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1.女官任命1

 歓迎会の翌日は、ギルガレン辺境伯家での滞在最終日になる。

 朝食のための部屋に入ると、先に食卓についていたルーファスがぎょっとした顔でミネルバを見た。彼は立ち上がると、長い脚でミネルバとの距離をあっという間に詰めてくる。


「大丈夫かミネルバ。ひどく具合が悪そうだ」


 心配そうな声に、動揺したミネルバは「あの」とか「その」と歯切れの悪い返事をした。ルーファスのまなざしからして、病気か精神面の不調を疑っているのは明らかだった。


「だ、大丈夫よ。あの、その、単に二日酔いなだけだから。ソフィーの胸の痛みが、アルコールの力で多少なりとも和らいでくれたらいいなって、ワインのボトルを二本も空けちゃって……」


 グレイリング帝国もアシュラン王国も成人年齢は十八歳。ミネルバだってアルコールを口にする機会はあったが、度を越した飲酒は生まれて初めてだった。


「へえ。ミネルバがいける口だとは思わなかったな」


 黒曜石を思わせるルーファスの瞳が、愉快そうにきらめく。


「弱くはないみたい。でも頭は痛いし、目はしょぼしょぼするし……やっとの思いでベッドから抜け出してきたの。ソフィーはまだ寝ているけれど、きっとひどい二日酔いでしょうね」


 ミネルバは肩をすくめた。

 ソフィーのことは侍女たちに託してきたが、まだぐっすり眠っているだろう。目が覚めたら、ゆうべ自分が何を言ったのか覚えていないかもしれない。割れるように痛む頭に、たじろがずにいてくれるといいのだが。


「君にはコーヒーが必要だな」


 ルーファスはミネルバの手を取って、優しく席へと導いた。彼の意向を汲んだ使用人が、ほどなくして素晴らしい香りのコーヒーを持ってきてくれた。

 食卓に並べられた朝食は、見るからにおいしそうだった。しかし頭の痛みと胃のむかつきが、ミネルバの食欲を大幅に減退させている。それでもコーヒーを飲むと頭痛が和らいできた。


「パンと卵だけいただくわ。心配しないでねルーファス、気分はとてもいいから。本当に最高の気分なの。昨日ソフィーと飲んだお酒は、これまでの人生で最も楽しく、最も素晴らしいものだった」


「喋ることがたくさんあったみだいだね。ちなみに、どんな話題で盛り上がったんだい?」


「そうね、いくらでもあったわ。一番盛り上がったのは屈辱とか怒りとか、苦悩といった心が砕け散るような気持ち……端的に言っちゃうと、悪口なんだけど」


 ミネルバは頬に手を当てて微笑んだ。


「私は七十代の王妃様に躾けられたし、ソフィーは父方の祖母に育てられたでしょう? そのせいか二人とも、悪口や愚痴を口にするのははしたない、みっともないことだと思っていたの。でも、たまにはいいものね。お互いに、鬱積していた負の感情が堰を切ったように溢れ出して……身も心もすっと軽くなったみたい」


 まぶたを閉じて、昨晩のことを思い出す。

 ソフィーの涙が止まったあと、二人して着心地のいいパジャマに着替えた。急いで化粧を落とし、部屋の棚からワインとグラスを取り出して、再びベッドにもぐりこんだのだ。

 一方が思いをぶちまけ、もう一方が耳を傾ける。成人したときには社交界から追放されていたから、女の子だけの宴会なんて初めてだった。体は疲れ切っていたのに、あまりにも楽しくて夜更かしをしてしまった。


「すっかり仲良くなったんだな。ソフィーを君の女官にすれば、最初に考えていたよりも大きなメリットが生まれそうだ。ミネルバのストレスを解消してもらえるのは、とてもありがたい。友人兼話し相手として女官になってほしいと、もう伝えたんだろう?」


「それが、まだ言えてないの」


 ミネルバはため息をついた。ルーファスが目をしばたたく。


「ソフィーが女官になってくれたら、私だってどんなに嬉しいか。でも妹と婚約者から傷つけられた当日に考えることを増やすのは、ちょっとどうかなって思って。ううん、本音を言えば、仲良くなればなるほど断られるのが怖くなったの……」


 また重いため息をつく。ミネルバの心には、そのことに関する不安がどっしりと居座っていた。


「なにしろ前代未聞の『属国かつ小国出身の皇弟妃』付きの女官でしょう? 生粋のグレイリング貴族のプライド的にどうなのかしらって、心配になっちゃって。元は私の方が身分が低いのだし、ソフィーが女官になりたがらないとしても不思議はないかなって」


「そういう展開になる可能性は低いと思うが……」


 ルーファスは驚いて目を丸くし、その目でミネルバを見てから、なぜか朝食室の扉に視線を向ける。

 扉に背を向けて座っているミネルバは、体を捻って後ろを見た。おぼつかない足取りのソフィーが、扉の枠にすがりついたところだった。目が腫れて鼻も真っ赤で、手が微かに震えている。


「にょ、にょか、わたしが、にょか……」


 ソフィーは息苦しいのか、声が思いっきり上ずっている。ミネルバは慌てて彼女に駆け寄って、あたふたと言葉をかけた。


「ソフィー、落ち着いて。これは命令じゃないし強制するつもりもないのよ。ええっと、あなたは大変な思いをしたんだし、少しくらい社交をお休みしたっていいと思ったの。環境ががらりと変われば、立ち直りも早いかもしれないし。もちろん、断っても大丈夫なのよ?」


 ソフィーの顔を覗き込むと、彼女はミネルバの手をがしっと掴んできた。


「嬉しい……」


 とても小さな、震える声だった。


「嬉しくって涙が出そう……。ミネルバの女官になることを、思い煩うわけがないわ。喜んでお仕えいたします、未来の皇弟妃殿下」


 ソフィーが満面の笑みを浮かべる。彼女が心から喜んでいることが、声の響きで伝わってきた。

 灰色の瞳から、昨日とは違う種類の涙がこぼれる。しかし彼女はすぐにキリッとした表情になって、涙を振り払った。


「こ、こうしてはいられないわ。お父様に、ミネルバ様付きの女官という栄誉を授けられたことを伝えて、それから荷造りを始めなくては!」


「落ち着きましょうソフィー、叫ぶと頭が──」


 痛くなる、とミネルバは言葉を続けようとしたが、それよりも早くソフィーが「あいたたた」と頭を押さえた。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめての二日酔いであろう二人の頭痛に悶え苦しむ姿がとってもかわいい…!!
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