第2鮫 大食いサメと岩塩とハーブ
「お腹空いた」
目を覚ました少女の第一声だった。
夜空の下、トラックの脇で焚き火をして飛行サメの肉を焼いていたヒレブレヒトから串を奪い、呑むように肉を平らげると、そのまま周囲に転がっている生の肉片を鷲掴んで口に放り込んでいく。
あっけにとられるヒレブレヒトとプリルリをよそに、サメ10匹分ほどの肉が消えた頃にやっと彼女は一息ついた。
「ごめんなさい、お礼も言わず。とにかくエネルギーが足りてなくて……」
そう頭を下げる少女は、あんなにやせ細っていた体型が普通程度まで回復していた。
「――いや……体調が大丈夫ならいいんだけど……」
「おねえさんよく食べるね」
「でしょー、アタシ食べるのは得意だから」
得意げに笑う少女は、そそくさと焚き火の脇に腰を下ろした。
「改めて助けてくれてありがとう。アタシはカフカ。よろしくね」
「――カフカ?」
「え、うん、そうだけど、なに?」
「いや……何でもない」
ヒレブレヒトは早鐘を打つ心臓を抑えられなかった。
彼女の名乗った名までもが、姉と同じだったから。
姉のカフカ・バーナード。そして父のジョセフ・ブルース・バーナード。
それが彼の生き別れた家族であり、生まれてから見たことのある人間のすべてだった。
「変なこと訊くようだけど……君は、サメだよな」
「うん。アンタはサメじゃないよね? 何?」
ヒレブレヒトは息を飲んだ。
「……な、なんで分かった?」
「味。アタシ、腕に噛みついちゃったでしょ。その時にちょっとね。美味しかった」
ペロリと舌を出すカフカに、ヒレブレヒトは観念し、首のボロ布を外した。
「僕はヒレブレヒト。人間だ」
「わたしはプリルリ。サメだよ」
ヒレブレヒトから焼けた肉の串を受け取りかぶりつくプリルリ。カフカは彼女に笑顔を送ると、ヒレブレヒトの首筋を見て神妙な表情になる。
「……そうなんだ、やっぱり、人間――」
「……『やっぱり』?」
ヒレブレヒトが呟くとカフカはビクッと体を震わせた。
「『やっぱり』ってどういうことだ? まさか人間に会ったことがあるのか? 僕は人間の生き残りを探しているんだ。もしかして君は――」
「ちょっとちょっと落ち着いて! 近い近い! ただの言葉の綾だから!」
「あ……ごめん」
うっかり詰め寄る形になってしまっていたヒレブレヒトは、慌てて座り直して新しい肉の串を火にかけていく。
「その……気持ち悪いことを言うようだけど、実は君が、生き別れの姉さんにそっくりで、しかも名前まで同じでさ……何かあるんじゃないかって、勝手に思っちゃって」
「そっか……分かった! じゃあ助けてもらったお礼に、アタシがアンタのお姉ちゃんになってあげよう!」
「はぁ?」
ドンと胸を叩くカフカに、ヒレブレヒトは気の抜けた声を漏らした。
「何言ってんだ……君いくつ?」
「16」
「僕は19。それに――何より僕は人間で君はサメだろう?」
「なんでサメだと人間のお姉ちゃんになっちゃいけないの。っていうか、人間ってどんな生き物なの? アタシたちサメと何がどう違うの?」
「どうって……」
ヒレブレヒトは咄嗟に答えられず視線を落とす。
そういえば自分自身以外の人間について大して知らないことに思い至る。
「歯が尖ってなくて、エラの跡が無くて――」
「それだけ?」
「あとは……『簒奪形質』を持ってない」
シカを食ったサメはシカっぽくなり、バイソンを食ったサメはバイソンっぽくなり、オオカミを食ったサメはオオカミっぽくなり、人間を食ったサメは人間っぽくなった。
これは元来サメには、食った生物の性質や能力を僅かに奪うという力があったためだ。
さらにこの奪った形質は遺伝させることができ、古代から少しずつ様々な形質を獲得し、継承し、交雑し、千差万別の特殊能力として子孫に発現した。
それがサメ1個体に1つまでの異能力――『簒奪形質』。
異形の肉体など外見で分かりやすいものから、限られた条件でしか発動せず本人ですら気づかないまま生涯を終えるものまで様々だ。
「カフカ、君は空を飛んでたけど、あれが君の『簒奪形質』?」
「んー、そうとも言えるしそうじゃないとも――あれ?」
腕まくりして肉を焼いていたヒレブレヒトの右手を、カフカが持ち上げた。
「アタシ、確かここ噛んじゃったよね? ……なんでもう傷が消えてるの?」
そこには古傷はあれど、真新しい噛み痕は存在しなかった。
「傷がすぐ治る『簒奪形質』……ってわけじゃないんだよね。人間だし」
「ああ……これは――よく分からないんだ」
自分が噛んだところをさするカフカの手をやんわり除けて、ヒレブレヒトはまた焼けた肉をプリルリに差し出す。
