切子硝子 Ⅰ
ヘリオトロープと別れ、俺達がザンクトカレンへ辿りついたのは日が落ちる直前のことだった。
泥とし尿に塗れた俺はそのまま部屋に入ることは許されず、水場で馬のように洗われる俺を見て一国の王子だと気づくものはきっといない。
秋に入ったとはいえ日差しはまだ暖かく、これがあと一月も経てばきっと寒さに震えることとなっただろう。
俺を洗うウィロットは何故かとても生き生きとしており、普段の鬱憤を晴らすかのように自らも水浸しになりながら俺に手桶で何度も水を浴びせかけた。
「……ガラスはまだないのか?」
新しく用意された部屋へ通された後、開口一番カインがそう呟く。
それを聞いて、ティファニーが大きくため息をついた。
「覚えてらっしゃらないかも知れませんが、カイン様がわたしに最初におっしゃった言葉が『ガラスがありませんな』でした。後で嵌めて頂けるそうなので、少し我慢して下さい。そもそも朝起きてきたらいきなり部屋を変えろとおっしゃって!わたしたちはカイン様たちが狩で遊んでいる間、必死でこの部屋を使えるように掃除していたんです!」
昨夜のヘリオトロープの襲撃を受けて、不安に思ったカインが部屋の移動を願い出たのが朝のことだ。
鉄格子付きの部屋はすぐに準備されたが、しばらく使っていなかった為に俺たちがマンドレイクを探しに行っている間に大掃除が行われていたようだ。
その上全身にあらゆる汚れを付けて帰ってきて、彼女はすこぶる機嫌が悪かった。
よほど裕福な家でも、夏の間も窓ガラスをはめっぱなしという家は稀だ。
ザンクトカレンはガラス工業の街だとはいえ、それが高価であるということは変わりない。
しかし、何故このように鉄格子がついた部屋があるのか少し疑問に思う。
「エヴォン猊下はまだ到着されていないよね?」
「はい。まだ数日かかるようです」
ルゥが答える。
「そうか。到着される前に済ましておきたい用事があるんだけど……」
俺はそっとカインに目配せをする。
「……部屋の準備が整ってからにして下さい。少なくとも一日、私に街の様子を下見する時間をいただきます」
「わかってるよ」
エヴォンがここに着くまでに、済ませておきたい用事がある。
ガラス工房に赴き、体温計を生産するための足掛かりを見つけることだ。
ここには俺の商会で取り扱っているガラスペンを生産している工房もある。そこにもぜひ顔を出しておきたい。
あとはアレックスの捜索についてだが、これに関しては地道に情報を集めるしか今のところ手段がない。
妹であるティファニーもアレックスを探しているが、その手伝いもできればいいと思う。
「そういえば、ウィロットたちは大聖堂のステンドグラスはもう見たのかい?」
「はい!今日ちょうど開放日だったので、ルゥに案内してもらいました!凄かったですよ!」
「そうなんだ。……開放日って?」
「大聖堂が開放されている日ですよ。普通の日は一般の人は入れませんから」
「ああ、そういうのがあるんだ」
「天国ってこんな感じなのかなって思いました」
「いいなぁ」
「ユケイ様も、ルゥがちゃんと案内してくれるみたいですから。楽しみにしてて下さいね!」
ウィロットはまるで自分の手柄のように、得意げに小さな胸を張った。
実際、荘厳な教会の装飾は天国を模しているという意見もある。
総本山であるバルボア大聖堂より、ザンクトカレン大聖堂のステンドグラスは大きく豪華らしい。
「あれ?雨ですか?」
ウィロットはぽつりと呟く。
窓の外に目を向けると、先ほどまでの晴天がみるみるうちに雲に覆われ、日が落ちたのではと思えるくらいにあたりは急速に暗くなる。
そして一呼吸おき、遠くから聞こえた雨足は激しさを増して急速に辺りを包み込んだ。
「ティファニー!窓を閉めて下さい!」
ウィロットはそういうと、慌てて窓を閉めて部屋に灯りを灯す。
窓を閉めるのと同時に、窓の隙間から爆発音と刺すような光が傾れ込む。
「きゃあ!!」
ティファニーとウィロットが悲鳴を上げる。
「雷ですね……。近くに落ちたみたいです……」
「ティファニー、大丈夫か?」
窓のそばにいたティファニーは、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「は、はい。大丈夫です……」
「窓からは離れていた方がいいよ。ウィロットも大丈夫?」
「はい。なんだか肌がピリピリするみたいです」
「静電気かな?ウィロットも窓に近づいたらダメだよ。……ルゥは全然平気そうだね」
「はい。この辺りは雷がとても多いですから。丘と北側の湖のせいだとエヴォン様がおっしゃっていました」
「そうなんだ」
ルゥは全く動じた様子がない。
この地で暮らす彼女には、雷は慣れっこだというのだろうか。
「ルゥはいつからここに居るんだい?」
