一ヶ月が経ち 3
にゃあ、と鳴くフニの姿は可愛らしい。可愛いというだけでも十分に存在感があるのに、しゃんしゃんと微かに鳴る鈴の音が、フニの存在感をより際立たせている。フニは朝食を終えて、水を飲んでいる。しゃんしゃん。子猫だからか、その行動全てが一生懸命で忙しい。その忙しさを、鈴の音で装飾しているかのようだった。鈴の音がその時の私にもたらした効果は絶大だった。鈴の音は見事に”私の”フニという所有格を消し去ってしまったのである。フニは、私とは関係なく、そこにいる。生き物として、精一杯のことをやっている。幼い私は、ぼうっとフニを見つめ、思考で重くなった頭を、頬杖をして支えていた。
次の日、私は机の上に鎮座している貯金箱から幾ばくかのお金を財布にしまい、家の近くの雑貨屋さんに向かった。一人で買い物をしに行くことを母は普段許してくれないが、その時ばかりは、「気をつけて行ってくるのよ」と、後を押すかのように了承してくれた。今思えば、あれは、なぜ無責任な私に生き物を飼うことを許してくれたか、の答えだった。
外に出ると、固いアスファルトの上の陽炎が目に飛び込む。夏の日差しは、私の旅路...というほど大袈裟なものではないけど、外出を歓迎はしてくれていないようだった。幸い、天気予報は晴れ。どしゃぶりだったら外出なんてできないので、これでも、お天道様の機嫌はそこそこと言える。これから買うものが決まっているという意識の表れか、私は財布をポーチには入れずに、汗ばむ手でぎゅっと握りしめて雑貨屋さんに向かった。財布に付けられた手作りのキーホルダーが歩くスピードに合わせてメトロノームのように振れて、私の手に当たる。そのリズムは、まるで万歩計がカウントを進めるかのようで、目標に向かっているという感覚を私に与えるのであった。
***
私は雑貨屋でペット用品とにらめっこしている。フニに似合う鈴を探している。私がフニにしてあげられることの第一歩はそれだった。鈴は、私とフニが対等であるために必要なものだ。しかしどうだろうか、いつまで経っても、私はフニに似合う鈴を見つけられないでいる。
(猫って、鈴の音を嫌がるらしいの、あまり大きいと負担になるかもしれないし─)
母の声が頭に反響していた。幼い私には"配慮"という概念の理解が難しく、鈴選びを大いに難しくさせていた。わからない。フニが欲しがっているものが、私にはわからない。私は途方に暮れ、商品が陳列されている棚をいったりきたりするばかりだった。
私は、想像力が足りない私に落胆してしまう。肩を落とすというのは慣用句ではあるが、実際にガッカリすれば肩を落とすほどに脱力してしまうものだ。子どもであれば、なおさらそのリアクションというものは見てとりやすい。私の手に握りしめ続けられていた財布は、その脱力によって床にストンと落ちてしまった。
床に落ちた財布を拾おうとすると、財布についたキーホルダーが私の目に止まった。それは母が私のために作ってくれた、熊のキーホルダーだ。あのミュージカルビデオの主人公。衣装違いのキーホルダーを数個貰った。財布、筆箱、ランドセル…キーホルダーをつけられる場所なら全部に付けたかった。それぐらいそのプレゼントは嬉しかった。
そうか!私は閃いて、アクセサリの素材コーナーへと足早に移動した。それがフニが欲しいものかはわからない。だけど、もらって私が嬉しかったものはわかっていた。もしかしたら、”配慮”とはそういうことなのかもしれない。あった!母が買ってきた鈴と同じぐらいの大きさの透明なカプセル。そして、色とりどりの大小のビーズ。この二つがあれば、私の思いを形にすることができるだろう。私はその二つを購入し、家に帰るや否や、リビングのキャビネットから工作に必要な接着剤やハサミ、糸、ピンセットを取り出し、自分の部屋へと急いだ。母は察しがよく、私が買ってきた小物をみて得心がいったようで、私の帰っていきなりの行動にも動じず、夕飯の支度を続けていた。
***
その球体には様々な星が写っている。縦横無尽に球体の内側に紡がれた線は、知っている星座の一部を真似た物だ。神様が、星空を外側からみたら、きっとこう見えると思う。私の幼い想像力は、ふわりと宙へと浮かび、雲を突き抜け、空をも貫いた。フニはこの球体の内側に住む動物。私は外側から、この数々の星の中から、フニを見つけ出す。
カプセルの中に大小様々なビーズが敷き詰められ、カプセルの内側には糸が張り巡らされている。壮大なテーマで作った代物だが、やはり、父や母が買ってきた鈴に比べると、不格好だった。でも、これでいい。私のフニへの気持ちが表せていれば、それでいい。
フニの首輪に新たに加えられた不恰好な鈴は、ピカピカもしていないし、綺麗な音が鳴ることもない。しかしそれを見た母は、お父さんやお母さんが選んだ鈴よりもずっといい鈴だね、と誉めてくれた。
「今までごめんね。私、フニのこと、大事にするよ。」
その言葉をフニが理解できるはずはないけど、フニは にゃあ、と直後に鳴いて、それを聞いて私は、にっ、と笑顔になるのであった。
***
「その時の写真が、これなんだ?」
母に頼んで、フニと私のツーショットをケータイで撮って貰った。その写真は私のスマホに保存されていて、今でも時折見返す。
「フニちゃん、この時も横向いてる~」
「子猫の時から、写真嫌いだったのかもね」
