赤毛の少女 Ⅹ
両足から力が抜けて行くのを感じる。
まるで言葉が通じていないかのような、違う世界の人と話しているかのような感覚。
「あなたたち王家の人間が、わたくしたち貴族の命を捨てるように扱ったのです。わたくしたち貴族が平民の命を道具にして、いったい何がいけないのですか?」
ローザの言う通りだ。俺の生活は多くのローザ達のような人たちを踏み台にした上に立っている。
俺もたしかにその恩恵を受けているのだ。
「貴族だろうと平民だろうと、命自体に優劣があるわけじゃない」
「あら、そうでしたの?ユケイ王子の可愛い侍従、ウィロットさんといったかしら。彼女は小さな頃から貴方の毒見をしていると嬉しそうに言っていましたよ。あなたは平民の命を道具にしていないと言うのですか?」
「そ……!それは……」
「彼女は貴方にとても心酔している様子でしたよ。イザベラ様を丸め込んだように、ユケイ王子は人をたぶらかすのもお上手なようですね。ウィロットさんが毒を飲まなくて、本当に良かったですわ」
それはぐうの音も出ないほどの正論だった。
俺は十年も昔から、ウィロットの……、いや、ウィロットだけではなく、彼女以外にも多くの命を吸い続けて今まで生きてきたのだ。
果たして俺は、ローザを断罪できるような人間なんだろうか。
「ユケイ様、しっかりして下さい!貴方の行いとローザの行いは全く別物です。少なくともユケイ様は、差し出された命を無碍に投げ捨てるような方ではありません!」
グラグラと揺れる俺の心を、カインがしっかりと支えようとしてくれる。
「ユケイ様、ウィロットが毒見をするのは彼女の意思です。リットの死は、彼が望んだものですか?」
そうだ。ローザが言うことは一つの真実ではあるが、それとリットを陥れたことは同じではない。俺の罪は俺が裁く。
しかし、ローザの罪は法によって正されなければいけないはずだ。
「ローザ、貴女は罰せられるべきだ……。俺のことでは無く、リットを陥れた罪として」
「あら、それはどんな罪になるのでしょう」
ローザはふふっと小さく笑った。
「罪を償った後、再びイザベラ姫を支えればいい。彼女は美しいリュートセレンの魔力を持っていると言った。であれば、彼女の希望はきっと成る!」
そう、イザベラとローザは俺には持っていない魔力を持っているのだ。
俺と違い、いずれその身を立てることもきっと出来るはずだ。
「ユケイ様、それは不可能です......」
ローザの笑顔は、書き割りのように変わらない。
「わたくし達と貴方は、同じ色の血が流れているのですから......」
ローザはゆっくりと、左手を持ち上げる。
「ならばせめて......。魔力の目を持たない貴方がこの世から居なくなれば、世間はいずれ呪いのことを忘れるでしょう。それでやっと、イザベラ様の呪いは解けるのです......」
彼女はその手を前へ突き出し、何かを呟き始めた。
「なんだ……?歌声?」
微かに聞こえる、掠れたような歌声。
「ユケイ様!伏せて!!」
アゼルが前へ立ちはだかると同時に、部屋のガラスが粉々に飛び散る。
刃となったガラスの破片は、俺たちの退路を塞ぐように部屋への入り口を覆い隠した。
アゼルは何かに耐える様に、小さく呻き声をあげる。
魔法で攻撃されたのだろうが、俺にはそれを見ることができない。しかしアゼルは倒れることも許されず、俺の前でひたすら壁になっていた。
「カイ……ン!」
アゼルが短くカインに指示を出す。
隣のバルコニーまでは約4リール。
革製とはいえ重い鎧を着たまま飛び越えられる距離では無い。
カインは自分の剣を、ローザに向けて力一杯投げつけた。
それはローザの肩を微かに切り裂き、赤い血が飛び散る。
相当な痛みが走ったであろうが、ローザの殺意は衰えなかった。
ローザは次に右手を上げ、複雑に口元が動く。
微かに聞こえる歌声。しかしカインは両手を耳に当て、まるで爆音に晒されているかのようだ。
その瞬間俺は理解する。彼女の魔法は、歌声に魔力を乗せて放たれている。だから、カイン達には耳を塞ぐほどの音量であったとしても俺には届いていないのだ。つまり……。
「アゼル!離れろ!!ローザの魔法は俺には効かない!」
「そうは……いきません!」
何かに耐えつつも、アゼルは遂に膝を付いた。
同時に、足元に亀裂が走ったのが見える。
「アゼル!カイン!部屋に戻れ!バルコニーが崩れる!」
しかし二人は動こうとはしない。いや、魔法の効果によって動けないのだ。
どうする?二人を抱えてガラスの破片の上を通り、バルコニーを脱出することはできない。鎧も着ていない俺一人であれば、ローザがいるバルコニーへ飛び移り彼女の魔法を止めることができるだろうか?落下すれば四階の高さだ。おそらく無事では済まないだろう。しかし……、そんなことを言ってられない!
