香水草の魔女 Ⅶ
「なんだか快適な旅すぎて……。わたしまでもてなされているみたいで、すこし申し訳ないです」
「そんなことないよ。ウィロットもティファニーもよくやってくれてる。感謝してるよ」
「ミコリーナも一緒に行きたそうにしてました」
ウィロットのはしゃいだ声が草原に流れていく。
単調な馬の足音が響く街道において、彼女の声は不思議と自分がいる位置を繋ぎ止めてくれるような気がした。
彼女はティファニーと同じ馬に乗り、旅路も七日目にもなると二人はすっかりと打ち解けた様子だ。
ウィロットの言う通りミコリーナも心の底から同行したそうな雰囲気ではあったが、彼女にはそれができない理由がある。
司書としての仕事があるのはもちろん、今回の事態は彼女がその中心にいると言っても過言ではないからだ。
刻死病が克服できるかもしれない。
その噂は既に知れ渡っており、今までその治療により多くの寄付を集めていた教会関係者の耳にも、当然入っているだろう。
その刻死病の克服に関する治験を行なっているのがミコリーナなのだから。
しかし、快適な旅というのはまさしくその通りだ。
道中特に問題らしいことは起きず、強いて言えば雨に少し打たれたことと、二日から全身の筋肉痛に悩まされたこと、途中で小高い丘を登った時エヴォンの馬車でここを越えるのは大変だろうと思ったくらいだ。
僅かな傾斜でも、重い馬車と人間を引く馬にとっては、大変な負担になるだろう。
そして下る時は、その重りが背後から馬を襲うことになるわけだから。
だとしても、結局苦労するのは馬と家臣であって、エヴォンにとっては快適な旅になるのは変わらないだろう。
あと、途中の休憩中に馬がアセビを食べてしまったことがあった。
アセビとは前世では馬酔木と書くように植物全体に毒を持ち、馬が食べると酔ったような足取りになってしまう。
俺はその時同行してきた神官から下剤をもらい、それを馬に飲ませることで大事には至らなかった。
神官は薬を馬に飲ませるなんてと最後まで文句を言っていたが、そのおかげで兵たちとはだいぶ打ち解けることができた。
ヴィンストラルドを出た時は百五十名ほどいた部隊も、途中で数度切り離したり補充をして現状六十名ほどまで減っていた
あとは最後の野営地を設営し、そこで一晩を過ごして翌日にはザンクトカレンへ到着する予定である。
こうして旅をしていると、アルナーグを出てヴィンストラルドへ向かった時のことが頭に浮かぶ。
あれからもう半年近い月日が流れている。
あの時はアセリアもいたし、アゼルもいた。
今はウィロットとカイン、新しくティファニーが旅路に加わっている。
そして日が微かに傾き始めた頃、野営地を設置する予定の場所へとたどり着いた。
「……ここで野営をするということですか?」
カインの表情が曇る。
そこは森を突っ切って街道が通っている場所で、確かに野営地が設営できるほど十分に開けてはいる。しかし周りをぐるりと森に囲まれ、おおよそ安全とはいえないのではないかと思える。
「ご心配には及びません。ここは嘆きの森といいまして、名前は物騒ですが妖魔が寄りつかない森なのです」
部隊を指揮している若い将校がそう説明する。
妖魔とは一般的にゴブリンやコボルトなど、人間に害を成す亜人種のことを指す。
深い森は、亜人種のテリトリーなのだ。
奴らは高くは無いが、知能を持った生き物だ。これだけの大人数に襲いかかってくることはないだろう。
それでも襲撃の際は狙い澄ました不意打ちから始まる。
撃退はできても、こちらも少なくない被害を受けることになる。
「確かに妖魔が住まない森は多々ありますが……。森の手前か、抜けてから野営地を設置することはできないのですか?」
「この森は途中から丘になっており、この場で馬を休めなければ丘を越えることができません。森の手前に野営地を設置してしまうと、ザンクトカレンまでにもう一ヶ所野営地を作らなければならなくなってしまうのです。なに、ここでの野営は過去に何度も行われています。ご安心ください!」
そういうと、将校は設置の指揮を始めた。
確かに一日馬車を引いた馬に、丘を登らせるというのは酷だろう。
場所としてはここは合理的なのだろうが。
「なんだかこの森、わたしが子どもの頃に育った荘園の森に似ています」
ティファニーが懐かしげに辺りを眺める。
荘園の墓……。エスティアの伝言が頭を過ぎる。
彼女が過ごした荘園というのは、伝言にあった荘園のことだろう。
「グラステップはすぐそばだからね。植生も近いのかな。その森に妖魔は出たりしなかった?」
「本当に小さな森でしたから。けど、一度だけ子ども達が遊び場にしていた洞窟にゴブリンが住み着いてしまって……。荘園のみんなに内緒で、兄と二人で退治をしに行ったんです。ゴブリンはなんとか退治できたんですけど、後でエスティア様にすごく怒られました」
昔を思い出したのか、ティファニーはくすくすと楽しそうに笑う。
「兄というのは、この前言っていたアレックスのこと?」
「はい……。兄は戦争の時に、行方がわからなくなってしまったんです……」
「ああ、それは辛いことを聞いてしまったね。申し訳ない……」
謝る俺を見て、ティファニーは不思議そうな表情を浮かべる。
「お貴族様が平民に謝るなんて、王子殿下はほんとうに変わっていると思います」
「そ、そうかな?」
「はい。けど、昔はエスティア様も本当に気さくな方でした。その時はまだ、エスティア様がお貴族様って知らなかったんです……」
そういうと、ティファニーは表情を暗く沈ませる。
きっとそこでは、エスティアもティファニーも穏やかな日々を過ごしていたのだろう。
その平和な日常は、悪魔王によって踏み躙られたのだ。
「アレックスは騎士なんだよね?」
「え?……はい。どうしてそれをご存知なのですか?エスティア様から伺ったのですか?」
「あ、うん。えっと、そんなとこかな……」
この反応はどう考えればいいのだろうか?
