一週間後
"夢の中の私は 夢の中で起きている事が、私が存在した、どの時間に起きていることなのか理解しようとしなかった。過去を慈しむ回想、心を躍らせて臨む現在…。─あるいは、それはあなたがそうであってほしいと願う未来かもしれない。"
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身支度を終え、私はいつものように仕事場へと向かう。満員とまでは言えない電車に揺られながら会社に向かう時間は、私が現実に身を投じるまでの、僅かな猶予だ。
この寸隙は、私の心をどうしようもなく不安にさせる。私は何時間も前に目を覚ましているのに、心はまだ目覚めたがっていない。私が仮想の世界の中に浸るようになって感じるようになったこの不安は、あの世界の心地よさの反動なのだろう。
(あるいは誰もが、現実とは別などこかに、自分の居場所を作って、日々を生きながらえているのかもしれない)
そんな独り言を漏らしそうになる。電車の窓から見える街の風景は薄鈍色に錆び付いている。空の青さが、その風景を包んでいる。今日の天気が曇りだったら、街の風景と空とが一面となり無機質な風景になっていただろう。もしそうなっていたら、そこに多くの人の過ごす日常があることを、私は少し忘れることができたかもしれない。薄鈍色と青色。そのアンバランスさは、私を、多くの人が過ごす日常へと留めようとする。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、と今まで何万回と聞いたであろう電車の轍のリズムが、私の思考を徐々に現実へと向かわせる。
私はそれが嫌で、あの世界で起きたことの回想に浸るのであった。
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「ふにちゃん かわいい~!」
saicaは私のアバターをみて、アバターの目と自身の声を輝かせている。
私は、どうせならうんと現実の私とは異なる見た目にしようと思って、黒々として艶を帯びた肩ほどに伸びるツインテールの髪型で、それを纏める青いリボン、カーディガンと短めのスカートを身に着けた少女のアバターを普段使うアバターに選んだ。
子供の頃は幾度となくその髪型にして、愛着を持っていたはずなのに、大人になってからは他人の目が気になってしまって、ツインテールなんて恐れ多くてとてもできなかった。
アバターのすらりと伸びたその髪は、私が少女であった時の、自分はかわいくなりたいんだ!という自分に対する期待めいたものを、ほのかに思い出させてくれる。
saicaはというと、私のアバターの腰の丈ほどしか身長のない、小さなアバターを纏っている。その小さなアバターの頭部には可愛らしさを強調するかのような猫耳が生えていて、その猫耳は彼女が動くたびにゆらゆらと揺れる。それが私が実家で飼っていたフニを彷彿とさせ、私の小動物を愛でたいという衝動を刺激した。それは私の欲求を形で表した姿と言える。
「…saicaのほうが可愛いと思うよ」
saicaがアバターを選ぶまでの一週間、saicaは自分に合っている姿なんてよくわからないものなんだよ、と言って、アバター選びに凄く悩んでいるようだった。saicaの姿が毎日会うたびに変わるものだから、歌舞伎の役者のようで可笑しかったのを覚えている。私達は、その期間のことを”saica七変化”なんて言って、談笑の種にしたりもするのであった。そして、姿が変わるたびに、私はいろんなsaicaを感じて…自分を投影するアバターについて考えさせられた一週間でもあった。
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saicaとまた会えるだろうか、という初日の不安をよそに、二度目のログインから数分経たない内に、私宛にそのメッセージは届いた。
”ふにちゃん!いまから話せないかな?”
