第1鮫 空飛ぶサメと最後の人間
シカサメが道路を横切って荒野を疾走していく。
バイソンサメは群れを成して夏草を噛んでいる。
その様子を岩場の陰からじっと見ているのはオオカミサメだ。
サメが陸上に進出してきたのはもう100年以上も昔のこと。
シカを食ったサメはシカっぽくなり、バイソンを食ったサメはバイソンっぽくなり、オオカミを食ったサメはオオカミっぽくなって、オリジナルの生物を駆逐していった。
もはやこの地球上で暮らしている動物は、ゾウから虫に至るまで、ほとんどが元々の生物を食い尽くし生態的地位を奪ったサメなのだ。
しかし人類はまだ絶滅してはいない。
彼がまだ生き残っている限りは――
「サメがみんな海の中にいた頃は、肉が臭くて下処理が大変だったらしいよ」
おんぼろピックアップトラックの左ハンドルを握る青年――ヒレブレヒト・ブルース・バーナードは、首元を隠すように巻いたボロ布を下げて、保存食であるイノシシサメの干し肉をしゃぶりながら、助手席の赤毛の少女に語る。
「そうなの? こんなにおいしいのに」
赤毛の少女――プリルリも同じく干し肉をしゃぶりながら、代わり映えしない地平線を眺めている。
トラックが走っているのは荒野を貫くかつての幹線道路だ。あちこち隆起したり陥没したりで亀裂が走り、夏草が生えて元の地面に戻ろうとしている。
車体は大きく揺れるが、「舗装されている」と言えるだけ路面状況はマシな方だ。
「普通の魚は体内に浮袋があるんだけど、サメはそれが無くて、代わりに尿素って物質を溜め込むことで浮力を得てたんだって。サメが死ぬと、この尿素がアンモニアってのに変化して臭うんだ」
「ふーん」
プリルリは適当な相槌を打つ。いかにも暇そうだ。
もう何日も同じ風景の中を走ってきたので、もう飽き飽きなのだ。
「でも陸上や空中に出ちゃえばもう尿素は要らなくなった。だから今のサメはもう尿素を持たなくなって、下処理なしでも美味しく食べられるようになったとかなんとか」
「へー。じゃあさ、このお肉みたく、わたしも食べたらおいしいのかな」
プリルリはワンピースから覗く自分のふとももを指で摘まみ、ニィっといたずらっぽく唇を歪めて、覗き込むようにヒレブレヒトに視線を送る。
「それとも、ヒルの方がおいしかったりして。人間ってどんな味なんだろう」
その口から覗く歯列はギザギザと尖っている。
当然、彼女も人間の姿へ進化したサメである。
艶やかな長い赤髪と、黒蜜のような瞳。13歳という年齢より幼く見える小柄な体。
一見人間のようだが、尖った歯と、首元に5つ並ぶエラの痕跡が、彼女が人間の姿をしただけのサメであると主張している。
「……できれば考えたくないな、自分が食われる側に回る場面なんか――」
「ヒル、あれ……っ!」
プリルリが唐突に何かを指さした。
どんよりとした曇り空をサメの群れが入り乱れるように飛んでいる――飛行サメだ。
海の中を泳いでいた頃とあまり変わらない姿のサメ達が大空を自由に泳いでいる。
飛行サメの群れ自体は特別珍しいものでもないが、群れが追い立てるように襲い掛かっている相手が異様だった。
「――人が、飛んでる……?」
明らかに五体を備えた人間っぽい姿がふらふらと宙を飛び、そこへ飛行サメが波状攻撃を仕掛けている。だんだんと高度が下がってきており、このままでは墜落しそうだ。
「ヒル!」
「ああ! 掴まって! 揺れるぞ!」
アクセルを踏み込み大きくハンドルを切る。
トラックは道路を外れ荒れ地にタイヤを弾ませ、車体が大きく跳ね上がり、プリルリは慌ててシートにしがみつく。
ヒレブレヒトは右手でハンドルを握り、窓を開けて上半身を乗り出した。