その時の写真をsaicaに見せて、それから、私とフニがどのように育ってきたか、saicaに話した。私とフニは対等な友達だった。多くの思い出は、フニを含めた、私の家族と共有されている。
「そっか-愛されているんだね、ふにちゃんは…。」
saicaはひとしきり話を聞き終えて、感嘆の声を漏らしている。─そうだ。フニは愛されていた。父に、母に。私だけが、愛情を欠いていた。それを恥じることができたのは、私にとっては怪我の功名だっただろう。一緒にいて相手が快く思うことは、関係を築く上で、大前提な事なんだ。それは独りよがりな友情であってはならない………
「あ…れ…?」
私とsaicaの関係は、かつて愛情を欠いていた私とフニの関係と、何が違うのだろうか? 自分の都合よく誰かと接すること、それは私があの時にしてはいけないことだと、理解したことではなかったのか。私が勝手に友達だと、思っているだけかもしれない。さっきだって、saicaが困っているのに、大したフォローができなかった。
(私って……)
私がかつて友人と呼んでいた人物達は、都合のいい置物を欲しがっていた。それは私だった。私も同じじゃないか。私は友人を作ることに臆病だったんじゃない。関係を築くことに怠慢だったんだ。できることなら、その関係を維持するのに、私は無関係でありたい。消極的でありたい。これが私の悪癖なのだ。saicaは私を見てくれている?どうしてそう思うのだろうか。私はsaicaの事が知りたかったんじゃないのか。私がsaicaを見つめるべきなんだ。それを忘れてしまうということは、私とsaicaの関係が、私でない誰か力で、維持されてくれることを私が身勝手に望んでいるんじゃ───
「もしかして、ふにちゃん、わたしと一緒にいることでわたしが嫌な思いをしてるとおもってる?」
私の思考を見透かされたかのように、saicaが問いかける。発せられた声は、深く透き通っている。saicaはこう続ける。
「そんなこと、あるわけないよ」
それは、彼女の確信だった。
「多分、フニちゃんは…あ、猫のね?優しくしてくれるだけでも、嬉しかったはずだよ。鈴を貰う前から、十分家族だって、思ってたと思う。…うん。一緒にいられるだけでも、楽しいよ。わたしも同じ気持ち。」
私はsaicaを見つめていた。私達は黙りこくってしまった。数秒だったと思う。いや数十秒だったかもしれない。とにかく、その時間は私にはとても短く感じられた。私はあまり話せない方だから、続ける言葉が見つけられなくて、静かになってしまうことが多い。さながら月─。空に浮かぶ月は朝になるといつのまにか姿が消えてしまう。会話の下手な私は、存在の主張を忘れた月かのように消えて、そうしていつも訪れてしまう沈黙の時間は、いつも長く感じられるのだけど、saicaをじっと見つめたその時は、私の急く鼓動が、体感時間を短くしていたのだ。胸の辺りで言葉がつかえる。私、顔が赤くなってるかも…あ、なにか返さなきゃ、そう、お礼!
「ありが…」
「あ!そうだふにちゃん!今からビデオ撮らない!?わたし達が友達になって一ヶ月記念!」
「えっ!?」
「いくよー!3、2、1!ほらピースピース!もう撮ってるよ!こちらはMy favorite friendのふにちゃんです!いぇーい!」
「いぇーい…」
…相手の現実の姿が見えなくても、自分の姿が現実と違っていても、感じあえる友情が、確かにここにはあった。独りよがりの友情かもしれない。自分の都合で誰かと付き合っているかもしれない。そういうことを恐れて、誰かと付き合うことに向き合えないのは、それはもう、自らの孤独を肯定するのと変わらない。不器用でいい。不格好でもいい。私が感じる友情を…いや、私達が共感できる友情を、少しずつ形作っていけばいいんだ。saicaと一緒に撮った動画は、”saicaのお気に入り”として、チャットルームの動画プレーヤーに登録されたのであった。
「わたしのこと、忘れちゃだめだよ?」
「忘れられるわけないよ」
***
─仕事ももうひと踏ん張りというところ、コーヒーが切れてしまったので、給湯室へと向かった。すると中には先客がいた。
(そうそうアイツ、最近なんかちょっと変じゃない?上の空で、…そうそう!私の話聞いてなさそー。心ここにあらずってああいう事いうんだろうねー!)
昼休みに話していた同僚の声だ。
(嫌なんだよねー私、テキトーに話聞かれるのーせっかく相手してやってるのにさー)
彼女が言っているのは…私の事じゃないだろうか。それ以外に思い当たらない。私は踵を返して、自分の席へと戻る。席につき、私は考える。彼女にとっての私は、何者であったか。彼女にとって私は、都合のいい置物だ。自己を増長させる装置だ。その私が、機能不全に陥っている。彼女にとって私は…電源の点かない家電、インクの切れたボールペン、断線したUSBケーブル…
(壊れたおもちゃ……)
彼女が席に戻っていくのを私は確認する、彼女は横目に私を見た、ような気がする。今、彼女は嗤ってはいなかったか?まるで貧血に見舞われたように視界が暗い、受けたショックが岩となって、私の身体にのしかかっているようだ。私が何をしたというのだ。いや、私は何もしなかったのだ。嫌だ。できない。
ここは─
ここは私の現実じゃない。




