切子硝子 Ⅳ
俺たちはオルゼンのガラス工房を出て、商人街へ向かおうとした。
主に切子硝子についての情報を仕入れるのが目的だが、半分は物見遊山気分であったことは間違いない。
それを最初に見つけたのはカインだった。
「……何かトラブルでしょうか?」
カインが指し示す方へと視線を向ける。その先には小さな人だかりができており、中で何か揉めているような気配がある。
そこは街の中央通りで、俺たちがザンクトカレンへ到着したあと、協会へ向かった時にも使った道だ。
「ほんとだ。なんだろう?」
片方はザンクトカレンの人だろうか、農夫の夫婦に見える。そしてもう片方はどうやら兵士のようだが……
「あの鎧、ヴィンストラルドの兵だよな……?」
彼らの鎧はザンクトカレンの守備兵とは装いが違い、俺たちがヴィンストラルドから同行した者たちが装備していたものに見える。
俺はカインに同意を求めると、彼は明らかに関わるなと主張する表情をしていた。
「とりあえず行ってみよう」
「ユケイ様が首を突っ込むべきではないのではないですか?」
「いや、けどさ。俺たちが連れてきたヴィンストラルドの兵が何か問題を起こしているのかもしれないし」
「だとしても、ユケイ様とは無関係です」
「暴力が振るわれるなら止めるべきだ。必要以上に関わるつもりはないよ」
首を突っ込むつもりはないが、兵士が横暴を働くのであればそれは正さなくてはいけない。
俺たちは人混みの方へ近づくと、農夫の声が聞こえてくる。
「お願いします!少しだけでいいので、エヴォン司祭とお話をさせて下さい!」
「駄目だ!何度も言っているだろう!猊下にそんな時間はない。教会に話があるのなら、正式な手順を踏んで謁見を申し込みなさい!」
「それでは……、直接エヴォン司祭に聞いて頂きたいのです!」
エヴォン……司祭?
彼はエヴォンが連れてきた兵なのか?
もしかしたら俺たちが工房にいる間に、彼はザンクトカレンへ到着したのだろうか?
俺が思っていた日程より、少し早いような気もするが。
邪険にする兵士に、婦人はなおもしつこく食い下がる。
兵士の表情に、強い苛立ちが浮かぶ。
「あれ?あの人たち……」
ウィロットが夫婦を見て小さく呟くと、小首を傾げた。
「どうした、ウィロット?」
「あの人たち、どこかで見ませんでしたか?」
「え?どうだろう……」
夫婦には特に見覚えがあるとは思えない。夫は多少大柄ではあった。婦人の方は農夫にしては色白で、髪をすっぽりと布で覆っている。
俺が記憶を探ろうとした時。ついに兵士の一人が婦人を突き飛ばした。
「まて!!」
俺はつい反射的にそう言い放った。
それよりも早く、ウィロットが婦人の元へ駆け寄る。
「なんだお前たちは!」
兵士の言葉が俺たちに飛んだ。
そして激昂した兵士は、腰の剣に手をかけようとする。
あいにく今日は街歩きのために、いかにも貴族然とした服装をしていない。仕立ての悪い服を着ているわけではないが、無条件で兵たちに身分を主張することはできないだろう。
だからといってここでもし彼が剣を抜けば、事態は収拾が付かなくなってしまう。
知らなかったとはいえ、同盟国の王族に剣を向ければそれは重罪だ。
「ユケイ様!」
カインが駆け付け、俺と兵士の間に立ちはだかった。
彼は強く兵士を睨みつけ、低く体勢をとり腰の剣に手をかざす。
その手は剣に触れてはいないが、相手が動けば即座に抜刀できる位置だ。
「カイン!抜くな!」
「抜かれれば抜きます!」
「兵士殿!私はアルナーグからの使節だ!剣を納めよ!」
兵士は俺たちの服装を一瞥する。
「お前がアルナーグの使節だと言うのか!?適当なことを言うな!」
緊張の度合いが、極限まで跳ね上がった。
カインと兵士は睨み合い、細い絹糸をピンと引き合うような硬直の時間が生まれる。
その間にも兵士の手は徐々に力が込められ、ついに指先が柄に触れた。
その瞬間……
「いったい何を騒いでいるのだ!!」
緊迫する俺たちに向け、大きな声が投げかけられる。
微かに苛立ちを含んだその声に、俺は聞き覚えがあった。
兵士は声の方へ目を向けると、怒りで真っ赤になっていた顔が一瞬で青ざめる。
「エ、エヴォン猊下!」
兵士は弾かれたように下がり、膝をつけて深々と頭を下げた。
声の主は、馬上からこちらを見下ろすエヴォンだ。
エヴォンから俺に、冷ややかな視線が投げかけられる。
「どうやらお騒がせをしたみたいですな」
言葉の上は取り繕っているが、彼の視線は「面倒ごとを起こしてくれたな」と雄弁に語っている。
彼の言葉に兵士たちがハッとこちらを見る。
「……彼らはアルナーグからの国賓だ。無礼は謹むように」
「は、はい!申し訳ありませんでした、使節殿!」
慌ててこちらに頭を下げる。
とりあえず……、大きなトラブルは回避できたのだろうか?
