双子の実と猫の呪い Ⅷ
俺は物音の方へ視線を向ける。
今の声、いや、鳴き声は……
「あ、あの!ユケイ王子!えっと、お伺いしたいことがあるのですが!」
思考を遮るように、プリオストラからの問いが割り込んだ。
微かに慌てたような彼の動きに、イリュストラも不思議そうな表情を浮かべる。
今のは意識的に俺の注意を逸らそうとしたように思えるのだが……。王子は先ほどの物音の正体を知っているのだろうか?
それより、物音は決して小さなものではなかった。俺とプリオストラ以外が全く気にしていないというのはどういうことだろう。
それでも、王子からの問いかけを無視することはできない。
「……はい、私にわかることでしたら何でも」
「えっと、あの、そうですね……。ああ、先ほどのペンの材質のことなのですが、例えばインクの方を改良するというのはいかがでしょうか?」
「王子の仰る通りです。よくお気づきですね」
俺に褒められたプリオストラは、嬉しそうに笑みを浮かべる。
ペンの材質とインク。それは切っても切り離せない関係だ。
この世界で……。いや、前世の歴史でも、二十世紀になるまで一般的に使われていた没食子インク。
その優れた書き心地と耐水性、筆記保存性のために特定の地域では千年以上愛用され、同時に鉄を腐食させる特性のために筆記用具の発展を妨げてきたインクだ。
前世の時間軸における二十世紀、石油や石炭を原料とした合成染料が量産化されるまで、その地位は不動のものだった。
「プリオストラ王子はインクの作り方をご存知ですか?」
「えっと、没食子という木の実を使うと聞いたことがあります……」
「はい、その通りです」
正確に言えば、没食子は木の実ではない。
確かにそれはガルナッツと言われ、一時期木の実と誤解されていたこともあった。しかし実際は虫によって作られた「瘤」であり……
「……あ、ああ!そうか!」
没食子は実ではない。
没食子ができるカシやナラの木の実は、どんぐりだ。
それを知らない者にとっては、二種類の実をつけると思われても不思議ではない。
俺は不意に浮かんだある可能性に、思わず奇妙な声を上げてしまった。
部屋中の視線が、一斉に集まる。
「ど、どうなさいました?ユケイ王子……」
イリュストラが心配そうに俺を見つめる。
俺はテーブルに置かれた花瓶に手を伸ばし、それに生けられた白い花を掴んだ。
そっと匂いを嗅ぐと、品の良い甘い香水のような香りがする。白く先端が丸まった五枚の花びらに、蔓のような形をした幹……。
「そうか、この花は夏梅だ……!」
そうだ。この花が夏梅であれば、イリュストラが言う二種類の実のことも思い当たる節がある。
であれば……
「イリュストラ姫、この花の実は二種類あると仰っていましたが、もしかして両方とも召し上がりになりましたか!?」
「え!?えっと……」
イリュストラは少し気まずそうに彼女付きのメイド、アンの方へ視線を向ける。
アンは仕方ないと言わんばかりにため息を落とした。
「イリュストラ姫。けっして怒りませんので、ユケイ王子殿下の問いに正直にお答え下さいませ……」
イリュストラはじっとりとアンを眺め、小さな声で恐る恐る答えた。
「あの、両方食べたことはありますが丸い方の実はあまり食べませんわ。苦くて美味しくありませんもの」
「それが賢明です。先が尖った方の実は食べても害はありませんが、丸い方の実を沢山食べると体調を崩す可能性がありますので……」
「とんでもありません。両方食べないで下さいませ」
アンが俺の言葉をすかさず訂正する。
「そ、そうですね。お立場上食べるべきではありません」
どことなくアセリアに似た雰囲気のある彼女に、無意識に萎縮してしまう。
没食子インクの原料になる没食子、これは丸い木の実のように見えるが、その正体は虫が卵を産みつけることによって発生する木の瘤だ。
それを粉末状にしたものをワインや酢と鉄に漬け込み、その液体を元にインクは作成される。
見た目は小さなザクロのようで、これを木の実と間違えるのは無理のない話だろう。
このように、虫が原因で形に変化をもたらす植物がいくつか存在する。
イリュストラが言う双子の花、それもその一つだ。
夏梅。
その花は名が表す通り、梅雨から夏に向けて梅によく似た花を咲かせる。
秋に実るその実はキウイのような甘さと高い栄養価を持ち、そのまま食べることもあれば果実酒の原料になったりもした。
それはやがて、旅人が疲労で足を止めた時、その実を食べたことによってまた旅立つことができたという逸話から、こう呼ばれるようになった。
またたび、と。
またたびの実は固有の虫が寄生することで、どんぐりのような形からかぼちゃのような形へ姿を変える。
その様子を見れば、イリュストラの言う通り一つの木から二種類の実がなっていると思われても仕方のないことだ。
その虫が寄生した実は木天蓼と呼ばれ、様々な効能を持つ漢方薬として珍重された。その匂いは猫に好かれ、時には猫に酔っ払ったような行動をとらすこともある。
またたびの実自体を猫が食べることはない。しかしその匂いは猫の食欲を増進させることもあり、またたびの実を食べたイリュストラの手についたその匂いは、猫にとってはさぞかし魅力的に映っただろう。
なんのことはない。イリュストラが猫に懐かれる理由、そしてその猫が奇妙な行動を取るという原因。それはメイドたちが噂をする猫に取り憑かれているなんていう非科学的なものではなく、全てまたたびの木が原因だったのだ。
そしてイリュストラの部屋に猫が現れたという話だが……
「プリオストラ王子は猫がお好きだと聞きましたが?」
「え、ええ。そうですね。えっと、それはイリュストラお姉様から聞いたのですか?」
そう答えながらも、彼は部屋の奥を少し気にするような素振りを見せる。
俺がその話を聞いたのはイリュストラからではなく、図書室の司書ミコリーナからだった。
彼女は確かに言っていた。
プリオストラは、猫の「柔らかくて温かい手触り」が好きだと。
では、俺以上に何年も室内から出ていないプリオストラは、どこで猫の柔らかくて温かい手触りを知ったのか?
そう、それはまさにこの部屋でだ。
これは俺の予想でしかないのだが、おそらくイリュストラが室内から出ることができないプリオストラを哀れんで、こっそりと猫を彼の遊び相手として引き合わせたのではないだろうか?
つまり部屋に現れた猫というのは、イリュストラによって運び込まれたのだ。
要するに、イリュストラの周りで猫に関する不思議な現象が起こるというのは全て彼女に原因があり、彼女の体調不良とは一切関係がない。
そしてその体調不良も、猫の謎以上にシンプルな原因が思い当たる。
しかしそれより先に解決をしなければいけない問題がここにはある。
それは、イリュストラの体調不良の原因ではなく、プリオストラの体調不良の原因。
その答えは、俺とプリオストラ以外が注意を払わない、あの奥の部屋に眠っているのだ。




