恋人が俺と元カレと間で揺れ動いでいる。どうやら彼女は元カレとの思い出を上書き保存はしてくれないらしい
男は別名で保存、女は上書きで保存するという言葉が存在する。男にとっては大切な思い出でも、女にとっては消し去りたい過去、あるいはどうでもいいことでしかないという意味だ。
一見すると女性の恋愛観に対する皮肉のように思えるが、この言葉の裏には男の願望が隠れているのではないだろうか。
恋人から昔の男の影が消えないというのは、思いの外辛いものである。元カレという過去の存在に怯えないといけないのだから――。
俺――児島光と彼女――篠田瑞穂が出会ったのは、バイト先の居酒屋だった。
俺が先輩で、彼女が後輩、ただそれだけであれば特別なことは何もないと思う。それが普通だ。されど俺達は気づかない内に、2人だけで遊びに行く仲になっていた。
瑞穂さんと俺が親密になれたのは、俺が彼女の教育担当だったからだと思う。バイト歴は俺の方が長かったものの、俺が年下ということもあって、瑞穂さんからしたら案外話しやすかったのかもしれない。
「光くん……あのね……」
ある時瑞穂さんは話してくれた。5年付き合った幼馴染の彼氏がいたことを。
どうやら彼は、突然瑞穂さんの前から姿を消したらしい。ここ1年は、一切連絡が付かなかったようだ。
その話を聞いた時、俺は彼女の元カレに怒りを覚えた。こんな綺麗な人を放って、一体何がしたいんだと。
瑞穂さんは美しい女性だった。一生に一度、その顔を拝むことができたら奇跡だと思えるくらいに。
「瑞穂さん……。その……俺でよかったら……付き合ってください! 俺ならそんな奴のようにはなりませんから!」
自然と口が動いていた。無意識に、今がチャンスとばかりに畳み掛けた。
いつの間にか、俺は瑞穂さんのことを大分に好きになっていたらしい。客には見せない身内だけに見せる純粋な笑顔、恥ずかしくなるとノートで顔を隠す可愛らしいしぐさに、知らぬ間に心を撃ち抜かれていたようだ。
まだ短い人生を振り返ってみても、これほど異性に積極的になったことは1度もなかったように思う。それだけ俺は彼女に惹かれていたのだ。
「ありがとう……!」
懸命なアプローチが功を奏したのか、瑞穂さんは俺の恋人になることを快く受け入れてくれた。
もしかしたら、あまりにも必死な俺に根負けし、渋々付き合うことを了承したのかもしれない。だが彼女もそれなりに恋愛経験を積んできているのなら、男女の関係になるということがどういうことか分かっているはずだ。
元カレへの未練は断ち切るだろう。それに瑞穂さん自身、自分を捨てた男のことなど忘れたいに違いない。そう思っていたのだが――。
瑞穂さんと付き合い始めてから半年が経つ。本来であれば倦怠期に突入してもおかしくないはずなのに、何故か未だに付き合って間もないような関係が続いている。
一緒に食事をした。ショッピングにも、遊園地にも、ドライブにも、カラオケにも、ボーリングにも行った。だがそれだけだ。
手を繋ぐことはあっても、そこから先のことはできずにいる。彼女の体にもっと触れたいのに、やんわりと拒否されてしまう、
「私ね、中学の時にね、輝広とキスしたの。お互いファーストキスで、すっごいドキドキして、あぁ……懐かしいなぁ…………。う、うぅぅぅ…………」
何の脈絡もなく、瑞穂さんは唐突に元カレの話をする。デート中でも、バイト中でも。
そしていつも感極まって涙を流す。目の前に俺がいるというのに。
一体これはどういうことなのだろう。女は上書き保存ではなかったのか。元カレのことなんて引きずらないんじゃなかったのか。
彼女の幼馴染への想いが、時間が経てば経つほど強くなっているように感じる。
「光くんには感謝してるの」
瑞穂さんはよく俺への感謝は口にする。だが俺への好意を言葉にはしてくれない。
彼女は本当に俺のことが好きなのか。やっぱり輝広の方がよかったなんて思ったりしていないだろうか。
考えれば考えるほどに、どうしようもなく不安になる。俺はいつまで元カレの影に怯えないといけないのだろう。
「なんで……今になって……。何なのよ! あいつ!」
ここ最近、瑞穂さんはスマホの画面とにらめっこばかりしている。
彼女は何も話してくれない。ただ瑞穂さんの雰囲気から、今になってようやく輝広が彼女と何かしらの接触を図ろうとしているのだけは分かった。
その行為に腹立たしいという感情はある。しかしそれと同時に悲しくもあった。
青春――そのタイミングを逃したというだけで、これだけの差が生まれるものなのか。
俺がどれだけ尽くしても、瑞穂さんは幼馴染への未練を捨ててくれない。
輝広という存在は、彼女の魂に深く刻み込まれている。だが俺は、都合よく慰めてくれる男としか認識されていないように思う。
「瑞穂さん、そんなに輝広のことが気になるなら1度会ってきなよ。それでもし、まだ元カレのことが好きでいられるのなら、俺は瑞穂さんと別れるよ」
だから俺はこんな提案をしてしまった。恋人の本心を確かめるために。
「ごめんね……光くん」
この言葉の真意を、俺はもっとよく考えるべきだったのかもしれない。彼女からしたら渡りに船であったことに、何故俺は気づかなかったのか。
それ以降、瑞穂さんと連絡が取れなくなった。知らない内にバイトも辞めていた。
だが、俺は信じていた。きっと彼女は、俺の元へ帰ってきてくれると。
しかしそれはただの思い上がりでしかなかった。瑞穂さんが幼馴染に抱いていた感情は、未練などという甘いものではないということを俺は思い知らされる。
俺は見た。見てしまったのだ。瑞穂さんが男と肩を組んで、ホテルに入っていく姿を――。
これは浮気とは呼べない。俺がそうさせた以上、ただの失恋――誰も責めることのできない、残酷な答え合わせ――でしかない。
全く、既婚男性というのはこの挫折を乗り越えて、生涯のパートナーを見つけているのだから畏れ入る。一体どんなメンタルをしているのだろう。
俺は氷のように冷たくなった瑞穂さんの心を常に暖めていたつもりだった。ありとあらゆる時間を極限まで削って、瑞穂さんと顔を合わせるようにしたはずなのに、彼女は俺ではなく、輝広を選んだ。
恋愛とは恐ろしいまでに冷酷で、残忍だ。どれだけ相手のことを想っても伝わらず、例え伝わったとしても、見返りがあるとは限らない。
もし俺が、瑞穂さんの元カレとの思い出を上書きしていたなら、きっとこの結末は回避できただろう。
結局のところ、男も女も上書き保存などしない。恋人との思い出は、別名で保存して大切にとっておく。
どれだけ楽しくても、幸せでも、過去というものは今を飲み込む。心に刻まれた記憶は、決して消えることはない。
俺は最初から敗けていた。瑞穂さんの中で輝広の存在は絶対で、他の男が入る余地など最初からなかったのた。
幼馴染がいなくなって、寂しいから俺と付き合った。ただそれだけの話だ。
ああ……さようなら、瑞穂さん。彼と幸せになって下さい。俺はあなたのことを一生忘れることはありませんが、どうか俺のことは忘れてください。それが俺にとっての唯一の救いです。
お久しぶりでございます。
これからもちょこちょこ投稿していこうとは思いますので何卒宜しくお願いいたします。