しかし、何か別の厄介ごとに巻き込まれたような気もする。
側のカインは「巻き込まれたのではなく進んで首を突っ込んだんだろうが」とでも言いたげな表情だ。
しかし、エヴォンは騒ぎを聞きつけてわざわざ引き返してきたのだろうか?
それに、彼は馬車に乗って移動していたはずだが、今は自ら騎乗をしている。
一瞬場の空気が緩んだのを感じたのか、夫婦は再び声を上げた。
「エヴォン司祭!マグダラのエリヤザルです!どうか、お力をお貸しください……!」
今度は農夫がエヴォンの元に駆け寄ろうとするが、兵士は再度立ちはだかる。
どうやら夫婦はエヴォンに対して、訴状を手渡したいようだ。
何かよっぽどのことがある様子だが、この場でそんなことが罷り通るわけはない。
強引に王子の元へ詰め寄ろうものなら、斬り伏せられても仕方がないのだ。
夫婦もそんなことは百も承知だろう。それでもなお、引く気配は見せない。
エヴォンはやがて、大きなため息をついた。
「マグダラのエリヤザル。そして妻は……確かマリアだな?」
「は、はい!以前エヴォン司祭から祝福を授けていただきました!覚えていただいてありがとうございます」
夫婦は感激で目を潤ませる。
「少し落ち着きなさい。どんな事情があるとしても、この場でそなたから直接意見を受け取ることはできない。神の前にもそうであるように、教会の前には多くの人が列を成しているのだ」
「わたしたちは教会ではなく、エヴォン司祭にお話を聞いていただきたいのです!」
「……同じことだ。それを望むのであれば、正しき道筋を通って私の前に現れなさい。時間がかかろうとも私の元に届けば、必ず耳を傾ける」
エヴォンはそう言う。
冷たいようにも思えるが、彼の言うことは正しい。
実際にエヴォンが聞くかどうかは置いておいて、届けられた願いは順番に誰かの耳に入る。
ただ問題なのは、その順番というのが身分や寄付の額により如何とでもなってしまうことだ。
エリヤザルはマグダラの出身だと言っていた。
確かな記憶ではないが、マグダラとはヴィンストラルド東部にある村で、湖の漁を生業としている。
なぜザンクトカレンに来たのかはわからないが、平民であり移住者でもある彼らの言葉が届くのは、多くの時間を要するに違いないだろう。
「エヴォン司祭、わたしたちには時間がないのです!」
「きっとそうなのだろう。しかしそれもまた、全ての人に当てはまる」
エヴォンはエリヤザルを突き放す。だがその姿は、意外にも真摯に彼らの言葉に耳を傾けようとしているようにも見えた。
「あっ……」
不意にウィロットが小さな声をあげた。
「……ウィロット、どうした?」
「ユケイ様、思い出しました。あの女の人……。わたしたちがザンクトカレンに来た時、葡萄畑で泣いていた人です」
「葡萄畑?」
そう言われてみれば、確かにザンクトカレンに入る前、街の外側に広がる葡萄畑でそんな光景を見た記憶がある。
葡萄畑は焼かれた直後で、焦げた熱と臭いの前で涙を流す女性がいた。
「……多分そうだと思います。あの奥さん、あの時もああやって髪の毛を隠していたので」
「髪を隠す……?」
確かに婦人……マリアは、頭部にしっかりと布を巻いている。
言われてみれば不自然と思えなくもないが、よく見る一般的なものにも思える。ウィロットにはそれが髪を隠しているように見えるのだろうか?
