一ヶ月が経ち 1
"もし夢を見続ける事が許されるのなら、私は夢を見続けていたいと思う。このまま目を開かなければ、私はあなたを近くで見続けていられる。…そう願うのは私のワガママだということを、あなたはわかってくれるかな?"
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(でさー私がその仕事 引き継いでー…そうそうあり得ないよね!あ、声大きい?いいのいいのだって私間違ってないしー!逆に誰かに聞かれたほうがー…)
私の耳にかろうじて入る同僚の声は、まるで水中から外の音を聞く時のようにぼやけている。お昼休憩に私は決まって同僚に誘われ、彼女らの話に相づちを打つ役を買わされる。にこやかに相づちを打つ私は、他人から見たら、この人達と同類に見えるのだろうか。いや、そうであって当然だ。私は自分を守るために、この話を聞いているフリをしているのだから。
「どう思う?」
同僚の一人が私に意見を求めてくる。突然の質問に、私は、えっ?と声を漏らしてしまっただろうか?相づちを打つだけなら、話を半分でも聞いていれば、ある程度はできるけれど、意見となればそうはいかない。しかし、この質問に私が答えられないかというと、そうではない。これは、答えが最初からわかっているクイズなんだ。
A:同意 B:同意 C:同意 D:同意
彼女が求めているのは、意見などではない。自分を慰める材料が欲しいだけなのだ。その材料を見つけ出すために考案された彼女の質問は、もはや選択肢なんて不要であるクイズだ。私は少し考えるフリをして、回答する。すると同僚は、だよね!と望む回答を得て安心する。その様は壁に向かって投げたボールが跳ね返ってきたところをそのままキャッチする行為となんら変らない。彼女らが、私のことをどう思っているのか、今の私には関心がなかった。
(ところでさー今度食事さそわれてーそう、前言ってたマッチングアプリのー…)
この場で、私を見てくれている人などいない。
saicaなら…
saicaなら、私を見てくれるだろう。
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「そういえば、ふにちゃんのふに、っていう名前の由来ってなんなの?」
「…実家で飼ってた猫の名前…この前、実家に帰ったときに遊んだよ。でももう結構年だから、逆に私が相手にされない感じで…」
私の名前の由来なんて、あってないようなものだから、saicaにそう聞かれた時には、どう答えようかな、と少し考えた。くだらないと思われるかもしれないけど、結局、私は何の捻りもなく、由来を答えて、その後に、フニがどういう姿で、何が好きで…という話を続けるのであった。
”saica”という名前には、どんな由来があるのだろう?もしかしたら本名なのかもしれない。本名なら、きっと彩る花と書くのだろうと、私は勝手に想像していた。もしそうなら、名前にぴったりの人柄だな、なんて思う。私はsaicaにその由来を尋ねようとした。
「わたし、昔、犬飼ってたんだー」
私が尋ねようとしたのと同時に、saicaが口にしたのは、かつて彼女が飼っていた犬の話だった。名前は?と私は問いかける。
「セイって名前なの。目があおくて、それがね、力強くって、生きる意志がすごく伝わってきて─」
青い目をしているから、青。子供の頃には、やっぱりみんな、見た目や触り心地でペットに名前をつけるんだよね!と密かに自分を擁護する。
「でもその名前は…これはしばらく後に考えたんだけど。わたしが押し付けでつけたみたいなものだから、セイには悪いことしたなって思ってる」
saicaの声は物悲しさを帯びていた。…年老いたフニは、もう、ふにふにとはしてはいない。動きはゆったりしていて、老猫の貫禄を感じる。毛並みは綺麗だけど、食欲が衰えたのか、体はどことなく筋張っていて、子猫だったときの柔らかさはない。もしフニが言葉を話すことができたら、自分の名前に思うところがあることを、私に話すのだろうか。
「今度フニちゃんの写真送ってね」
えっ!?と私は思わず声をあげてしまう。私の?そんな急に言われても…
「違うよ、猫の」
あっ、あぁそうだよね。私変なこと考えてた…saicaはそんな私の様子をみて、笑い声を漏らしている。これ、私が勘違いするって、わかってて言ってる…?
