半年が過ぎると 1
”でも、これは夢。夢から覚めないでいれば、私も、あなたも夢を夢だとは思えない。夢のほのかに薫る心地よさは、目を覚ました後だからこそ、際立って感じることができる。だから”
***
時計を見ると既に19時を回っていた。私は夕御飯を済ますために立ち寄ったお店で、立ち往生、ではなく、座り往生をしている。食欲がない。なのにも関わらず、考えなしに普段と変わらない量を頼むものだから、目の前にある食べ物は、一向にその量を減らさないでいる。私はせり上がる溜飲をどうにか押し止めていた。店内は夕ご飯時だからか、お客も多く、がやがやと賑わっている。じっと料理を見つめ続けるわけにもいかなく、逃げ場を求めた視線は、店内のモニタに行き着いた。
(千葉県柏市の住宅で、男性の遺体が発見されました。死亡していたのは、この住宅に住む会社員、西孝臣さん(51)で、頸部を刃物のようなもので切りつけられ─)
夜の街灯に虫がよってくるかのように、私はモニタから流れる情報に吸い込まれるようにして思考が誘導される。見るからに凄惨な事件は、私に苦い感情を連想させた。
不幸とはなんだろう。突き詰めれば、それは死んでしまうことなのだろうか?…どうにも、そうでは無さそうな気がする。今際の際になって、別れを惜しまれ見送られる人だっている。それは幸せなことだと思う。たとえ命がついえたとしても、尊重された個人は、不幸のそれには該当しない。
(捜査関係者によりますと、現場は荒らされていないことから、強盗目的ではなく私怨での犯行との見方を強め生前関係のあった人物を─)
…誰かの恨みを買って、殺されてしまうことは不幸だろうか?…それは違う。それは因果応報というものだ。他人の不幸を願う者に不幸を語る資格はないはずだ。この場合、恨みをかぶせられた人物こそが不幸というものだろう。
もし、あらゆる人々が、心底穏やかであったら、不幸なんてものはなくなるのではないだろうか。妬みによって迫害を受けない。恨みなんてそもそも生まれない。万人が万人を認め合えば、幸せ一辺倒になりはしないか。
周りが優しい人だらけ。それが恵まれていることなんて誰にだってわかる。それがわかっているなら皆が結託して優しい人になればいいじゃないか。でも現実にはそんなことは起こりはしない。…それができないのは、他人を認めないことの方が、幸せを感じることよりずっと早く、不幸を遠ざけることができるからじゃないのか。
幸せと不幸を、単位同士で足しても、プラマイゼロじゃない。それはつまり、自分の存在が価値あるものだと認識できなくなることが、不幸というものの本質だということではないか。さもありなん、というように、私は結論付ける。…これは結論ありきのつじつま合わせだろうか。
(明日の天気をお伝えします-!明日は全国的に涼しい陽気となり─)
私がここに来るまでの空模様は何であったか。雨ではなかった。私は濡れていないからだ。フィクションなら、沈んでいる気分の登場人物に宛がわれて、雨が降るものだ。私の心模様と、空模様は無関係、当たり前のことだった。
今の私の心模様は、一体どうなっているんだろうか。
***
─揺れている。帰りの電車の中で、私は揺られている。電車がカーブにさしかかり、持ち手のいないつり革が一斉に傾く。私の身体も、その方向へと傾いていく。普通なら、意識せずとも、その反対方向へとバランスをとるものだけど、今の私は、それさえも億劫になっている。身体にかかる力に抵抗せず、このまま倒れることができたら。
風見鶏は、風の吹いてくる方向に向き直さない。川に落ちた葉は、上流へと上ってはいかない。現実のあらゆる禍根も、きっとそういうものだろう。妬みや嫉み、恨みは大きな流れだ。その流れに身をおきながらも、人は流れに従順になって、いなして、事なきを得ている。しかし時折、その流れが濁流となって、誰かに襲いかかる。その流れに、足を取られてしまうことは、誰にだって避けようがないのではないか。
その濁流に飲み込まれて、沈んでいってしまったら、人はどうなってしまうんだろう。そうして沈んでたどり着いた底は、かえって静かなのではないだろうか。