saicaから届いたメッセージに私は心底、安心と嬉しさを覚えた。彼女とまた話せる!という逸る気持ちを抑えながら彼女と合流する。二人が話すためだけにあつらえられた部屋は和風の古民家のような場所だった。敷居をまたぐと、そこには直立する猫ではなく、つり目の活発そうな、髪を一つ縛りにした女の子がいた。
「こんばんは!ふにちゃん!」
とそのアバターから元気な声が聞こえる。前日と姿は違えど、中身は変わらないsaicaそのものだ。彼女は 私よりも大分前にログインしていたそうで、色々な場所を巡ったところ、個性豊かなアバターに心惹かれたらしい。私が来るまで自分に合うアバターを探していたそうだ。
この格好どうかなーとsaicaは私に尋ねる。彼女の性格は、その言動から活発そうな性格だと感じていたから、その姿は似合っていると思った。それを伝えると、saicaは、そうかな?と短く返事をした。彼女は鏡の前で自分の姿の細部を確認している。その様子は、自分の出で立ちを気にする思春期の少女が、自分に似合う服を探しているようだった。
「ふにちゃんも一緒にさがそ?」
私は…と後に続く言葉を探したけれど、見つからずに私は口ごもってしまう。saicaの可憐な姿は、きっと出会う人に良い印象を与えるだろう。私は熊の見た目のままだった。熊だったら…怖がられたりするかもしれない。柔和なコミュニケーションが図れる機能がアバターの見た目にあるのなら、それは利用してしかるべきものだと思う。
ただその時は、アバターを選んで変えてみようとは思えなかった。saicaとまだまだ話していたかったから、他の人の存在をなんてものが視野にはいってこなかったのも理由の一つだと思う。もし私が、好奇心旺盛で、人に対して臆病でなければ、二つ返事に うん と応えていただろう。
saicaは、口ごもる私をじっと見つめ、ぐっと顔を近づけてくる。猫の姿の時と違って、所作と声と人間の姿とが一体となったsaicaを目の前にすると、なんだか恥ずかしくなる。なんと表現したら良いだろうか、目の前のアバターは、熱を持っている?
HMDを通して、実際に目の前に現実の誰かがいるかのような錯覚を覚え、そう考えた途端に、私は鳥肌を立ててしまう。間髪入れず、"saicaは、現実ではどういう人なんだろう"という文字だけが、私の頭に浮かんだ。けれどそれは考えないほうがよいだろう。…鉛筆で書いた文字の間違いに気づいて、消しゴムに持ちかえ、すぐさま消すのと同じ要領で、私は頭の中からその文字を削除した。
「…ふにちゃんはどういう人になりたいのかな?」
しどろもどろする私にそう言いながら、saicaは私の鼻先に指を当てる。彼女にとっては自然なことなのか、息をするようなスキンシップに、私は思わず恥じらいうつ向いてしまう。付き合いたてのカップルじゃないんだから…!saicaはそんな反応を見て、ふふん、と得意げに鼻をならす。私、からかわれてる?
結局、saicaの問いにはっきりとした答えは返せなかった。私に合う姿、なんてものは私には想像がつかなかった。saicaに感じた熱。それを帯びていたアバターという器。自分とは異なるものに自分を入れきってしまうことなんて、私には出来ないと思った。
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次の日 saicaと会うと、彼女はアラビアンナイトの王子様のような少年の姿になっていた。やぁふに!なんて声をかけられて、ぎょっとしたけれど、私は内心なるほど、とひとりで納得してしまう。saicaの声色は少女というよりはお姉さん、といった感じの落ち着いた声だ。普段の声のトーンを落として男の子っぽい言動をすれば、まるでアニメの少年キャラクターのようになるであろう。
「ふに!君の門出だ!盛大に祝おうじゃないか!」
わぁわぁと二人盛り上がる雑談の中でsaicaが放った一言は、まるで別人が発したかのようだった。まさにその少年にぴったりの利発そうで意志に満ちた声色だったからだ。私の予想より遥かに、その少年の姿も、彼女に合っていた。
「saicaはなんでも似合うんだね」
ありがとう、と彼女は答えた後にこう続けた。
「でも、どれも似合わないっていわれたらもっと嬉しかったかも」
saicaはやはり少年のような声ではにかんだ。私はその言葉の意味がどういう意味なのかよくわからなかったけれど、saicaの熱が、アバターを通して、私の心を暖めているのは確かだった。その度に、私はsaicaという現実の人物を想像しそうになり、やはりその度、忘れるようにしていた。
