香水草の魔女 Ⅳ
俺がこの世界に転生した時、小さな一つの嘘をついた。
それはまだ喋ることも出来なかった頃の話だ。俺は魔力の目を持たないのではないかと疑われた時、優しくお人好しな兄ノキアに取り入ろうとした。
当時の俺は、王家の汚点として命の危険に晒されていた。
それを回避しようと、優しい兄に必要以上に懐き、身を守ろうとしたのである。
一時期はウィロットと出会ったオルバート男爵領へと出されるが、やがて離宮に戻り穏やかな生活を送る。
そこでの俺はノキアに出された課題を前世の知識を使って次々と解決し、兄の手柄を横取りするように評価を集めていった。
決してそうしようと思ったわけではない。しかし、結果的にそれが兄と俺の溝を深めていたことに気づいていなかったのだ。
やがて俺は、彼が俺への嫉妬を募らせた結果に犯そうとした不正を暴くこととなる。
その時の軋轢が原因で離宮へ幽閉され、それ以来彼がアルナーグから旅立つ日でさえその姿を見ることはなかった。
「お兄様が……、そんなことはあり得ません……」
そうか……。俺が呼び出されたのは、この羊皮紙に書かれた署名の筆跡を鑑定させるためだったんだ。
そして詳細を隠してそれを検認させたのは、俺の反応を見るためだ。
つまりイルクナーゼは、ノキアとの確執を知っているということだ。
俺は羊皮紙を握りしめ、そう答えるのがやっとだった。
その言葉に対して彼の反応は冷静だ。
「ユケイ、あり得るあり得ないを聞いているんじゃないんだ。そのサインの筆跡に、見覚えがあるかと聞いているんだよ」
恐る恐る、再びサインに目を落とす。
しかし彼の文字を見たのは六年以上前だ。記憶を手繰っても、思い出すことはできない。
「わかりません……」
「……そうか。正直に答えてくれたと信じるよ。もしそのノキア・ステルラに直接会えば、彼が誰なのかは教えてくれるね?」
「……はい」
「ありがとう」
イルクナーゼはにっこりと笑う。
「なに、その人物がユケイの兄だと決まった訳じゃないんだ。そもそもアウレリウスが本物かどうかも疑わしい。しかしこんなことをしても周辺の反感を買うだけだ。なんでそんなことをしてくると思う?」
彼は俺に、「考えてごらんと」でも言いたげに問いかける。
そうだ。そもそも亡命政府というまどろこしいやり方を使うのはなぜだ?
グラステップの首都はライハルトが押さえているのだ。正統な王族だというなら、さっさと玉座に座らせてしまえばいい。
そうしないのは、それができない理由があるからだ。
その理由は考えれば難しくない。
「アウレリウスが偽者だから……でしょうか?」
「その通りだ。もしくは、本物であったとしてもその証明ができない」
「確かにそうです」
「グラステップは今はもう帝国を名乗っていないが、多民族国家なのは変わりない。それをまとめ上げられたのは、少なくとも先先代皇帝の力があってこそだ。傀儡の王などを立てれば、火の国や水の国、海の国も敵に回すことになる。グラステップ内で生き残っている貴族達はもちろん、異民族も黙っていないだろう」
「異民族……。鳥の民やエルフ達ですね」
「特にエルフを敵に回すのは厄介だ。彼らはグラステップが侵攻された時、ライハルトに強い恨みを持っているからね」
俺の頭に、マリーやエルデンリードの顔が浮かぶ。
「ユケイはエルフと会ったことはあるかい?」
「はい、あります」
そう答えた瞬間。
「んん!?」
誰かが奇妙な声をあげる。
声の主に視線を向けると、そこには目をまんまるに見開いてこちらを凝視するアゼルの姿があった。
あ、しまった。
そう呟く俺の心の声が漏れていたのか、同時にウィロットとカインも俺と同じことを察したようだ。
アゼルはウィロットとカインをバッと睨むと、二人とも「ヤバイ」という感じでサッと視線をずらす。
「どうしたんだい?」
「……いいえ、何でもありませぬ」
不審に感じたイルクナーゼの問いに、アゼルはそう返事をする。何でもないと言いながら、その表情は明らかに激怒していた。
アゼルは俺が八才の頃から、ずっと俺の護衛をしている。
つまり俺の人脈のほとんどと、顔を合わせてきていることになるのだ。
そしてつい最近彼が怪我をして俺の元を離れるまで、俺がエルフと会ったことがないということを知っていた。
つまり彼が俺の元を離れたたった数ヶ月の内に、俺はエルフと会っていたということになる。
もしあの場にアゼルがいたら、絶対にエルデンリードと会うことを許可しなかっただろう。
彼の視線は俺たちに、「私がいない間に一体何をしていだのだ!」と激しく怒鳴りかけているのだ。
いや、別に悪いことをしていたのではないんだけどな、とは思う。しかし彼にしてみれば、人より遥かに強大な力を持つエルフと俺を直接会わせるなど、あり得ないと言うのだろう。
これはきっと、後で怒られるな……。
ふと気づくと、先ほどまで沈んでいた心が少し軽くなっている気がする。