灰色の空を縦横無尽に、灰色の飛行サメたちがドッグファイトを繰り広げている。
その標的は一人の少女である。
ブロンドを激しく乱れさせながら、彼女もまた飛行サメの隙間を縫うように曇り空を飛び回っていた。
しかしその速度はずいぶんと鈍り、気流にあおられてバランスを崩し、高度は急激に落ちていく。獲物が弱ったのを悟った飛行サメたちが我先にと群がってくる。
このままでは食われるか、地面に激突するかという危機的状況。
「間に合わない……!」
ヒレブレヒトは歯噛みする。まだ彼女の直下まで数十メートルはある。
墜落までもう少しというところで、地上付近で待ち構えていた群れの中でもひと際巨大なサメが、豪邸の玄関口ほどの大口を開けて彼女を一飲みにしようとした。
その瞬間を狙い澄ましていたかのように、少女が動く。
一番近くにいた中くらいのサメの背中を蹴り飛ばし、その反動で巨大飛行サメの口の中に自ら飛び込んだ。
「食べられちゃった!」
「いやまだだ!」
ヒレブレヒトは腰のホルスターからリボルバー式拳銃を引き抜き、左手で即座に発砲。
銃弾は少女を呑みこんだ巨大サメの脳天に命中し、ビクリと痙攣したサメは荒野の大地に落下して地響きを起こす。
「プリルリ! 絶対車から出るなよ!」
「わかった! ここから応援してるね!」
緊張感のないプリルリの返事を待たずに急ブレーキを踏み、運転席から飛び降りて荷台へ回った。
既に飛行サメの群れは新たな獲物に目をつけ、トラックの方へ向かってきていた。
ヒレブレヒトが荷台のカバーを手早く外し取り出したのは、彼が一から創り上げたメインウエポン。
刃渡り95センチという巨躯を誇る発動機式鎖鋸――『ギャストロノウム』。
ただし鋼の刃の代わりにサメの歯が組み込まれ、ハンドルは大剣のような長いグリップが付いて振り回しやすくなっている。
トラックの屋根で仁王立ちした彼がスターターロープを力いっぱい引くと、排気ガスを噴き出しながらエンジンが唸りを上げ始めた。
美食家の腹の音が荒野に響く。
「この世界はシンプルだ。勝った奴が食い、負けた奴が食われる。単純明快な弱肉強食」
チェーンブレーキのレバーをOFFにしてグリップにあるスロットルトリガーを入れると、サメの歯の並んだチェーンが勢いよく回転を始める。
モンスターマシンを握るヒレブレヒトの腕は、盛り上がった筋肉の上に無数の古傷が走っている。そのほとんどがサメの歯による傷だ。
このサメに支配された世界を独り生き抜いてきた経験は伊達ではない。
首のボロ布を口元まで引き上げ、ミサイルのように襲い来る飛行サメの群れを、真っ向から睨む。
大小様々。その数、およそ50。
「今日も生存競争を始めようぜサメ野郎共!」
ヒレブレヒトはトラックの屋根から跳ぶ。そして大上段に振りかぶったギャストロノウムを目前に迫ったサメに振り下ろす。
ギャリギャリギャリという甲高い音と共にサメの身体が両断される。
止まることなく周囲を駆け回りながら、軽々とギャストロノウムを振るいサメの開きを量産していく。
さらに合間合間で離れたサメを撃ち落として数を減らす。
あっという間にトラックの周りにはぶつ切りのサメが山積みになった。
「ヒルー! 助けて!」
「!? プリルリ!?」
助けを求める悲鳴にトラックの方を振り返ると、1匹のサメが運転席側の窓から顔を突っ込み暴れていた。
「――しまった窓を閉め忘れた!」
慌てて駆け寄ると右手で尾びれの根元を掴み、窓からサメを引っこ抜く。そのまま地面に叩きつけ黙らせると、ギャストロノウムで頭を切り落としてやった。
「大丈夫かプリルリ!」
「うん……! ありがとうヒル……!」
助手席の下に逃げ込んでいたプリルリが顔を出した。
