香水草の魔女 Ⅷ
日はすっかり姿を消し、辺りに夜の帳が下りる。
煌々と炊かれた松明の明かりに照らされても、満天の星空は陰りを見せることはなかった。
夏も終わりヴィンストラルドからだいぶ北に登ったせいか、それとも周りを囲む不気味で暗い森のせいか、吹き抜ける風は一段と冷たく感じる。
野営地の設営は速やかに終わり、それに携わった工兵の手際の良さは目を見張るものがあった。
ウィロットも含めて俺たちは存分にもてなされ、それに慣れていないウィロットのぎこちなさは微笑ましく思える。
彼女はたまらず、一人の兵士に尋ねた。
「なんで侍従のわたしたちにもこんな良くしてくれるんですか?」
「隊長からの命令ですから。お気になさらずに」
隊長からの命令というのは、要するにイルクナーゼからの命令ということだろう。
彼も俺に色々と気を使ってくれているのだろう。
感謝するのと同時に、見知らぬ人に傅かれてそれを当然のように受け取る自分に少し気持ち悪さを感じる。
夕食を終え、カインが警備状況の確認をするために席を立つ。
しばらくすると、四十代くらいの白い法衣を纏った男が現れた。
ヴィンストラルドから同行してきた神官だ。
先日俺が馬に飲ませるための下剤をもらった時はぶつぶつといつまでも文句を垂れていたが、今日はだいぶ機嫌が良さそうに見える。
おそらくザンクトカレンを目の前にして、気持ちにだいぶ余裕が出てきたのだろう。
「ユケイ王子殿下、お休みの前にお祈りは必要ですか?」
俺はうっかり「要らない」と答えかけるが、慌てて言葉を変える。
祈りを受ける趣味はないのだが、これから向かう先を考えれば申し出を受けておいた方がいいだろう。
「それではお願いします」
「はい、かしこまりました……」
男は小脇に抱えた分厚い本に手を置き、静かに神への祈りを始めた。
ほんの数分の祈りを終えると、男はにっこり笑う。
「ありがとうございました」
俺はウィロットにそっと目配せをする。
それを受けた彼女はぽかんとした顔を浮かべ、同時に頭の上に大きなはてなマークが見えたような気がした。
「喜捨だよ……!」
俺は小さな声で言う。
「きしゃ?」
「神官殿への寄付だ!」
「ああ!」
彼女は慌てて、俺の手に数枚の硬貨を握らせた。
そして俺は、言葉を添えて神官へ差し出す。
「神の御心に届きますよう……」
「神と精霊の光が、殿下の足元を照らすでしょう……」
神官は手の重みを満足そうに感じとり、それをそっと法衣の中にしまった。
「今夜は冷えるようです。葛根でも煎じましょうか?」
「いえ、大丈夫です。気遣いありがとうございます。神官殿は調薬がご専門ですか?」
葛根とは葛の根から取り出した澱粉を元に作る、この時代の一般的な栄養剤のようなものだ。
俺は昔から教会や治療院で調合される薬があまり好きでは無かった。
薬とはいえ当然それにも毒味が必要だ。
正体不明の薬を毒味させなければいけない。それも俺が薬を嫌う原因の一つなんだと思う。
教会は神の奇跡による怪我の治療だけでなく、薬学による風邪の治療や産院といった病院に近い機能も持っている。
その際は支払うのを躊躇うほどの寄付を求められるのだが、それでも治療院にかかることができない人からすれば教会は最後の救いの場なのだ。
中には胡散臭い祈りの言葉や適当な薬で治療を済ます奴もいるが、貴族やよほどの金持ち以外受診できない治療院より広く扉は開かれていると言える。
馬へ与えた下剤がとてもよく効いたところを見ると、この神官はそれなりの腕を持っているのだろう。まあ、部隊の同行を任されているのだから、実力がないということは無い。
もしかしたら深い生薬の知識があるかもしれない。
「あの、実は知り合いに月のものの巡りが悪くて悩んでいる人がいます。何かいい薬はないでしょうか?」
俺の問いに神官はピクリと眉を吊り上げた。
「……ユケイ殿下、子は皆神の巡り合わせです。仰るのがどのような物かは分かりませんが、そのような薬は存在しません。薬で子を求めるという考えは、あまり感心できませんな……。子を望むのなら神に祈りを捧げ、司祭から祝福を受けるのが唯一の方法です。その方はよく教会へ足を運ばれますか?」