次の日、次の日、とsaicaは自分に合う姿を探し続けた。老婆、警察官、ドラゴン…海鮮丼 (?)実に様々なsaicaの姿を私は捉えた。その度に新たなsaicaを発見した。そうして私が気づいたのは、この世界において、見た目はただの器であることだった。
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私が高校生のころに、全校生徒参加型のハロウィンパーティーの催しものがあった。学園祭、体育祭に並ぶイベントで、毎年、生徒だけではなく、先生も張り切ってその行事は大盛り上がりする。(大学生になってから知ったことなんだけど、ハロウィンパーティーなんて、他の高校ではやらないらしい)
学校中の生徒は、ドラキュラやカボチャ、魔女、海賊など、様々な扮装をする。その怪人達は、「トリックオアトリート!」と跳ねるような勢いで、騒ぎ立てる。お菓子を配る役の人がお菓子を配って、怪人達は、もらった量の多かった少なかったを楽しむ。
自分が普段見せない一面や姿を誰かに見てほしい、そして一緒にその場を楽しみたいという理由から、多くの生徒は仮装する。
私は何に扮したかというと、私は何にも扮さなかった。私は、毎年必ず、ハズレ役だと言われる、お菓子を配る役を率先して選んでいたからだ。
私が仮装しなかった理由は、見た目が変わったとしても、私はその姿のように振る舞えないと思ったからだった。これは、演技力が足りないだとか、恥ずかしいからというのもあるけど…。私が思っていたのは、何かを演じたら、私の心だけがそこに置き去りになって、そのまま戻ってこないかもしれないということだった。
その姿を通して、私だけをみてくれる人などいない。
こんな拗ねた前提が私の思考をそこに進ませた。何かを演じる私を見てくれる誰かの為に、私はそれを演じ続けてしまうだろうという予感があった。
───晩秋の高い空の下で、木々が紅く染まるなか、色をつけることを忘れてしまった木の葉が、そのまま枯れて落ちていく。
私はそれでもいいとその時は思っていた。
だけど今は、そう考えるのは間違っていたんだとわかる。私はsaicaの熱を間近で感じたとき、そのアバターの先の、現実のsaicaを想像した。その想像は、彼女に新たな発見を見いだす度に、膨らんでいった。それでも、私が現実のsaicaを考えないようにしようと思ったのは、私が高校生のときに感じたあの怖れをいまだに引きずっているからではないか。…私は素直に、saicaそのものの人となりを、最後には知りたいと思っていたはずだ。
私達は、生まれてから死ぬまで、一つの姿を与えられる。それは私の人格を作ってきたのであったし、人格が反映されて、その姿を作ってきたのでもある。だけど、この世界では必ずしも、自分の姿を与えるのにその手順を踏む必要はない。ここでの私は、現実の私である必要はないのだ。私は何にでもなれる。
私という人間を、アバターを通して誰かに意識してもらえるとするなら…それは、少なくとも日常に埋もれる私にとっては嬉しい事だと思った。自分のなりたい自分を、このゲームで目指せば、現実の私はもしかしたら、少しずつでも変わる事ができるかもしれない。
そう考えた時、私はアバターを変えることを決めた。
─私のPCの画面にはツインテールの少女が映っている。
「ツインテール…そういえばもう何年もしてないな…」
アバターのすらりと伸びたその髪が、私が少女であった時の、私に友達なんて出来るだろうか?という自分に対する不安めいたものを、微かに思い出させる。
でも、あったはずなんだ。そんな不安の裏には、自分のことを少しでも好きになってみようという期待が。
この姿で、saicaと話してみよう。私はそう決めて、そのアバターをダウンロードするのであった。
***
「次は○○です、お出口は右側です」
私の現実から逃れるための回想は、電車のアナウンスによって終わりを迎えた。それまで聞こえていなかった車内のどよめきが、大群をなして私の耳へと侵攻してくる。
電車から降りて、私は人の雑踏へと紛れていく。駅のホームにこだまする、人の声や足音が、私の居場所をわからなくさせていく。ホームを出ると、さっきまで青かったはずの空は薄鈍色となっていた。そこには多くの人が過ごしていたはずだった。モノトーンとなった風景に、私は消えていく。
私の心は置き去りになっていた。