「次は○○ お出口は右側です」
電車のアナウンスが私の耳を横切る。私が降りる駅はまだまだ先だ。普段なら聞き流すようなアナウンスが耳に入るというのは、これはもしかしたら、これ以上思考を進めるな、という私の防衛本能なのかもしれない。そんなことを思いつつも、滑落する思考はその程度では止まるはずはなかった。
─沈んでいく。いや、私はそうしない。軽んじ疎まれていることがわかったとしても、私は彼女達の前で、哀しまず、かといって怒らず、今まで通りの私を装うに違いない。きっと私は虚ろな笑顔で、彼女らの悪意を受け取る。
”何かを演じる私を見てくれる誰かの為に、私はそれを演じ続けてしまうだろう”
彼女らにとっての慰みものであった自分を、変わらず演じ続ける。私がかつて感じた予感を、今まさに実現しようとしているのだ。それも飛びっきり悪い形で。
私はスマホを取り出し画像フォルダを開く。そこに写るのは、フニと私のツーショットだ。
私は笑っている。その時の、私の屈託のない笑顔こそが、誰かに見せるべき本当の笑顔なのだろう。
私は嗤っている。そんな笑顔を今、誰に向けたらいいのか。そんなこともわからないでいる自分を。
自嘲しながらも、手は無意識にスマホを操作している。スワイプして出てくる画像の中にはあの世界の写真もいくつもあった。そして画像フォルダの一枚の写真が目にとまる。
これは─
***
半年近く経つ頃には、saicaと私には共通の友人が何人か出来ていた。一緒にゲームで遊んだり、綺麗な景色を観に行ったり。この世界に用意された、遊び尽くせないほどのコンテンツを皆で遊んでいった。私はこの世界での自分の姿に後押しされたのもあって、その人達と自然と談笑することができるようになっていた。
この世界では現実での立場や年齢、性別、見た目、育った地域などはコミュニケーションの弊害とはならない。皆が同じスタートラインに立ち、まるで最初からこの世界の住人であったかのように皆が振る舞う。そんな雰囲気に慣れてきたから、私から自然な会話が引き出されるんだと思う。
「ふにちゃん、最初声出すのも恥ずかしがってたのにねぇ」
なんて、saicaのアバターがしたり顔になって私をからかう。私が声を出してコミュニケーションをとることを恥じらっていたなんて、遠い昔のことのように感じる。
共通の友人の中には、文字でのチャットのみで話す人もいる。それが可能なのもこのゲームの特徴だろう。いつでも取り出せるペンで空中に文字を書くことができるし、キーボードに入力した文字もアバターの頭の上に表示することができる。現実でも似たようなことは出来るだろうけど、私が想像するやり方よりは断然早く、この世界では文字だけでやり取りが出来る。
”ふにさんもチャットではなしてたんですか?”
「それがね、ふにちゃんジェスチャーだけで頑張ってたの!」
その話を聞いて現実の私は赤面するが、私の纏うアバターは涼しい顔をしている。だってしょうがないじゃない…チャット使えるの最初知らなかったんだもん…
今saicaとやりとりしているのは、一緒に遊ぶようになったショウ君だ。君付けで呼ぶのは、彼の一人称が僕であるからで、実際のところ中身が女性なのか男性なのかはわからない。ショウ君の言葉遣いは丁寧で、敬語を欠かさない。生真面目な性格が垣間見え、saicaとは違った形の人との適切な距離感覚を持っている風に私は思え、その態度には好感を覚える。
ショウ君は二足歩行の、犬、だと思うのだけど、あるいは狼かもしれない姿をしている。獣人というのだろうか?ファンタジーものの物語で見かける、人間と獣の間の種族というものだろう。表情は穏やかだけど、その瞳には凛々しさを感じさせるものがある。中世風の衣装を着たその姿は、現実ではまずできない姿、という点においてこの世界にふさわしい姿と言えるだろう。そう言えばショウ君は出会った時からこの姿だった。
”僕もHMDがあれば、もっと気持ちが伝わるようになりますかね?”
