皮を優しく揉む。
「……いくつか質問していいか?」
風呂場で裸の男女が無言でいる空気に耐えられず尋ねると、イナンナは息を吐いた。
「シャンプーの腕に免じて許すわ。何?」
「あなたは一体何者なんだ? 神とかなんとか……」
「――この惑星に生きる総てのサメの祖であり、総てのサメを統べるもの。あらゆる生物種の食物連鎖の頂点に個として立つ絶対的支配者。それがわーの偉大なる母上」
イナンナの声に熱がこもる。
「この四億年の間、母上は自らの持つ『食べた生物の形質を奪う』能力を少しずつ分け合た無垢なるサメたちを、海の底で無数に生み出し続けてきたわ。そしてついに海上に上がり、生み出した後継者が完全なる完成品たるこのわーなのよ」
「つまり、女王バチならぬ女王サメみたいなこと?」
「俗で矮小な表現だこと。シャンプーはもういいわ。流してコンディショナーつけて」
黙って指示に従い、丁寧にお湯でシャンプーを流してコンディショナーを手に取り、長い黒髪の毛先から全体へ行き渡るように馴染ませる。
「母上は後継者であり次代の神たるこのわーに、永遠の君臨を望んでおられるの。だからわーは、母上から力を与えられた者達の子孫である世界中のサメから、永劫の神として相応しい『簒奪形質』を徴収しているのよ」
「……『簒奪形質』を奪う『簒奪形質』――手段は? やっぱり、相手を食べて?」
「そんな野蛮なことはしないわ。わーはね、飲むの」
お湯で髪全体を撫でるようにコンディショナーを流していく。
「体液を飲むのよ。【喜びの錬金術師】」
イナンナが右手を挙げると、その周囲の空間が歪み、熱されたガラスが渦巻いて、小ぶりなシャンパングラスが手の中に形作られた。
「これに軽く1杯程度の体液を飲めば完全な形でその『簒奪形質』を得られるわ。さらにこれより多ければ多いほど、元より進化させることもできるの」
イナンナはシャンパングラスをヒレブレヒトに手渡し、立ち上がった。
「わーはね、高貴なる神として在りたいの。だから強引に能力を奪おうとか、そんな野蛮な手段に訴えるのは神たるわーの在り方に反する。わーの言いたいこと、分かるかしら」
「……よく、分からないな」
「髪を洗うのは上手いけれど、嘘をつくのは下手なのね」
イナンナがスッと懐に入ってきて、ヒレブレヒトは驚いて後ずさる。
「ずっと探し求めていたわ。わーが神として未来永劫在り続けるために必須の力を――不死の力を」
濡れて一層艶の増した長髪を体躯に貼り付けて、金色の瞳に爛々と狩人のような光を滾らせ、イナンナは一歩一歩ヒレブレヒトに近づいてくる。
「献上してくれるかしら。多ければ多いほど、わーの覚えは良くなるわよ」
「いや、僕は――」
口ごもりながら後ずさると、ヒレブレヒトの踵が浴槽の縁に当たる。
構わず前進してくる剥き出しの美の結晶から逃げるようにバランスを崩し、ヒレブレヒトは背中から湯の中へ倒れた。
大きな水しぶきが上がり、もがきながら底に手をついて慌てて水面から顔を出す。
眼前に金色の瞳が輝いていた。
「テイスティングくらい、いいわよね」
ヒレブレヒトに覆いかぶさるように張り付いたイナンナは、呼吸のため開いていた彼の唇に自分の唇を重ねた。
抵抗する間もなく、彼女の舌が口内を侵し唾液を舐っていく。
「……!」
イナンナが突然舌を引き抜き身体を離す。
ヒレブレヒトの口から唾液の橋を繋げたままで、神を名乗る少女は彼の前で初めて困惑の顔を覗かせていた。
「……そんな、一体――どういうことなの、そのほーは……そのほーは――」
「僕はサメじゃない。人間だ」
イナンナの『簒奪形質』がカフカのものと似た能力なのだとしたら、もう分かっているはずである。
「だから『簒奪形質』も無い。不死身の能力だって持ってない」
「――そんなこと、いいわ。今はいい。そんなことより……なんて、なんて美味しいの!」
「は?」
イナンナはヒレブレヒトの胴に乗っかったままで悶えていた。
「どんな有用な能力だって、この舌に合わなければわーは飲んだりしないわ。でもそのほーの唾液は、今まで味わったどんなものより甘美。まさに神たるわーの舌を愉しませるにふさわしい天上のフレーバー。何故? 人間とは総てこのように美味なの? それともそのほーが特別なだけ?」
「そんなの知らンむっ」
答える前に再び唇を塞がれるヒレブレヒト。
今度は先ほどよりも丹念に口内を舐り回され、唾液を啜り取られる。その味に熱中しているイナンナは呼吸をする間も惜しんで奥まで舌を侵入させてくる。
「ッ!」
ヒレブレヒトに痛みが走る。イナンナに下唇を噛まれ、唾液に血が滲む。
「あっ、すっごいわこれ……頭がぼーっとしちゃう……」
傷はすぐに塞がるが、その度にイナンナは唇をほんの少し噛んで血を染み出させ、唾液と混ぜて味わい続ける。
「人間美味しっ……サメ達が躍起になって食べ続けたのも頷けるわ……こんな味を一度知ってしまえば……もう他のものじゃ満足できないかもしれないじゃないの……」
ぶつぶつと呟く度に、イナンナの尖った歯がヒレブレヒトの唇や舌を切り裂き血を滲ませていく。
口内の痛みと、湯の熱さ、そして彼を貪る恐ろしいほど美しい女神という状況に、ヒレブレヒトの意識は朦朧となり、いつの間にか浴室の扉が開け放たれていたことに気づかなかった。
「なにやってるの、ヒル……」
そう声を掛けられ、我に返るとそこには薄汚れてボロボロになった3人が立っていた。
怪訝な顔をしていたプリルリの目を塞ぎ、カフカは無表情で震えている。
「アタシ達があんなに苦労してアンタらを探してたってのに、いいご身分ね?」
「い、いやカフカ、これはなんというか、成り行きで――」
「行こプリルリちゃん。あんな男放っておいてカニサメ食べに行こ」
「ヒルさいてー」
「待って! 誤解だって! 説明させて!」
ヒレブレヒトは急いで湯舟から上がって2人を追いかける。
「ちょっと全裸で追ってこないでよ!」
カフカにそう追い返され戻ってくると、ダーナがタオルを持ってきていた。
「迷惑かけたな。イナンナのことは任せろ」
「は、はあ……」
ダーナからタオルを受け取り、ヒレブレヒトは2人を改めて追っていった。
「……邪魔したか?」
「邪魔されたわ」
ダーナは不機嫌そうに唇を尖らすイナンナの許へと歩み寄る。
「あの男は不死身の能力を持っていなかったわ。それどころかサメですらなかった」
「驚いたな。まだ人間の生き残りがいたとは。ホントにチンチン1本しかないんだな」
「今度その単語をこのわーの前で吐いたら殺すわよ」
「すまんすまん」
ダーナはポケットからハンカチを取り出し、風呂の中のイナンナに手渡した。
「あいつじゃないとしたら、こっちなんじゃないか?」
イナンナはハンカチの臭いを嗅ぎ、舌の先でチロッと舐める。
「――なるほど、そういうことだったのね。何が『僕専門のバファー』よ」
イナンナはそう吐き捨てると、プリルリの鼻水のついたハンカチを投げ捨てた。




