第8話
「アルベール!」
名前を呼びながら駆け寄ると、アルベールは振り返った。
「やけに機嫌がいいな、ティア」
彼の柔らかな笑みに、思わず私もつられて微笑んでしまう。
「ふふっ、実はチェルシーとスイーツ会をしていたんです」
「それは是非とも俺のことも招待していただきたかったよ」
彼は軽く肩をすくめながら、どこかふざけるような口調で言う。その表情がどこか悪戯っぽくて、つい可愛らしいとさえ思ってしまう。
昔はあんなにも恐ろしく見えていたのに、今では可愛らしいと思えてしまうんだから。ほんと、人生何があるか分からないわね。
「あら、あなたは甘いものが苦手ではありませんか」
私がわざとらしく首を傾げて問いかけると、アルベールは眉を上げ、くすりと笑う。
「甘いものは嫌いでも、愛する妻と妹のことは好きですよ」
なによ、その甘い言葉は…。
どうしてそんなにも平然とした様子で甘い言葉が吐けるというの?
「……もう。」
照れ隠しのつもりで顔を背けてみたものの。じんわりと顔に熱が集まってくるのが分かった。アルベールはきっと、私のこういう反応を楽しんでいるのだろう。ふと視線を戻すと、彼はいつもの穏やかな微笑みを浮かべて私を見ていた。
ランカスター公爵家に来てから、一年の月日が経った。
最初は慣れない環境に戸惑いもあったけど、今ではすっかりこの家での生活が心地よく感じるようになった。
時々、アルティアスでの日々を思い出してしまうこともある。あの冷たく厳しい日々に比べれば、ここでの時間は本当に夢のようだった。
チェルシーの明るい笑顔に癒され、アルベールの何気ない優しさに心が温かくなる。この家での生活は、私にとって想像以上の幸せをもたらしてくれた。
「……アルベール、ありがとう。」
「どうした?」
「なんでもありません。ただ、そう言いたくなっただけです。」
彼は一瞬きょとんとした後、目尻を下げて微笑む。
ああ、私はその笑顔が大好き。
可愛い妹に、大好きな夫。これ以上の幸せなんて、きっとどこにもない。
だけど、こんなにも幸せな毎日を送るほどに、私は不安を感じずにはいられない。
いつか、この幸せが崩れてしまう日が来るのではないか? この幸せな毎日は全て夢で、いつかこの夢が覚めてしまうのではないか。そう考えると、怖くて怖くて仕方がないの。
アルティアス家で過ごした日々の記憶が、頭の片隅にこびりついて離れない。大切なものを手に入れた瞬間、全てを奪われてしまうのではないかという恐怖が、静かに心を締めつける。
けれど、アルベールの穏やかな微笑みと、チェルシーの無邪気な笑顔が、そんな不安を吹き飛ばしてくれる。
――きっと、大丈夫。
自分にそう言い聞かせ、笑顔を浮かべる。
それが本当の笑顔かどうか、誰にも分からないように。
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「フロンティア様、こちらアルティアス伯爵様からの手紙です。」
「……お父様から?」
兄さんたちは適当に理由を付けてきてくれなかったけど。お父様だけはそうもいかず、一度だけ結婚式に来てくれた。
けれど、その時だって言葉を交わした記憶は、ほとんどない。人前で建前の会話を数回、それだけだった。
私はもうアルティアスの人間ではなく、ランカスター家の人間。それなのに、どうして今さら手紙なんて…。
「それでは失礼します」
「えぇ、ありがとうシルバー」
静かに扉が閉まる音を聞きながら、私は手紙の封を切った。手書きの文字は間違いなく父のものだった。幼い頃から見慣れた、几帳面で冷たさを含む筆跡。
もしかして、お父様は変わられたのかしら?
……しかし、その微かな期待はすぐに打ち砕かれた。
『私の可愛い娘、フロンティアよ。ランカスター公爵とは上手くやっているそうで何よりだ。』
『近頃、ランカスター公爵は皇帝陛下の命令の元鉱山の経営を行うと聞いた。その内容を公爵から聞き出し、私に伝えなさい。』
『フロンティア、お前は私ににて非常に利口な子だ。父の言うことが聞けるね? 頼んだよ。』
「……お前を心から愛する父より…ですって?」
手紙を持つ指先に力がこもる。
本題の途中途中で、「お前を子供たちの中で一番可愛がっている」や、「愛している」などの薄っぺらい言葉が並べられていた。
――なんて浅ましい人なのかしら。
私のことを愛しているですって? 笑わせないでちょうだい。貴方は私のことなんて、ただの道具にしか見ていなかったくせに。
いざ必要になったら媚びるような言葉を並べて、利用をしようとする。
結局私はお父様にとって、ただの都合のいい駒でしかない。昔も、今も。お父様は私に夫を裏切って情報を流せと言っているのね。つまり、私にスパイとなれと。
今までの私なら、きっと二つ返事で従っていただろう。自分の全てであるお父様の顔色を伺い、その言葉を信じるしかないと思っていたから。
だけど今は違う。
ランカスター家で過ごしたこの一年は、私にとってまるで別の世界だった。アルベールの隣で得た信頼、チェルシーの無邪気な笑顔。
そして何より、これは私が自分で選んだ生き方。
たとえ始まりが父からの命令が始まりだったとしても、私はこの生活を、この日々を手放したりしないわ。
「お父様には、もう従わない…」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がざわめいた。長年染みついた従順さが、最後の抵抗をするかのように。
手紙をそっと机に置き、私は深呼吸をする。小さな震えを感じながらも、必死に耐えた。
そうよ、従わないんだから。もう、お父様の命令は聞かない。絶対に、絶対よ……。
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