第12鮫 幻想サメと人間の価値
爆風に曝されつつも、プリルリは必死に街中を見渡した。
群衆の中で妙な動きをしている者はいないか。
爆音と炎に反応している者がいないか。
カフカを追いかけている住民たちはこれほどの爆発をも意に介することなく突撃中。
視点を上げてみたとき、廃マンションの屋上にある給水タンクが目に入った。
その上から落ちそうになったのか、しがみついてもがいている人影がある。
砂埃色のマントを着ており、それを被ってタンクの上に隠れていたようだ。
操られている住人ならさっさと落ちてカフカへの攻撃に移りそうなものだが、そいつは視線だけカフカを追いつつも、なんとか這い上がろうとしている。
「いた! あそこ! マンションの屋上!」
プリルリが指さして叫んだのを合図に、爆心地から炎を纏ったヒレブレヒトが駆け出した。燃えている上着を脱ぎ捨て、露わになった上半身は火傷で焼け焦げている。
猛ダッシュであっという間にマンションの下へ辿り着くと、非常階段を駆け上る。
最後は最上階の窓の縁を足場によじ登って屋上へ辿り着いた。
敵は相変わらず給水タンクにしがみついてぶら下がったままだった。
ヒレブレヒトはタンクに掛かった梯子に手をかけするすると登る。
「な、なんだテメー! 来るな!」
ぶら下がった敵は彼をちらりと確認して足をじたばたさせつつも、カフカから視線を外さない。
何度も蹴られながら、そいつの片足首を掴むことに成功するヒレブレヒト。
彼の片手で優に握り込める細い足首だった。
「降りて……こい!」
体重をかけ引きずり下ろすと、そいつは大した抵抗も出来ず屋上の床に背中から落下した。
「ぐぇあっ!」
ヒレブレヒトは油断せず、転がった影にのしかかると腕をねじ上げて抑え込む。
痛みに呻くそいつのマントをはぎ取った。
「……!? お前がバブチャンか……?」
「放せやクソがぁ! 重いんだよテメー!」
組み伏せられて悪態をついていたのは、みすぼらしい女だった。
手も足も細く、碌に身体を動かしていない者の不健康な痩せ方。絡み合った灰色のくせ毛は艶が無く伸び放題。前髪から覗く目はギラギラと眼光だけ鋭く、充血した白目や濃い色の隈が目立つ。顔の肌も青白く、乾燥してひび割れており、黄ばんだ歯の歯並びも悪い。
まだ20代なのだろうが、頓着されていない外見のせいで若く見えない。
一方、着古した地味なキャミソールと色あせた七分丈のカーゴパンツという服装は、もう10年はセンスが変わっていなさそうな印象だった。
「放せって……言ってんだろッ!」
バブチャンが空いた方の腕を振るうと、ヒレブレヒトの裸の胴に何かが押しあてられた。
その瞬間、全身の筋肉を鋭い痛みが襲う。
「おごぁああああっ!?」
強制的な筋収縮と痙攣で彼はなすすべなく床に転がる。
「ハァッ……ハァッ……調子のってんじゃねぇぞ! ちょっと体がデカいからって……!」
肩で息をし、目には涙まで溜めながら起き上がるバブチャンの手にはスタンガンが握られていた。
さらにカーゴパンツのポケットから小ぶりな拳銃を取り出して両手で構える。
「誰だってオレ様の前では跪く以外の態度は許さねぇんだよぉ……!」
倒れて動けないヒレブレヒトの頭を狙って引き金を引いた。
しかし彼女の手の震えのせいか、そもそもの練度の無さか、銃弾は彼の肩に当たった。
バブチャンは発砲の反動にバランスを崩し尻もちをついたが、ヒレブレヒトが血を流し苦しんでいるのを見て満足気に口角を上げる。
「ひはははははひひひへへっ! どうだよ! オレ様だってな! やれんだろ! なぁ! カスをブチのめすくらいのことはよぉ!」
「レぇヒトぉ!」
大砲の弾のような勢いでカッ飛んできたカフカが、その運動エネルギーを乗せた【鐵撞木】でバブチャンを背中から蹴り飛ばした。
バブチャンは悲鳴すら上げられないまま給水タンクに激突し、床に落下して崩れた。ひびの入ったタンク内に溜まった雨水が彼女の上に降り注いぐ。
「大丈夫レヒト……?」
彼女自身も痩せて限界が近そうなのにもかかわらず、カフカはレヒトを助け起こそうとする。ヒレブレヒトはそれを慮って自力でふらふらと立ち上がった。
「大丈夫だよカフカ……そっちはどうなった?」
「危なかったけど、住人がみんな突然正気に戻ったの」