しかし、ウィロットの洞察力、観察力はその凄さを今まで何度も目の当たりにしてきた。
彼女がいうのであれば、おそらくそれはその通りなのだろう。
そしてあの焼かれた葡萄畑が、今この状況に影響していることは想像に難くない。
そういえばあの時、同じように焼かれたと思われる葡萄畑を何箇所か見た気がする。
「司祭様、どうかお力を……」
「何度言われても答えは変わらぬ」
「妻に……。妻に、魔女の疑いがかけられているのです……」
エリヤザルの消え入りそうな声は、エヴォンの耳に確かに届いた。
「なに……?」
「妻もわたしも、既に街から出ることを禁じられています。門兵に止められ、外の葡萄畑へ行くこともできません。そう遠くなく、教会から出頭の命令が出されると思います……」
魔女の……疑い?
「どういうことだ?」
エヴォンはついに問いかけた。
「詳しいことはわかりませんが……」
「告発される心当たりはあるのか?」
「それは……他国から習った農法を使いました。しかしそれは特殊なものではありません。あとは……妻は……」
エリヤザルは言いづらそうに口籠る。
「……いや、もうよい」
エヴォンは彼の言葉を遮る。
これ以上話を聞けば、公平性に欠くと思ったのだろうか。
「教会は魔女狩りも神明裁判も禁止している。そのようなことで命が脅かされることはない」
神明裁判。もしくは魔女裁判と言われたりもする。それは魔女であるかどうかの最終的な裁きを、神に託す行為を指す。
例えば聖水を加えた水に人を沈めたり、聖火で人を焼いたりして、生き残れば魔女ではないといった類のものだ。
当然、それをされて生き残れる人間はいない。
現在は禁止されているが、かつてはそのような行為が平然と行われていた。そして白竜山脈を超えた先では、現在も頻繁に執り行われているという。
「しかし……、実際にわたしたちの葡萄畑は焼かれました」
「……それはフィロステラの嘆きのせいではないのか?」
「いいえ!教会からはそう言われましたが、わたしたちの葡萄は健全でした……」
フィロステラの嘆きというのは、葡萄の木に発生する伝染性の病気だ。
これが発生した場合、その木は病魔を周りに広げるため焼却をしなければいけない。
前世のヨーロッパでも昔、同じような伝染病が流行して全ての葡萄畑が全滅しかけるという事件があった。
実際にエリヤザルの葡萄畑がフィロステラの嘆きに侵されていたのであれば焼却は正しい判断だが、そうでないのなら……
「コンスト司教は、魔女狩りを復活させようとし……」
「滅多なことを言うな!」
エヴォンはエリヤザルの言葉を荒げた声で遮る。
「も……、申し訳ありません……」
エヴォンの怒りを買ったエリヤザルは、慌てて膝をつき深々と頭を下げた。妻のマリアもそれに倣う。
雑踏の中、気まずい静けさが流れる。
「もうよい……。エリヤザル、マリアよ。どちらにせよそなたらの話は聞けぬ。世界には神の教えと同じく、人のルールがある」
「はい……」
「……しかし、其方らが敬虔な神の信徒であるなら、そこには救いが訪れるだろう」
そしてエヴォンは、真っ直ぐに俺の方を向いた。
「そうだろう?ユケイ殿?」
え?それはどう言う……
「ユケイ殿は教会において最も敬虔な信徒の中の一人だ。しかし彼は、教会の人間ではない」
夫婦はハッと俺の方を見る。
「ユケイ……、ユケイ殿下ですか?」
殿下?
俺は確かに殿下と呼ばれる立場の人間だが、その名は広く広がってはいないはずだ。
アルナーグ国内であれば別だが、ヴィンストラルドの外れでそこに住む平民がそのことを知っている確率は極めて低い。
「だから言ったのです……」
呆れたカインの声が、俺に突き刺さった。




