森の人 Ⅰ
その日の午後、イリュストラが侍従のアンを一人引き連れて俺の部屋に現れた。
今日の彼女は法衣ではなくドレスを纏い、どことなく落ち着いた印象を受ける。
「イリュストラ姫、ミコリーナのことで色々とご配慮を頂いたと聞きました。本当にありがとうございます」
イリュストラは俺の言葉を聞き、にっこりと微笑んだ。
「ユケイ王子、そのような仰り様水くさいですわ。わたくしと貴方の間ですもの。むしろ初めから相談していただければよかったのに」
「いえ……、そんなことは……」
「わたくしの立場を思ってくださったのでしょう?」
「それは……」
イリュストラは自ら枢機卿の座を目指すと宣言した。
ミコリーナの治療に協力するということは、教会から多くの利益を奪う結果となるかもしれない。
それは枢機卿を目指すにあたり、大きな汚点になるはずだ。
「心配ありませんわ。教会にはなるべく知られないようにしていますから」
「しかし……」
そんなことは不可能だ。
俺の心配をよそに、イリュストラの表情はとても晴れやかだ。
「ユケイ王子、プリオストラの体調が最近とてもよろしいですの。やっぱり王子が仰ったとおり、猫が原因だったみたいです。それに教えていただいた『ぱっちてすと』をして、他にも何種類か食べ物を制限したのも効果があったのだと思います。ユケイ王子にはどれだけ感謝しても、し足りませんわ」
「それは、ほんとうに良かったです」
イリュストラの双子の弟プリオストラは幼少の頃から体が弱く、慢性的な体調不良に悩まされていた。
それに対して俺は猫を含むアレルギーの除去をアドバイスし、どうやらそれが功を奏しているようだ。
「けど、刻死病の克服に手を貸すということは、危険を伴いませんか?」
イリュストラは俺の目をまっすぐに見て、ゆっくりと首を左右に振った。
「これはおそらく、神が望んでいることなのです。……ウィロットさんの心臓が一度止まったというお話もうかがいました。けど、わたくしは以前、シャルロッテの子どもが息を吹き返すところを見ています」
そういえばそうだった。
以前、イリュストラが飼っていた猫が息をしていない状態で出産されたのを、ウィロットが救ったことがあった。
あの時は除細動は使わなかったが、心配蘇生の原理は同じである。
「刻死病もそうです……。神の奇跡は、今まで多くの人を癒してきました。けど、神の奇跡だけでは救えない人がいるのも事実です。しかし、神は必ず全ての人に救いの道を残して下さっているはずですわ。であれば、人の手による奇跡もまた、神の御業です」
「それは……その通りです。ただ、きっと教会の人々はそのようには考えません。人の手による奇跡は、神の威信を傷つけると考える人もいるでしょう」
「ユケイ王子は、あまり教会がお好きではないのですね」
彼女の言葉にドキッとする。
それは図星である。「神の奇跡」という魔法系統があるこの世界においても、俺は正直神の存在を疑っているのだ。
それは前世の宗教観が大きく関わっているのだろうし、少なくとも神がいたとしても俺の目に留まることはないだろう。
「……実はわたくし、婚約が決まったのです」
「……えっ!?」
俺は自分の耳を疑う。
イリュストラは十歳の少女だ。
「まだ秘密なので、誰にも言わないでくださいね?」
「それは……、もちろん言いません……。しかし、それでは……」
「わたくしの体は髪の毛一本、ドレスのレースまで、全て民から頂いた物で出来ています。ですから、わたくしが結婚することで民に恩返しが出来るのであれば、わたくしは喜んで嫁ぎますわ」
「……枢機卿を目指すイリュストラ姫が、それを望んでいるとは思えません」
女性が枢機卿になることは非常に難しい。それが既婚ということになれば、その可能性はグッと少なくなるだろう。
「枢機卿になるというのも、民に恩返しする手段の一つですわ。手段が変わっても、わたくしの思いは変わりません。もちろんそれが民のためにならないと思いましたら、そんな婚約はすぐに破棄して差し上げますわ」
イリュストラは胸を張り、鼻息荒くそう宣言する。
何故急にそんな話が持ち上がったのか。
その理由は想像に難くない。
きっかけはおそらく、先日のグラステップ亡命政府だろう。
王女の婚姻は、強力な外交手段の一つだ。
今この状況で、ヴィンストラルド王家との強い結びつきを欲するのは国内外に多数いる。
世界は今、誰が味方で誰が敵なのかを見極めようとしている。彼女はそれを確認するための手段とされようとしているのだ。
広い目で見れば、それもまた民のためと言えなくもない。
そして彼女がいうことも、王家の人間として間違いではない。
しかし、ほんとうに彼女の望みは果たされるのだろうか?
「大丈夫です。わたくしが成人するのに、まだ六年もありますから。当然結婚するのはわたくしが成人してからです。その間に相手のことをしっかりと知ることもできるでしょう」
「……はい」
あの日生まれた世界の歪みは、形を様々に変えてあらゆる場所に影を落としていく。
イリュストラ、ウィロット、カイン、イザベラ、ローザ、その他大勢のひとや俺、俺の母も含めて、様々な人が影にのまれ人生を大きく変えることとなった。
いや、本当はあの日に生まれたのではない。
全ては悪魔王と呼ばれる一人の男から始まったのだ。
もしその歪みを正すことができれば、みんなそれなりの未来を夢見ることができるのだろうか……。
「ふふふ、ユケイ王子、そんな顔をなさらないでください?そもそもわたくしは枢機卿になるのを諦めたわけではありませんよ?」
「えっ?」
「当たり前ですわ。わたくしには作戦がありますの!」
「作戦ですか?」
「はい!ユケイ王子もぜひ協力してください!」
彼女は元気に返事をすると、まるで素敵な悪戯を思いついたかのような、満面の笑みを浮かべた。