「きっとあいつの視線が君から外れたからだ」
バブチャンは発見される危険を冒してこのような見通しのいい場所に潜み、給水タンクから落ちそうになっていてもカフカから目を離そうとしなかった。
「きっとそれがあいつの能力の対象になる条件だったんだろう」
「でも……ここからアンダウン・モーテルまで何百メートルもあるのに――」
「――昔から……視力ぐらいしか良いところがなくってよぉ……」
びしょ濡れになって倒れていたバブチャンが体を起こし、2人は身構える。
「それ以外、誉められたことなんか一度も無かった……頭も悪い、体も弱い、見た目もショボい、要領も酷い、性格もセンスも歯並びも髪質も何から何までクソばっか。普通の奴にあって然るべき価値なんざカスほどもない――そんなことばっか言われてきたオレ様によぉ……支配されて恐怖して怖気づいて、なんも出来ずにペコペコする奴ら見てっとよぉ、ホントにスカッとしてたぜマジでさぁ! ヒヒヒヘヘハフハハァ!」
「お前……」
「お? 救えねぇなぁコイツって思ったかぁ? 心底嫌いだなって思っちゃったかぁ?」
顔をしかめたヒレブレヒトに、バブチャンが目をひん剥いて嗤う。
「オレ様の『簒奪形質』、テメーの考察は50点ってとこだ。不思議に思わなかったか? 住人連中全員が正気を失ってその女を襲ってんのに、テメーはなぜ正気だったのか」
「――そういえば……! お前、ここの住民に何かしたのか?」
「逆だよ。オレ様の能力の本質は『オレ様へ向けられた敵意の対象を他人にすげ替える』ことだ。やってんのはあいつらだろ。オレ様にしたいことを替わりに他人にやってるだけなんだからよぉ! 結局どいつもこいつも、オレ様みてぇな自分より下だと思う奴を寄ってたかって死ぬまで虐め抜きてぇって奴らばっかなんだよぉ! つまり、悪いのは――価値がないのは、オレ様じゃねぇ――正義面してオレ様を殺したがるあいつらだ」
全てを憎んでいるかのような眼光を湛える、痩せぎすの女。体中がひっかき傷と吹き出物だらけで、濡れたことで服が張り付き、その体の貧相さが露わになっている。
ヒレブレヒトは、彼女が酷く惨めに思えた。
「それでデカブツ、テメーはオレ様に会っちまったなぁ。敵が何者なのか、どんなクソ野郎なのか知っちまったなぁ! オレ様に敵意を抱いちまったよなぁ!」
「っ……! まさか――」
「【釘の寝台】」
バブチャンは鋭い視線をカフカに向ける。その瞬間、ヒレブレヒトの中に猛烈な怒りが湧いてきた。
――こいつを殺さなければならない。正義のために。
「う、嘘でしょ……ねぇレヒト……?」
「う……ウゥォォオォオオァァアアア!」
怯えて後ずさるカフカへ、ヒレブレヒトが太い腕を振りかざして襲い掛かる。
「フヒヒヒヒハハハハァ! 仲の良い奴に殺される顔を見るのが一番楽しいんだよぉ! それともテメーにその男を殺せるかぁ?」
「ごめんレヒト【鐵撞木】!」
「えっ?」
カフカは迫るヒレブレヒトをハイキックで思い切りブッ飛ばした。
あっけにとられるバブチャンの頭上を越え、彼の巨体も給水タンクに命中し、さっき入ったひびより大きな穴を開けつつタンクの中へブチ込まれた。
「――えっ? えっ?」
「アイツはこれくらいじゃ死なない。ヒーローだから」
カフカはバブチャンの許へずかずかと歩み寄る。
「……く、来るなぁ!」
バブチャンは再び拳銃を構える。
手は震え、その眼には初めて恐怖の色が浮かんでいる。
「テメーだけは……絶対に殺さないと……! オ、オレ様の価値が……!」
「アンタの境遇にだけは同情するけど――多分もうアンタに、味わう価値はない」
カフカは一瞬だけ気流操作を使い、一歩の加速でバブチャンの眼前にまで接近。
「ウワアアアアアアアアアアアアッ!」
「【9998の言祝ぐ奏】」
カフカが右手を振るうと、大量のクレイジーソルトがバブチャンの顔面に降りかかった。
見開いていた目に、最高のブレンド加減で配合された岩塩とハーブが染み渡る。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアア!! 目がァアアアアアアアアアアアアア!!」
「これで多少は美味しくなるかもね」
