香水草の魔女 Ⅹ
篝火の揺れる光が少女の白い肌と髪を浮かび上がらせる。静かに見開く赤い瞳は、好奇心により爛々と輝いているように見えた。
少女は俺から向けられた切先をさして気にする様子も見せず、再び俺に問いかける。
「聞こえておるかの?そちはまるで魔法銀のようだ。人間であるかも疑わしい」
「お前の目的はなんだ!仲間たちに何をした!?」
俺は喉の奥から声を絞り出す。
少女はその声を完全に無視し、俺に向けてそっと右手を上げた。
その瞬間、彼女の体からバニラのような甘い匂いを含んだ風が吹き付けられる。
俺は咄嗟に、空いている手で口元を覆った。
「ふむ……?やはり効かぬな?」
「何をしている!」
「ふふふ、別に取って食おうとしているわけではない。少し融通してほしいものがあったが……ここは羊の群のようじゃ。どうやら無駄足じゃった」
まるで老婆のような言葉遣いではあるが、その声は少女そのものだ。
それでも言葉が通じる相手であることはわかる。そのためか、心に微かな余裕が生まれたのを自覚した。
少女が口にした「羊の群れ」というのは、教会の使徒を揶揄して表す時の言葉だ。
融通というのが何のことかはわからないが、彼女からは敵意的な視線は感じない。
少なくとも無差別に俺たちの命を取ろうとしていないことはわかる。
「……野営地の人達に魔法をかけたのはあなたか?あなたは魔女なのか?」
「ほう、多少なりとも魔女に謙ることができるとは。そなたは羊の子にしては多少わきまえておるようじゃ。奴らは自分のことを神だと思っておるからのう。良いことじゃ、年長者は敬わねばならぬからのう」
少女はそういうと、楽しそうにクククと喉を鳴らした。
「そなたの問いは「我が魔女か」と、「魔法をかけたのは我か?」じゃな?よし、気分が良いから特別に答えてやろう。ただし、そなたが二つ問いかけるならば我も二つ問う。良いな?」
「……では一つだけ聞きたい。野営地の皆は無事に解放されるか?」
「ふん、小賢しいが……良いだろう。答えは『応』じゃ。我がここを去れば、咒にかかっていたことも気づかぬじゃろう。決して危害は加えぬと約束しよう」
「ほんとうだな?」
「魔女の言葉は全て約束の呪いじゃ。違えることはない。しかしそれはそなたにも当てはまる。魔女との約束を違たがえると、禍わざわいが降りかかることを心せよ」
「……わかった」
「では我も一つだけ聞こう。そなたはどうやって我が咒を穿った?」
彼女は今、自分のことを魔女だと言った。
嘆きの森に住む魔女というのは、彼女のことだろう。前世で「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という言葉があるが、その正体が魔女だったなんて小話にもならない。
彼女がいう咒が今この野営地に起こっていることであるなら、その答えは簡単だ。
「それはおそらく、俺が魔力の目を持たないからだろう」
魔女はニカリと笑顔を見せた。
「やはりそうか!氷竜の下に二人目の真実の目を持つ子が生まれたと聞いたが、そなたのことじゃな」
……真実の目?
氷竜というのは始まりの竜から産まれたとされる四体の竜の一つで、それは俺が産まれたアルナーグの白竜山脈を棲家としていた。
「なんだそれは?……いや、そんなことより今すぐ仲間を解放してほしい。あと、その手にした袋は我々のものではないか?」
俺は刺突剣の切先を、魔女が持つ袋に向けた。
刃先が細かく揺れているのを見て、魔女はフッと笑う。
「そろそろ咒の効果が薄れる頃じゃ。仕方がない。今日のところは見逃してやろうかのう」
そういいながら少女は手にしたベルベットの袋をこちらへ投げて寄越した。
しかしそれは俺の元には届かず、はるか手前に落下する。
一瞬何かの策かと疑うが、どうやら単純に力がなくて届かなかっただけのようだ。
見た目通り少女並みの力しかないのであれば、戦って勝つこともできるかも知れない。
もし魔女が狼の姿であれば、万に一つも俺に勝ち目は無かっただろう。
しかし今となれば相手は無防備な少女だ。
少なくとも腕力では負ける気がしない。
「勘違いするな!見逃すのはこちらのほうだ!」
「強がりを言うな。我にはそなたの腕が、剣を振り上げることも出来ぬように見えるが?」
「刺突剣は突けばいいだけだ。試してみるか?」
「ふふふ。……特別に魔女の弱点を教えてやろう。その剣で心の臓を貫けば、魔女はなす術なく息絶える」
彼女は自ら心臓を差し出すかのように、小さな乳房をグッと張って見せた。
いや、乳房なんて微塵も無いのだが。
実はこいつは男なのか?
無意識に視線が下に降りる。
篝火に照らされ、白い肌と白い髪が橙色に揺らめく。
下腹部に生え始めと思われる僅かな体毛も、髪と同じく白なのだなと馬鹿な考えがよぎった。
これはいったい何のための挑発なんだ?
もし彼女が狼の姿のままであれば、俺は躊躇わずに剣を振ることができただろう。
しかし今はただの幼子にしか見えない。例え魔女だとしても、そんな彼女に俺は剣を突き刺すことができるのだろうか?