「確かに、動きは加わるけど、それより大事なのは、自分の気持ちを伝えたい、とか、相手の事を知りたい、っていう気持ちじゃないかな?」
”そうかもしれませんね”という文字がショウ君の頭上に映し出される。私なんかに比べれば、ショウ君はよほどお喋りだ。saicaのいうことはもっともで、確かに私は、身振り手振りなんかよりも相手の心に踏み入る気持ちを持つことのほうが人と仲良くなるのによほど効果的であることを、saicaと行動をともにして学んだ。相手に気持ちが伝わる媒体は、何も体の全てから表されるものでなくてもよいのだ。
”魚心あれば水心、ですか”
会話の流れから意味は理解できるけど、聞いたことがあるようで無いようなことわざがショウ君の頭上に浮かんだ。
「うん。それと、掌」
そう言ってsaicaはスッと手のひらをショウ君に差し出す。それを見て呼応するようにショウ君は手を差し出すしぐさ(エモート)をする。そうだ、相手を認めるという気持ちが、仲良くなる為には必要なんだ。
***
ショウ君と知り合ったのはもう二ヶ月も前の事になる。私とsaicaが二人で喋っている時に、彼が私達に近づいて来たのが、会話のきっかけだった。彼は操作もおぼつかない様子で、私達の近くにあった案内の書かれた場所を行ったり来たりしていた。それを気にかけたsaicaが声をかけたのだ。
「こんばんは!もしかして、このゲーム、はじめてですか?」
語りかけても彼は無反応で、saicaはすぐさま「PCでプレイしている方ですかね?チャットのやり方はわかりますか?」と続ける。文字でのチャットのやり方は、私もその時に初めて知った。VR機器での操作とPCでの操作は大分異なった部分がある。saicaはVR機器の使用者であるのにも関わらず、PCでの操作方法を知っていて、それらを懇切丁寧にショウ君に教えていった。私はそれを傍目にsaicaの面倒見のよさに感心するだけで、やはり私は人見知りが発揮されて、相づちを打つので精一杯だった。
ショウ君の飲み込みは早く、二人のやり取りは思いの外スムーズだった。その内容は初心者になにかを説明するものではなくなっていて、次第に世間話になっていった。不思議だった。文字と声での対話というのは、現実ではレアケースであるはずだ。相手がやむない事情で声をだせないとき、自分は通話をしながら、相手に文字を送ってもらう。とか、私には無縁だけど、例えば動画の投稿者がライブをしていて、コメントに呼応する、とか。レアケースであるはずなのに、目の前で起こっているそれには違和感がなかった。
「あ、ごめん今日はそろそろ落ちないといけないから、ふにちゃん、あとお願いできる?」
「え?わ、私?」
その日はsaicaに用事があるらしく、案内の続きを任せられた。と、言っても操作の説明はしたし、何をすればいいのだろうか。
「ほら、ここにはいろいろなところがあるし、そこにつれていってあげたらいいんじゃない?」
この世界の楽しみ方のひとつに、現実では見られないような景色をみられるというのがある。VR空間ならではの楽しみ方ではあるけど…でもショウ君はPCでプレイしているから、退屈してしまうかもしれない。
”あ、すいません、お手間でしたら”
「あ、いえ、大丈夫です。」
「用事終わったら、合流するよ~じゃあね~」
そう言うとsaicaはログアウトした。案内なんて、やったことはないけど、とにかく任されたからにはやるしかない。
「どこかいきたい場所とかありますか?」
しまった─と思った時にはもう遅い。何て間抜けな案内の仕方だろうか。遠方から有名な場所、例えば東京なんかに観光しにきた人にそう聞くのなら、スカイツリーだとか、雷門だとか、そういう名所を答えることもできるだろう。でも見知らぬ土地にきた人に、どこに行きたいなんて聞いても、まともな返答なんてできるわけがない。
チャットを入力しているときは、アバターの上に”...”と表示される、私の質問に答えかねて、しばらくその表示を見つめることになるかと思ったけど、その予想は外れることになった。
”連れて行っていただけるのであれば、どこへでも、ふにさんのおすすめの場所をお願いします”
もしこの世界の見るもの全てが新鮮であったのなら、名所というものは、未だ存在しないかもしれない。大人が雪を見て感動しないのは、かつてその現象を見たことがあって、珍しさより、それ以外の不都合の方が目立ってしまうからだろう。子どもの目に写る、初めての雪は、きっと世界の大変革のように写っているに違いない。
「そうですか…えっとじゃあ…」
ショウ君にとっては、この世界は初めてづくしだから、どこであっても、退屈はしないのかな。”どこへでも”という言葉を選んだのは、その気持ちの表れのような気もする。相手はこの世界について何も知らないんだ。私は言葉を慎重に選んだ。
「水辺がよかったりしますか?それとも見晴らしのいい山とか…」
その一言で、ショウ君の頭上には”…”としばらく表示されることとなった。