「わたしは小さい頃、ヴィンストラルド、のスラムに捨てられてこの教会に拾われました。それ以来ずっとここにお世話になっています」
「……そうか。込み入ったことを聞いてすまなかった」
「いえ、お気になさらず」
彼女は全く何も感じていないかのように、ぺこりと頭を下げると仕事へ戻る。
自分の浅はかさに腹が立つ。
ウィロットも幼い頃に両親から売られ、毒見役として俺の元へ来たのではないか。
この時代、ほとんどの人がなんらかの不幸を抱えているのだ。
魔法が使えないという不幸など、実にささやかなことだと思える。
次の日。
天候は変わらず崩れたままで、時折激しく空が光る。
ルゥが言ったように、この辺りに雷が多いと言うのは本当なのだろう。
カインは街の視察に、ティファニーは日用品の手配のためにルゥを連れ立ってザンクトカレンの街に繰り出していた。
その間俺は当然部屋から一歩も出ることが許されず、ウィロットと取り留めのない会話を交わしながら時を過ごす。
「今日のお昼もあのリゾットですよ。お祭りまでは毎日あれを食べるのが風習らしいです」
「ああ、そうなんだ」
「……」
「どうしたの?」
ウィロットはふと、何かを考え込む。
「あの、たいしたことではないんですけど……。昨日ユケイ様が出かけている時、ルゥと一緒に教会の食堂でご飯をいただいたんです」
「うん」
「その時もあのリゾットを出してくれたんですけど、他の人もみんなリゾットを食べてるのにルゥだけパンを食べてたんですよね」
「ルゥは好きじゃないのかな?確かに少し独特な香辛料の匂いがするよね」
「いえ……。最初の日も、夜にわたしとルゥでご飯食べに行ったの覚えてます?」
「ああ」
「その時ルゥは、あのリゾットは大好きだって言ってました。けど、そう言いながらもパンを食べてたんですよね」
「そうなんだ……。金銭的な問題で食べられないのかな?」
「どうなんでしょうか?そんな感じでもなかったですけど」
ルゥにはしばらく世話になることになるだろう。
多少であれば支援してもいいとは思うが、食べ物にも口を出すのは気を回しすぎだろうか。
「おせっかいになるかもしれないけど、もし彼女が何かに困ってるようだったら教えてくれないか?」
「……ふふふ、ユケイ様ならそう言ってくれると思いました」
その日の昼食も食卓にガラス職人のリゾットが上がる。
確かにこれは美味しいのだが、流石に毎食これだと少し違うものが食べたくもなる。
そう考えればルゥの行動も特に何かおかしいと思うほどではないのかもしれない。
その日は午後から雨も止み、雲は変わらず低く垂れ込めるものの時折鳴り響いていた雷も形りを潜めた。
日が沈む前に、街に出かけていたカインたちが戻ってくる。
「カイン、街の様子はどうだった?」
「傭兵や冒険者らしき者も多く目にしましたが、特に治安が乱れているような様子はありません。職人街では多少粗暴な者も見ましたが、それはどこでも変わらないでしょう」
「そうか」
俺はとりあえず胸を撫で下ろす。
治安があまりにも悪いようであれば、外出を禁じられることも考えられる。
「ただ、やはり状況が状況です。街全体がピリピリしているような印象がありました。我々のような余所者に対しては、皆警戒するでしょう……」
亡命政府の件で地の国と鉄の国が明確な対立関係になったことは広く知れ渡っている。
ライハルトとの国境は分割領を越えて遥か遠くとはいえ、そうなるのは当然だろう。
ザンクトカレンを経由して前線に向けて出稼ぎに出る傭兵団もいる。余所者に警戒心を抱くのは当然と思える。
「ティファニーはどうだった?冒険者ギルドには顔を出したんだろ?お兄さんの手がかりは何か見つかったかい?」
ティファニーはうつむき加減に、首をゆっくり左右に振った。
「兄の話は何も聞けませんでした……。ただ、最近冒険者の数が増えているそうなので、しばらくすればもしかしたら……」
冒険者の数が増えればそれだけ多くの情報が集まることになるだろう。しかしそれは争いが近づいている予兆であり、喜ぶ気には到底なれない。
ティファニーがアレックスを見つけてくれれば、俺の手間も大きく省けることになる。
しかしこれは、彼女を利用していることになるのだろうか……。
折を見てイルクナーゼとエスティアが彼を探しているということは、伝えておくべきなのかもしれない。
「……カイン、明日俺も街に行ってみたいんだがいいかな?」
「……そうですね。どうせ行かれるのでしたら早い方がいいのかもしれません」
「それじゃあ……」
不意にドアがコンコンとノックされる。
「はーい」
ウィロットがぱたぱたと扉へ駆けていく。
扉の先にいたのは、おそらく下働きらしい男だった。
「失礼します。窓のガラスをお持ちしました。このまま作業してもよろしいでしょうか……」
男はそう言うが、俺と目を合わそうとはしなかった。