俺は実戦で、人に向けて剣を振ったことがないのだ。
それに俺自身に魔法が効かないとは言え、現状は他の皆を人質に取られていると言えなくもない。
そもそも彼女の力が今の見た目通りとは限らないし……。
「もういい……。魔女が約束を違えないというなら、早く仲間を元に戻せ。このままここを立ち去れば俺もお前を追わない」
魔女は教会の敵だが俺の敵ではない。
下手に刺激をして反撃のリスクを取るくらいなら、このまま立ち去ってくれた方がいいに決まっている。
俺は剣の切先を下ろし、構えを少しだけ緩めた。
「ふふふ……感謝するぞ。そなたは良き羊の子じゃ。これは一つ借りを作ったとしておいてやろうかの。そなたは我が命を一度救った。その対価として、我は一度だけ其方の命を守ろう。我が名はヘリオトロープ。その名を忘れなければ、その約束は必ず果たされる……」
そして彼女ヘリオトロープは片膝をつき、
首に巻いた白い毛皮に触れたかと思うとその姿がみるみる狼に変化していく。
そのまま彼女は、一度も振り返ることなく森の中へ消えていった。
「おや、ユケイ王子殿下。こんな夜更けにどうなされたのですか?」
突然背後から声をかけられる。
「うわあぁぁぁぁ!」
その時俺があげた声は、深夜の野営地全体に響くようだった。
「ど、どうされたのですか!?」
振り向くとそこには、突然叫び声を上げた俺に驚く兵士の姿があった。
周りの視線が一斉に俺に集まり、襲撃と勘違いしたのか幕屋の中から慌てて飛び出してくる兵も数名いた。
「……体は大丈夫か?」
「は?体ですか?はい、特に問題はありません。お気遣いありがとうございます」
「そうか。だったらいいんだ」
兵士は訳がわからないといった表情を浮かべながら俺を不思議そうにみるが、少なくとも体調に異常があるようには思えない。
ヘリオトロープは約束を守ったということだろうか。
ふとみると、少し先にヘリオトロープが投げてよこした布袋が落ちている。
俺はそれを拾い上げて中を確認すると、そこには数種類の生薬が入っていた。
「彼女はこれが欲しくてここに忍び込んだっていうことなのか?」
ざっとみただけだが、袋の中にはそれほど貴重なものが入っているようには思えない。
もちろんどれも高価なものではあるのだが、それでも多少金を積めば買える程度の物だ。
袋には教会の印が刺繍してあり、彼女が俺を子羊、つまり教会関係者だと勘違いしたのはこれが原因だろう。
そう言えば彼女は当てが外れたと言っていた。
もしかしたら彼女は何か特殊な生薬を求めていたのかもしれない。
「ユケイ様!おっきな声を出してどうしたんですか?」
声の主はウィロットだった。
どうやら彼女は俺の叫び声を聞いて、駆けつけてくれたらしい。
彼女の手には勇ましいことに短剣が握られていた。
「ごめん、起こしてしまったかな」
「そりゃあ起きますよ。あんなおっきな声を出して」
「うん、ちょっとびっくりしただけだから、何でもないよ」
「何でもないなら何でそんな物持ってるんですか?」
彼女はそう言って、俺が手に持つ刺突剣を指差す。
「ああ、これはね、別に何でもないんだよ」
「……何でもないなら別にいいですけど。あれっ?」
何かに気がついたのか、ウィロットが俺の方にぐいっと歩みをよせる。
そして俺の胸に顔を寄せ、スンスンと鼻を鳴らした。
「……なんか甘い匂いがします。愛引きですか?」
「そんな訳ないだろ!」
「……確かにユケイ様に限ってそれは無いですね。せっかく寝てたんですから、もう起こさないでくださいよ」
「うん、悪かったよ。おやすみ、ウィロット」
「はい。お休みなさい、ユケイ様」
彼女は大きなあくびをすると、トボトボと自分の幕屋へ帰っていった。
おそらく深い眠りの中に居たのだろう。そんな中俺の声を聞いて駆けつけてくれる彼女を、素直に嬉しく思う。
そういえば、辺りに充満していた甘い香りはすっかりと消え去っていた。
もしかしたらあの香りが、ヘリオトロープの咒の正体なのかもしれない。
魔法によって作られた匂いなら、俺は嗅ぐことができない。
ということは、少なくともあの匂いは実体を持った何かということだ。
俺は拾った袋を兵士に手渡すと、異常がないか軽く野営地内を巡る。
野営地が以前と同じように小さな喧騒を取り戻しているのを確認し、俺は自分の幕屋へと足を向けた。
寝台に潜り込むと、自分の心臓が有り得ない程に早く鼓動していることに気がついた。
「あれが魔法か……」
俺は魔法を見ることができない。
それでも魔法でつけられた火は見えるし、魔法で破壊されたテラスも見える。癒しの奇跡を見れば、傷口が途轍もない速さで癒やされていくところを目撃するだろう。
それらは全て、魔法という現象が起こした残滓だ。
しかし、人が目の前で狼に姿を変える。そんな奇跡があるだろうか?
ヘリオトロープが狼に姿を変える瞬間を目にした。それはあれが、幻覚などではなく実際に彼女の全てが物理的に狼に置き換わったということを表している。
野営地全体を放心状態に陥らせた魔法といい、魔女の魔法は人が行うそれとは段違いな威力を持っている。
彼女はそれを咒と呼んでいたが、その全貌は一体いかほどのものなのだろうか。
「もし俺に魔力の目があれば、あんな奇跡をもっと身近に見ることができるのだろうか……」
そういえば彼女は俺のことを真実の目といっていた。それはいったいどういう意味だろう。
そしてもう1つ、俺には考えなければいけないことがある。
それは、明日の朝、俺はこのことを他の人に話すべきだろうか?
ぐるぐると頭の中をいろいろな考えが駆け巡るが、気がつくと俺は深い眠りの中に落ちていた。