彼女は私を見てくれていた。人への関心というのは、お互いの気持ちがあって初めてできるものなのだろう。私は臆病だ。だから今まで私にかろうじてできた友人といえば、都合のいい置物を欲しがっている人だけだった。臆病な私は、誰かを直視することなんてできなかったんだ。でも私は、saicaに対しては、そんな臆病な自分を忘れることができた。
***
このゲームを始めて一ヶ月が経つ頃には、私はこの世界の虜になっていた。私はこの世界を受け入れているし、受け入れられていもする。そう感じるからより一層、現実の、私にまとわりつくかのような責任感や焦燥感、倦怠感、それらが私を追い詰めていくような感じがした。
私がこの世界で眠るようになったのも、この頃からだった。一度この世界で眠りにつけば、私の泥だらけの心と体が、隅まで洗われる。そうすることでやっと、私は現実をやり過ごす事ができたのであった。こうする以前はどうやって日々を生きていたのだろうか。その日々を思い返しても、浮かぶ私の姿はどれも同じで、その姿は、スプラッター映画に出てくるゾンビが血肉を求めて徘徊しているように感じられた。生きている、という実感なんて、あの時は感じていなかったかもしれない。
saicaとはほぼ毎日遊んだ。私達が遊んでいると、saicaに次第に人が寄ってきて、賑やかになっていくのだった。彼女の人柄なら人が集まって当然だと思う。私はそんな彼女を、自分のことではないのに何故だか誇らしく思っている。と、同時に、saicaが見せる彼女らしさが、誰のものでもないことに、少しヤキモチをやいてしまうのであった。
saicaに人が寄ってくるのは、彼女が、焚き火のような暖かさを持っているからだろう。全員が全員がというわけではないだろうけど、私を含めて、彼女に寄っていく人は、そういった暖かさを求めているのだと思う。私は、しんしんと降り続ける雪の中で、ただ丸くなって、その寒さを凌ぐことしかできないでいる。風をやり過ごす事も、火を起こす事も、なにも持たない私では難しい。だから、そこに存在する暖かさを求めずにはいられなかった。
私がsaicaに信頼を寄せていたのは、自分のためだったのかもしれない。頼もしい、と誰かを頼り慕うこと。そんな経験が私にはなくて、私はそれを友情の形だと信じて疑っていなかった。
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多くのプレイヤーが行き交う場所で、私達は話をしていた。二人きりで話すより、開けた場所で話したほうが、他のプレイヤーと関われる機会も多くなりやすい。まだまだ初心者の枠から抜け出せない私達にとって、そういった交わりは、この世界を知ることのできる機会になった。とはいっても、人見知りである私は、見知らぬ誰かと話すとしても、saicaのリードなしでは、アバターを変えた今でも未だままならない。
saicaはそんな私に気を遣ってか、誰かに話しかけるよりかは、私と話すことを意識しているようだった。そう考えてしまうのは自意識過剰だろうか?私と話すことを選んでくれているとしたら、私にはそれが嬉しくて、それが気遣いであったとしても、甘えずにはいられないのだ。
「こんばんは、かわいいアバターですね!」
見知らぬプレイヤーがsaicaに声をかけてきた。最近、私達は声をかけられることも多くなってきている。現実でこのような声のかけ方をされれば、それは下手なナンパに相当する台詞だけど、この世界での、この声の掛け方というのは、挨拶のようなものだ。
このアバターにしてからわかったことだけれども、プレイヤーの多くはアバターを褒めるところからコミュニケーションをはじめる。そのあとは、自分のアバターのどこが気に入ったとか、このゲームを始めてどのくらい経つかなどの、当たり障りのない会話をするのが常であった。大体の人は美少女型のアバターを身に纏っていて、服やアクセサリーなどで着飾っている。これは男性女性問わずその傾向にある。美少女型のアバターにすれば、少なくとも、第一印象が悪くなることはありえない。今から話そうという相手を見繕う過程において、それはとても重要なことなのだ。おそらくこれはVRSNSでプレイヤーが身につけた、他人と円滑にコミュニケーションをとる手段だ。
声をかけてきたプレイヤーは、例に漏れず、やはり見た目のかわいい美少女型のアバターだった。そのアバターの背の丈は、私とそんなに変わらない。ボイスチェンジャーを使っているのか、それとも使っているマイクが不調なのか、聞こえる高い声にはノイズが混じっている。saicaはいつもの調子で小気味よく挨拶をすると、挨拶をそうやって返すのが自然だと言わんばかりに、そのプレイヤーは何も言わずにsaicaを撫でようとした。
この世界で行われるスキンシップは現実でやるとすれば、少々大胆なものだ。ここではアバター同士で撫で合うという、動物と動物が毛づくろいするような行為が、日常的に行われている。恋人ならまだしも、現実であればよほど仲の良い友人であっても、撫で合うなんてことはしないだろう。プレイヤーの常識では、撫でるという行為が、おはよう、や、こんばんは、と同じ意味なのだ。
saicaの見た目が、背の低い猫耳のアバターであり、小動物のような愛らしさを持ち合わせていたということも、そのプレイヤーの欲望を刺激したのだろう。見かけた野良猫の愛らしい姿に、思わず手を伸ばしてしまいたくなるような、あの感覚。プレイヤーの手は、弧を描くようにしてsaicaの頭上に伸びる。
「やめてっっ!」