俺はアゼルを押し退け、隣のバルコニーへ向けて走り出そうとする。
その瞬間、俺は何者かに後ろへ引きずり倒された。そして次に見たのは、視線の端を駆け抜ける赤い影。
影は隣のバルコニーまで軽々と飛び移り、カインの剣を拾うと同時にそれを振り上げた。
その剣筋は鋭く、的確にローザの上げられた腕を切りつけた。
パッと鮮やかな赤い血が、夕日の中に飛び散る。
「マリー!」
その正体は、赤毛の少女マリーであった。
「......この平民!!」
ローザは間合いを詰め、マリーに向けて再び両手を伸ばす。
背後ではアゼル達が激しく息を吐く気配を感じた。おそらく標的がマリーに変わったことで、魔法の効果から脱したのだろう。
マリーとローザは肉薄している。剣を十分に振る間合いはない。
マリーは迷わず剣を手放すと、そのまま返り血を浴びた拳でローザの脇の下を的確に殴り付けた。
「ギャアァァァ!!」
沈黙の後、今までのローザからは想像も付かない叫び声が上がった。
顔を苦痛に歪めて、力なく開かれた口元からは涎が滴り落ちる。
一瞬で肩は大きく腫れ、腕が歪な方向へ力なく揺れるのが見えた。
「いったい何事か!」
部屋の外から、騒ぎを聞きつけた兵達が雪崩れ込んできた。
それと同時に、ピシッ、ピシッと乾いた音を立て、バルコニーが崩れ始める。
「ユケイ様を!」
アゼルの叫び声に反応し、カインが俺の手を取り、力の限り部屋へと引っ張り込んだ。散乱したガラスの破片が、俺とカインを切りつける。
そして俺が室内から見たものは、崩れ落ちるバルコニー、そして落ちて行くアゼルの姿だった。
「アゼル!」
俺は下を覗き込もうと窓際へ駆け寄ろうとするが、それはカインに力づくで阻止された。
「ローザぁぁ!」
窓の向こうから、悲痛な叫び声が聞こえる。それは、間違いなくイザベラのものだった。
おそらく激しく取り乱して居るであろうその姿を、見なくて助かったと思っている自分がいた。自分がどうしようもなく卑怯な人間に思える。
アゼルを助けに行かないと......!
マリーはどうなっているんだ?
もちろん二人の元へヴィンストラルドの兵士が向かってくれているだろう。
しかし、自分で二人を助けたいと思っても、混乱を極めるこの状況で、俺は一歩も動くことが許されない。
「本当に...... 本当にこの世界は......!」
俺に許されるのは、ただ拳を強く握りしめることくらいだった。
ウィロットが、俺の額に流れる血を拭った。
ガーゼが赤く染まる。この色が……、イザベラと同じ色だというのだろうか……。
窓の外は夕日の頃をさらに深め、街の輪郭をさらに濃く彩る。
ガラスが取り払われた窓枠はまるで額縁の様で、室内から見える夕焼けに染まる王都ヴィンストラルドの風景は、真っ赤な血で描かれた、美しい一枚の絵画の様だった。