そうだよな。不確かな情報にあれこれ悩まされていても仕方がない。
今の俺にとっては、アゼルの怒りをどうかわすかの方が大切だ。
「……何か面白いことがあったみたいだけど、とりあえず話を進めていいかい?」
「あ、はい!ぜひ進めて下さい!王子様!」
ウィロットが慌ててイルクナーゼの話を促す。
イルクナーゼは呆れた顔を浮かべる。
そんなことをしても時間稼ぎにしかならないのに。
……ああそうか、時間稼ぎか。
「キミたちは楽しそうでいいね。……まあいいよ。それじゃあ彼らは何をしたいんだと思う?」
「えっと、それは……時間稼ぎでしょうか?」
「時間稼ぎ?」
「双方で亡命政府の樹立を宣言すれば、とりあえずどちらの言い分が正統なのかを精査する時間が必要になります」
「どちらが正当かなんて、明らかだと思うけど?」
「それはもちろんです。ただ、例えば火の国フラムヘイドや海の国シートーン、水の国ローセトイヤからしてみれば明らかでしょうか?」
「それはそうだが、疑うのであればエスティア王女を会わせて差し上げればいい。王女はどちらの国とも面識があるからね。誰も見たことのない、名前も知られていない王子より確実に信頼はある」
「その通りです。しかしその使者を使わすだけで、数ヶ月はかかるでしょう。数ヶ月も経てば冬になり、グラステップの大部分は雪に隠れる。そうすれば、少なくとも春までは直接戦うことは避けられます。グラステップ内でライハルトとヴィンストラルドが争えば、グラステップの人々はエスティア様がいるヴィンストラルドに味方するでしょう。悪魔王が優秀であるなら尚更、人の利をこちらに預けた状態で戦などしたくはないはずです」
「なるほどね……。けど、それでも持って来年の春までだ。春になれば我々は大義名分を持って堂々とライハルトに戦いを挑める」
そうだ。結局春になれば事態は動き出す。
たった半年程度、時間を稼ぐことにどれだけ意味がある?
しかしその半年の間に、アウレリウスが正当な王の資格を手に入れることができれば、堂々とグラステップの玉座に座ることができる。
王都はライハルトの手にあり、玉座もまた然りなのだ。
王の資格……、そうか、この世界にはアレがあったのだ……。
「……エスティア様は、草刈りの魔導書をお持ちではありませんね?」
イルクナーゼとエスティアが、ハッと息を飲んだのが分かる。
重い沈黙が部屋を押し潰さんとしているようだ。
竜の遺産。
かつて始まりの竜を各国の王が打ち倒した時、それぞれの王が竜の亡骸より得た奇跡がある。
草刈りの魔導書、それも遺産の中の一つだ。それはその時グラステップの王が授かったもので、王を王たらしめる証のようなものでもある。
そしてグラステップのそれは、ライハルトとの戦争時に無くなったと聞いている。
「アウレリウスが持っていると言うのかい?」
「もし持っているのなら、彼はすでに王を名乗っているでしょう。ただこれが無意味な時間稼ぎではないとしたら、春までにそれを見つける当てがあるのかも知れません……」
「なるほどね……。この絵を描いたのは、件の悪魔王だろうか」
「それはわかりませんが……。ただ、たった二年で国を一つ滅ぼしたのです。戦だけで成せることではありません」
「肝に命じるよ。ただ、まだ魔導書を持っていないのなら我々が先に見つければいいということでもある……」
それはそうだが……。
イルクナーゼには何か当てがあるのだろうか?
「竜の遺産と王家の血……。玉座に座る資格があるのはどっちだろうね」
「良き政が行われていたのであれば、民は王家を歓迎するでしょう。しかし竜の遺産を正統とした方が、都合の良い者たちもいるはずです」
イルクナーゼは一瞬遠くを見つめるような目をし、椅子の角をそっと撫ぜて呟いた。
「……王座とは、国を繋げるための襷のようだなって時々思うんだ。襷は穏やかに渡されるべきであって、それを巡って争うなんて馬鹿馬鹿しいことだよ」
それに答えたのはエスティアだった。
「イルクナーゼ王子の仰る通りだと思います。しかしわたくしは時々、王座の方が主であって、人の方が襷のような気がする時があるのです。もしかしたらそこに座っているのが誰かなんて、人々には関係がないのかも知れません……」
イルクナーゼはそっとエスティアの肩に手を乗せる。
「エスティア王女、貴女は民のために王座に座ると決心したのではありませんか?弱気になってはいけません」
「……はい。申し訳ありません」
「いいえ、私も出過ぎたことを申しました」
イルクナーゼはフッと笑う。
「けど、もしそれでカタがつくなら、軍を動かして土地を奪い合うよりよっぽどいいね。アルベルト兄さんは悔しがるかもしれないけど」
イルクナーゼは俺の肩へ、ポンと手を乗せた。
「さあ、魔導書争奪戦といこうじゃないか!」
「えっ!?」
それは俺に探せと言っているのか?
俺の驚いた表情を見て、イルクナーゼはとても満足そうな顔をした。