悶絶するバブチャンから拳銃を取り上げ、もう一度念入りに彼女の目にクレイジーソルトを刷り込んで戦意を削いでおいて、カフカはタンクからヒレブレヒトを救出した。
「ごめんね、痛くして」
「いや……仕方ないよ、うん」
「――ヒル!」
「プリルリ?」
見ると、プリルリが非常階段から屋上によじ登ってくるところだった。
ヒレブレヒトは急いで駆け寄り、彼女を引っ張り上げてやる。
「よく登ってこられたね……」
「うん! ヒルのかつやくを近くでみたくて。でももう終わっちゃった?」
「あ、ああ……」
ヒレブレヒトとプリルリは、塩とハーブに塗れて転がっているバブチャンの前に立った。
「この人が……悪者?」
「まあ、うん」
「……なんか、イメージとちがった」
「……そうだね」
「それでレヒト、どうする、コイツ」
カフカに尋ねられ、すこし考える。
殺す、という選択肢は当然ある。バブチャンの所業を考えたら納得する者は多いだろう。
だが――
「集落の住人に引き渡す。集落の中の問題は、集落の中で解決するべきだ。僕らは結局余所者。結論を出すべきじゃない」
「――そうね。アンタは最初からそう言ってたね」
「でも……もう『簒奪形質』は使えなくしないと。目は潰すべきだと思う」
ヒレブレヒトはナイフを抜いた。
カフカがすぐに「ちょっと待った」と止める。
「なんで? また同じことが起こったら――」
「そうだけど、冷静になって」
カフカは彼の片方の肩を両手でグイっと押し下げ、耳元に口を寄せてささやく。
「無抵抗のか弱い女性の目をえぐるなんて、『ヒーロー』のやることじゃないでしょ?」
「!」
ヒレブレヒトはプリルリを見る。プリルリは彼を見上げて首をかしげて微笑んだ。
全身の火傷と肩の銃創、そしてカフカに給水タンクに蹴り込まれた傷は、いつの間にか全て治っていた。
「そうだ……じゃあどうしたら――」
「だからアタシが代わりにやる」
ヒレブレヒトの手からひょいとナイフを奪ったカフカ。
「カフカ……」
「一緒に頑張るって言ったでしょ。アンタに出来ないことは、お姉ちゃんに任せなさい」
「……分かった」
ヒレブレヒトはプリルリを抱き上げ、屋上の縁まで歩いていった。
「ヒル?」
「君は見なくていい」
そう言って彼女の頭を撫でる。
背後から、バブチャンの悲痛な叫びが上がった。
静かになると、つかつかと足音が近づいてきた。
「はいコレ」
カフカの手からナイフが差し出される。
まるで血などを全て舐め取ったかのように綺麗だ。
「お前……」
「ん?」
彼女の顔を見ると、ちょうど球体を2個ほど含んでいるかのように頬を膨らませている。
ぎゅむっぎゅむっと咀嚼し、一気に呑みこんだ。
「しょっぱ」
「クレイジーソルトかけすぎだ」
屋上からは集落の西側の大部分を見渡すことができた。
静かになった気配を感じ、正気に戻った住人たちがぞろぞろと周囲に集まり始めていた。
「あのさレヒト、バブチャンさ、自分の『簒奪形質』について1つ勘違いしてたことがあったんだけど」
「なに? 食べて分かった情報?」
カフカはコクリと頷いた。
「『自分への害意を他人に移し替える』って言ってたけど、『自分が抱かれてると思ってる害意を実際に他人に抱かせる』というのが正しい」
「……つまり、操られた人が『バブチャンを殺したい』と思ってたから対象を殺しにかかってたんじゃなくて、バブチャンが『みんな自分を殺したいと思ってる』と思い込んでたからああなったってこと?」
「そういうこと。だから安心して。アンタは――殺しの言い訳に正義を使うような奴じゃない。少しは『ヒーロー』向きなんじゃない?」
「そっか……」
内心、引っかかっていた。
バブチャンに操られてカフカに対して抱いた強い殺意――許せない所業を働いたとはえ、酷く惨めに感じた相手を、自分は正義のために殺そうと強く思えてしまう人間なのかと。
人間とはそういう生き物なのかと――
「確かにこれは『自分が殺されるよりも恐ろしいこと』なのかもしれない……」
「ちゃんとダビドフさんにも報告しなきゃね、帰れるって。ヤホールさんにも会えるって」
「ああ」
そう頷くヒレブレヒトをマンションの下から見つけた住人たちが、『ヒーロー』を見上げて笑顔で手を振っている。
その光景に、プリルリは満足気に微笑んでいた。