「3か月くらい前かな。たまたま行き会った人攫いの集団と戦闘になって、捕まっていた女の子を助けたんだ。それがプリルリだった」
「かっこよかったよ、ヒル。ヒーローみたいだった」
もらった肉にかぶりついて口の周りを汚しながら微笑むプリルリ。顔を赤らめる彼女の黒い瞳に、反射した焚き火が揺らめいている。
ヒレブレヒトは彼女の口をボロ布で拭いてやりながら続ける。
「その時くらいから、怪我の治りが異常に早くなったんだ。あのくらいの傷ならすぐに塞がるし、骨折も数時間あれば治る。モンゴリアンデスワームサメに根元から食われた右脚が生えた時はさすがに気持ちが悪かったけど」
「それって……気持ち悪いで済ませていい話なの?」
「最初は怖かったしいろいろ考えたけど、何も分からないし、単純に怪我が治るのは嬉しいから、深く考えないようにしてる。少なくとも僕が死ななければ、人類は絶滅しないわけだし」
ヒレブレヒトも焼けたサメ肉に歯を立てる。大きなブロック肉を噛みちぎるのに少し苦労している彼の様子に、カフカは気の抜けた笑みで膝に頬杖を突く。
「お気楽……」
「いいだろ別に。で、それからプリルリを故郷に帰すために一緒に旅をしてるんだ。聞いたことないかな、プラムシャーって村。結構遠くまで連れてこられたらしくて、故郷の場所が分からないみたいなんだ」
「プラムシャー……聞いたことない。どんなとこなの?」
カフカが問いかけると、プリルリは肉から顔を上げずに答える。
「うーん……なんにもないよ。小さい村だし」
カフカがヒレブレヒトに目配せすると、彼は黙って肩をすくめた。
今のところプリルリの故郷の情報はゼロなのだ。
「そっか……早く見つかるといいね。帰れる故郷があるならそれに越したことはないよ」
消え入るように呟くと、カフカは焼き加減がレア程度の肉の串を手に取った。
「ちょっと味変しよ」
カフカが肉の上で右手の指をこすり合わせると、粉のようなものが降りかかった。
「えっ……何かけてるんだ……? 垢?」
「んなわけあるか。美味しいよ? 食べてみる?」
得体の知れない物がかかった肉をヒレブレヒトの口元に差し出すカフカ。
「あーん」
「…………」
怪訝な視線をカフカに向けつつ、ヒレブレヒトは恐る恐る肉を齧った。
「ッ! うんまぁっ! 何コレ! 塩……と、ハーブか? 癖になりそうな味だ……!」
「【9998の言祝ぐ奏】――手からクレイジーソルトを出す能力よ」
「クレイジーソルト? なんだそれ」
「知らないけど、そういう能力で出てるんだからこれがクレイジーソルトっていうやつなんでしょ」
「待て待て待て。君の『簒奪形質』は飛行じゃなかったのか?」
カフカはクレイジーソルトのかかった肉を美味そうに貪りながら答える。
「アタシの『簒奪形質』は【選ばれしものの食卓】。食べた相手の能力を使えるようになる能力。3つまでしか覚えられないけどね」
「つまり飛行サメを食ったから飛べるようになって、手からクレイジーソルト出すサメを食ったから出せるようになったと」
「そういうこと。残り1つはお楽しみ。さてと――」
ひと串食べ終わったカフカは、両手を背中に回し、紐ビキニの紐をほどき始めた。
「な、なんだ突然……!」
ヒレブレヒトは慌てて顔を逸らす。そんな彼をプリルリがじっと見ている。
「肉がついてきたからキツくって……。まだまだ食べるから今のうちに緩めとくの」
ビキニの紐を緩めに結び、ベルトも穴2つ分ほど緩め、カフカは立ち上がる。
「よっし! 腐っちゃいけないし、朝までに全部食べ切らないとね!」
「全部? この飛行サメ50頭を一晩で全部食う気か!?」
「ええ」
カフカは大まじめに頷く。
「美味しく食べて、命と魂を血肉として受け継ぐ――それが食事だとアタシは思ってる。だからアタシは、殺した相手は必ず食べきることにしてるの」
「なるほど……。――あれ? 何か落したぞ」
ヒレブレヒトはカフカの足元に四角い紙片を見つけ、拾い上げた。
「写真?」
「あ、ありがと!」
写真をよく見る前に、カフカはそれをひょいと奪い取ってしまった。
――他人に見られたくない写真だってあるか。
ヒレブレヒトは特に気にすることもなく、飛行サメの肉の山へ向かった。
カフカに全て食い尽くされる前に、保存用の燻製肉を作っておくのだ。
彼の背中を確認し、カフカは写真を眺める。
3人の人間が写った家族写真だ。
髭を生やした壮年のがっしりした父親と、ブロンドの少女、そして小さい少年。
裏返すと、3人の名前が消えかかった文字で書かれている。
Joseph、Kafka、Hillebrecht――
「……アタシは――」
消え入るように呟いて、再び写真をしまうカフカを、プリルリはじっと見つめていた。