彼の発言に明確な否定の意思が伺える。
劇的な効果は見込めないが、妊娠を手助けする薬草は多く存在する。
しかし、この神官が言いたいことはそう言うことでは無いのだろう。
薬師と聞いてうっかり言ってしまったが、確かに神官に言うべき言葉ではなかった。
エルフと教会は水と油だ。
エルデンリードに教会で祈りを捧げろとなどと言えるわけないし、そもそも祈りを捧げて子が宿るはずがない。
「その方は体があまり良くないので、なかなか出歩くことができないのです……」
「であれば尚更、教会を訪れることをお勧めいたします」
「……では次の機会に、そのようにお話ししておきます」
「教会の門は常に開いておりますゆえ、ぜひそのようにお伝え下さい」
「しかし、この森は静かですね。動物の気配すら感じないように思えますが……」
少し強引な話題の変更だったが、神官はやれやれと言わんばかりに首を振り、見逃してくれるのか俺の話題に乗った。
「兵達がいろいろと噂しておりますが、この辺りでかつて大規模な処刑があったというのは事実です。その処刑人の打ち捨てられた遺体から奇妙な植物が生え、その呪いで森から動物が居なくなったという話を聞きました。ですから、ザンクトカレンではこの森の中で植物を採集することは禁止されています。ユケイ殿下も、くれぐれもなされないようお願いします」
「この森に魔女が住んでいると聞きましたが……」
「……それはどういう意味ですか?」
神官の声がますます不機嫌になるのがわかる。
しまった……。コイツは「嫌なヤツ」だった……。
「深い意味はありません。どこかでそういう噂を聞きました」
「王子ともあろう方が、人前でそのような言葉を口にするのはよろしくありません。要らぬ疑いをかけられることもあります」
「疑い?」
「……いえ、よろしいでしょう。もし魔女を見かけたら私に教えて下さい。私が神の元へ送って差し上げますので」
男はフンと鼻を鳴らすと、その場を去っていった。
「……アゼル様がいなくて良かったですね」
「ははは、まったくウィロットの言う通りだね」
俺たちのやり取りを聞いていたティファニーが、呆れたような顔を浮かべる。
「ユケイ王子殿下は聖職者とあまりお話しされることはありませんか?」
「えっ……?どうなんだろ?あまり多い方じゃないかも知れないけど」
「もしここがリュートセレンで王子殿下が平民でしたら、おそらくもう既に命はありませんでした」
「えっ!?そんなに?」
「はい。神官様に魔女の話を聞くなんて、裁判にかけて欲しいと言ってるのと同じです。そのほかの話もだいぶよろしくなかったと思います」
どの辺りが不味かったのだろうか?
多少世間知らずな自覚はあるのだが、それほどの発言をしたつもりは全くない。
「王子殿下、どうぞザンクトカレンではあまりお口を開かない方がいいと思います。あの調子でお話をされては、わたしたちの命が幾つあっても足りませんわ」
「ユケイ様は時々ひとこと多いですからね」
「ウィロットさんもですよ?平民の命なんて、あっという間なんですから」
しかし、ティファニーの言うことはもっともなのかも知れない。
これから向かうのはヴィンストラルド内教会組織の拠点となる場所だ。
そして、その司教と俺は会うことになっている。
ここを上手く切り抜けて教会からなんらかの公認を得られれば、俺はだいぶヴィンストラルド国内で自由が利く筈だ。
教会が敵対しなければ、賢者の塔からの外出も許されるだろう。
しかしティファニーの言う通りならば、真逆の結果になるかも知れない。
「さあ、ユケイ様はそろそろお休み下さい?明日はもうザンクトカレンに到着しますから」
俺は身支度を済ませて、ウィロットに言われるまま自分用に組まれた幕屋に入る。
作られたベットは、簡素なものだったが、不思議と賢者の塔の自室より寝心地が良く感じた。