ティファニーがイルクナーゼから遣わされた目付け役だとしたら、少々不自然に思える。
イルクナーゼがアレックスを探すとしたら、ティファニーという最も可能性の高い情報源が目の前にいるのだが……。
もしかしたら単純に、アレックスとティファニーの関係を知らないのだろうか?
そうなら、エスティアはそのことを知っていて情報をイルクナーゼに伝えていないことになる。
この奇妙な駆け引きは一体なんだろう。
イルクナーゼがやろうとしていることとエスティアがやろうとしていることが、微妙にズレているような気がする。
俺に知らされていない思惑がそれぞれあるのだろうが、その乖離に少し不穏なものを感じる。
「そういえばエスティア様へ兄は無事だと言っていたけど、彼とは連絡が取れたのかい?」
「はい。一度だけ塔に手紙が届きました。兄は今グラステップで傭兵のようなことをしているそうです……」
傭兵のようとはどういう意味だろうか。
「あの、ユケイ王子殿下。ザンクトカレンに着きましたら、少しだけお暇を頂けないでしょうか?」
「……お兄さんを探すの?」
「はい……」
もしかしたら彼女は、そのためにザンクトカレンについてきたのかも知れない。
彼女の目的と俺の……いや、イルクナーゼの目的は一致している。
素直にティファニーにも協力をして貰えばいいのだが、そうすることに対してなぜか強い後ろめたさを感じてしまう。
おそらくそれは、俺自身も心のどこかでイルクナーゼを疑っているのだろう。
「うん、休みは用意するからその間は好きにするといいよ」
「はい、ありがとうございます……」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
単純に、アレックスの手がかりをティファニーが見つけられればいいなと思う。
「なんの話をしてるんですか?」
不意にウィロットの声が割り込む。
彼女は小さな素焼きの壺を持ち、微かにモグモグと口を動かしているように見える。
「何食べてるんだよ……」
「兵隊さんに焼き菓子を少し頂いたので、ユケイ様に食べてもらおうと思って」
「それでなんでウィロットが食べてるんだ?」
「忘れたんですか?わたしはユケイ様の毒見役ですから」
「うん、まあそうだけど……」
「それで、なんの話をしてたんですか?」
どうやら彼女は暇を持て余しているらしい。おそらく俺たちの会話に混ぜて欲しいのだろう。
「この森がさ、ティファニーの故郷の森とにているんだって」
「そうなんですね。さっき兵隊さんに聞いたんですけど、この森はいろいろと噂があるみたいですよ……」
「噂って?」
俺の問いに、ウィロットはニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
「この森って、お化けが出るらしいです……」
「お化け?」
「はい……。金縛りに合う人がたくさん出たり、しっかり見張をしていても、幕屋の中から物が無くなったりとか……」
彼女はめいいっぱい怖く話しているつもりなんだろうが、容姿のせいか派手な身振りのせいか、どうしてもコミカルさが際立ってしまう。
「そ、そうなんですか……?」
ティファニーがそっと俺の影に入り、服の端を小さく摘んだ。
どうやら彼女には一定の効果があったようだ。
それに気をよくしたウィロットは、身振りがさらに大きくなっていく。
怯えるティファニーとは対照的に、俺にはレッサーパンダが餌を欲しくてぴょんぴょん飛び跳ねているように見えるのだが……。
「森の中でこの辺りだけ木が生えてないでしょ?ここは昔処刑場だったらしいですよ。しかも、森の奥には恐ろしい魔女が住んでいるんです……。毎日夜になると、森のあちこちから処刑された人たちの呻き声が聞こえるとか。それは怖くて妖魔達はこの森に近づかないらしいです」
「お化けの話が出てこないじゃないか」
「ユケイ様はせっかちですねぇ。なんか全身真っ白で目だけが真っ赤のお化けを見た人がいるそうです」
全身真っ白で目が真っ赤?
そう聞くとアルビノを思い出してしまうが。
しかしそれがなんでお化けになるんだ?足でも無かったのか?と言いかけるが、それを聞いてもこの世界の人には通じないだろう。
「ど、ど、どうしましょう、王子殿下……!」
「ウィロット、くだらない話をするな!」
俺がウィロットを止める前に、カインの一喝が飛んだ。
「べつにくだらない話はしてないです。わたしは兵隊さんから聞いた話をしただけですから」
「きっと心配ないよ。今回の旅には神官もついてきてくれてるんだから」
「そ、そうですよね。神官様がいらっしゃいますから……」
どうやらティファニーはこういった話が苦手らしい。
ウィロットは面白くなさそうに頬を膨らます。
「けどそれって、妖魔が出なくてももっと危ない何かがいるってことじゃないよな」
「どうなんでしょう?兵隊さんは大丈夫だって言ってましたけど」
「狼とか熊とかは出ないのかな?」
「それも聞きましたけど、一晩中篝火を焚いておくから大丈夫だって」
「まあ、それはそうかも知れないけど……」
設営は進み、慣れたもので次々と幕屋や竈門が作られていく。
周りには簡単な柵も作られていった。
これは確かによっぽどのことがなければ大丈夫だろう。
そして作業が進み、それに合わせて徐々に日も沈んでいった。
しかし妖魔や獣が本当に大丈夫だとしても、世の中にはもっと危険な生物がいる。
旅に出る際、旅人が最も警戒しなければいけないもの。それは「人間」だ。