「たぶん今ので最後だ」
ヒレブレヒトはギャストロノウムのエンジンを切る。
するとプリルリが運転席のドアを開けて、返り血だらけの彼に飛びついてきた。
「プリルリ……汚れるぞ」
「わたしを守って血だらけになってくれたヒルはかっこいいよ」
どこか的外れな返答をするプリルリを抱っこし、最初に落下した巨大飛行サメの許へ歩みを進める。
「あの落ちてきた女の子は、サメの口の中に自分から飛び込んだ。噛まれずに体内へ潜り込むためだ。そうすれば他のサメからも狙われないし、落下の衝撃もいくらか弱まる」
「……ほんとに?」
「……たぶん」
体長5メートルはある巨大サメの死体の脇にプリルリを下ろし、ベルトのホルダーからナイフを抜く。
「だからコイツの腹を開けば、もしかしたらまだ助けられるかも――」
サメの胃袋の辺りを狙って、慎重に突き立てようとしたところで手を止めた。
音がする。サメの中から。ぐちゃぐちゃと。
同時にサメの腹が蠢いている。不規則に扉を叩くように。だんだんと激しく。
そして――
「ンンンンンンンンンンンンンンンゥウウウウウウウウウウウウウウーッ!」
『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーッ!』
腹を食い破って血みどろの少女の顔が飛び出した。
さらに勢い余って目の前にあったヒレブレヒトの右腕に噛みついた。
「ぐあっ!」
慌てて腕を引くが、鋭い痛みと共に、前腕に噛み痕の形で血が溢れている。
「ハムッ、ンガフッ、ゴッ、ンギギッ……グハァあっ……! ゲェッホゲッホ……!」
少女は口に咥えていたサメとヒレブレヒトの肉片を力いっぱい噛み締めて呑みこむと、胸いっぱいに空気を吸い込み、そのまま激しくむせ返る。
「――あ、あの……」
ヒレブレヒトが腕を押さえながら恐る恐る声をかけると、彼女はビクッと彼を見て、さらに周囲をグリングリンと見回す。
「た……助かっ――」
もう飛行サメの群れがいないことを確認して安心したのか、首から下がサメの中に埋もれたままで少女は意識を失った。
「…………なんとか生きてたみたいだ」
「はやく出してあげよう」
ナイフで慎重に腹を割いて、全身サメの血と肉片まみれの少女を引っ張り出す。
昔の軍用っぽいジャケットを上から羽織ってはいるが、上半身には紐ビキニのみという凄い格好をしている。下もダメージ部分の方が多いぼろぼろのジーンズでほぼ素足。ただ露出した体は酷くやせ細り、骨が浮き出ていて見ていて辛いほどだった。
それなりに身長はあるが悲しいほど軽い少女を負ぶってトラックまで戻り、タンクに残っていた貴重な水でせめて顔くらいはと洗ってやった。
綺麗になった少女の素顔を見て、ヒレブレヒトは息を飲んだ。
「――姉さん……?」
11年前に身を挺して彼を逃がして以来一度も消息が知れない姉――彼が見た最後の自分以外の人類の姿の記憶が、ほぼそのまま目の前の少女と重なる。
痛んだブロンドを一部雑に編み込んだ髪型や体型、服装こそ違うが、その他の面影などは思い出の中の姉そのものであった。
しかし、それが逆に彼女が姉本人ではないことの証であった。
ヒレブレヒトと姉は8歳違い。彼は今19歳だ。
姉が生きていれば、彼女は今27歳になっているはず。
少女は11年前の、16歳の頃の姉のまま。どう見てもヒレブレヒトより年下だ。
それに彼女を観察して嫌でも気づく事実から目を背けることはできなかった。
首元のエラの痕跡。そして半開きの口から覗く尖った歯列。
明らかに彼女は人間ではない。
プリルリと同じ、現在の地球の霊長。
人間の形をして人間の言葉を喋り人間のように暮らしている、人間サメである。