7.心が通った夜
ソフィーに約束したとおり、その後の歓談は不快なものにはならなかった。
ミネルバはダンスを踊るとき以外は終始ソフィーの側にいたし、マーカスも彼女を守ろうとする意識が強かったからだ。大雑把な性格のマーカスが、妹以外の女性に細かく気を遣っているのを見たのは初めてだった。
ルーファスの援護も心強かった。各家の当主たちとの会話では、彼が巧みに会話をリードしてくれた。
愛おしげに見つめてくるルーファスと、その視線を受け止めるミネルバ。二人を見つめる女性たちが顔を火照らせ、うっとりとため息をつく。照れくさくはあったが、会場内の視線をソフィーから逸らすことができたのはありがたかった。
「ルーファス殿下が、あんなにお優しい表情をなさるだなんて……」
「ミネルバ様はお美しいだけではなく、才気がおありになりますもの。殿下のお心をとらえた理由がわかりましたわ」
「本当にお似合いだわ。おとぎ話の王子様とお姫様のよう……」
客たちは思い思いに踊りやおしゃべりに興じている。銀の盆を持った使用人たちが、全員に琥珀色の液体の入ったグラスを配って回った。締めの乾杯のための、グランドリア産の高級酒だ。
ギルガレン辺境伯がグラスをかかげる。
「ルーファス殿下とミネルバ様の輝かしい未来のために、祝杯を交わそうではないか。我らが皇弟殿下と、美貌と才知を兼ね備えた未来の妃殿下のために、乾杯!」
客たちもグラスを高くかかげた。祝いの言葉が大広間中に広がり、人々の笑顔がはじけた。グラスの酒を飲みほしたルーファスが、ミネルバの腰に手を添える。彼のほうへふわりと身を寄せて、ミネルバはやりきったことに対する満足感と充足感を覚えた。
いとまごいの時間となり、客たちが名残惜しげに別宅へと戻っていく。最後のひとりが立ち去った瞬間、ソフィーの様子に変化が生じた。
灰色の瞳からひと粒、ふた粒と涙がこぼれる。全身から力が抜けたのか、彼女はぐったりと床に身を沈めた。
「ソフィー!」
辺境伯夫妻が同時に叫び声をあげる。しかしソフィーは疲労困憊して顔もあげられない。慌てふためく辺境伯はかける言葉が見つからないようだし、若い義母もどうしていいかわからないらしい。
ミネルバはひざまずいて、ぎゅっとソフィーを抱きしめた。いまの彼女には、ささやかなぬくもりが必要だと思ったから。
「長い一日だったわね。本当によく頑張ったわ。ソフィー、よかったら私の部屋へ来る?」
少し心が落ち着いたのか、ソフィーがミネルバを見てうなずく。辺境伯夫人があからさまにほっとした表情を浮かべた。
「ギルガレン辺境伯、いまのソフィーに必要なのは休息です。私の部屋で落ち着かせますから」
有無を言わさぬ力を込めた目で、ミネルバは辺境伯を見上げた。
「は、はい。どうかソフィーをよろしくお願いします」
辺境伯が頭を下げる。ミネルバはうずくまっているソフィーを立ち上がらせた。肩を抱いて導いてやると、彼女は素直に歩き始めた。
エヴァンが静かにあとをついてくる。ルーファスはたまらなく優しく、包み込むような視線で見送ってくれた。
ソフィーが手ずから季節の花を飾ってくれた客間に戻り、二人して大きなベッドに腰を下ろす。人払いをした方がいいと思ったので、エヴァンは扉の外に、二人の侍女には続きの間に待機してもらうことにした。
ソフィーがはらはらと涙を落としながら、ベッドに仰向けに倒れ込む。ミネルバもベッドに寝そべり、泣き続ける彼女をじっと見つめた。
「……ミネルバ様は凄いですね。尊敬せずにはいられません。心が綺麗で、強靭な精神力を持っていて……。私は駄目だわ、ミーアもロバートも憎くて、心がぐちゃぐちゃ……」
「あなたはまだ衝撃から立ち直れていないのだから、それで当然よ。人生が悪い方に大きく変わった日に、平静でいられるわけがないわ。私だってそうだった」
ミネルバは胸に手を置いて、大きく深呼吸をした。
「私がどうだったか、聞いてみたい?」
まだ涙が止まらないソフィーが、ミネルバのほうを向いてうなずく。
彼女を元気づけられるのだったら、いくらでも話してあげよう。どんなに汚い思い出でも、喜んで語ろう。
ミネルバは静かに口を開いた。いまでも昨日のことのように思えるときがある、フィルバートから婚約破棄を言い渡された日のことを。
「私の場合は、ソフィーとは少し事情が違うわ。相手のほうからきっぱりと婚約破棄を言い渡されたの。あの日、彼がその手に抱いていたのは異世界人の少女で──彼女が降臨した日からそうなるかもしれないと思っていたけれど、やっぱり衝撃だった。信じられないほど傷ついた」
ミネルバはまた深呼吸をした。ソフィーは黙ってこちらを見つめている。
「私たち、7歳と11歳で婚約したのよ。王太子妃になることが私のすべてだった。泣きたい気分だったけれど、泣き方なんて忘れてしまっていたわ。淑女は感情を表に出してはならないと、王妃様から厳しくしつけられたせいね。泣きわめきたかったのに。激しい怒りをぶつけたかったのに。よくも私の人生を滅茶苦茶にしたわねって、大声で叫びたかったのに」
苦い思い出が蘇ってくる。フィルバートとセリカの前で取り乱したくなくて、ミネルバは動揺しているそぶりすら見せずにいた。
「一生呪ってやるって言ってやりたかったわ。結局口には出さなかったけれど、心の中では地獄に落ちろって思ってた。いますぐに床が割れて、二人を消し去ってくれたらいいのにって」
ミネルバは小さく笑った。ソフィーはひと言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。
「それからの一年間は、人生で最もつらい時期だったわ。社交界から追い出され、悪意に満ちた噂を立てられて。家族は私に次の相手を見つけようと、涙ぐましい努力をしてくれた。ようやく常識を持ったまっとうな青年が見つかったと思ったら、なんと最初から騙されていたのよ。その人は平民の使用人を妊娠させていたの。私を子どもの名目上の母にして、彼女との愛を貫くために殺すつもりだったんですって。天才的な思いつきじゃない?」
「ひどい……」
ソフィーは息をのみ、続く言葉を失った。
「フィルバートもセリカも、ジェフリーもリリィも憎かった。命果てるその瞬間まで恨んでやるって決めてたわ。そんなことを思っているなんて、家族の前ではおくびにも出さなかっただけで……つまり、その、私も普通の人間なのよ。いまのあなたと同じ気持ちだった」
ミネルバは口を閉じて、鼻をすすった。
「思い出したら泣いちゃいそう! でもね、人を欺いて幸せになんてなれないわ。彼らはみんな、無分別な行為の報いを受けた。ミーアもロバートも、あなたをどんなに苦しめたか思い知るべきだし、その報いを必ず受けると思う。そしてソフィー、あなたは絶対に素晴らしい人生を送れるわ」
ソフィーの顔をじっと見つめて、ミネルバは確信に満ちた声で言った。
「ねえソフィー、これからは私のことを敬称抜きで呼んでもらえない?」
「光栄なことですけれど……畏れ多いですわ」
「お願い、ミネルバって呼んで。私、あなたともっと親しくなりたいの」
「はい……それでは、ミネルバ。私もあなたと仲良くなりたいです」
それからしばらくの間、二人はベッドの上で丸くなって会話を続けた。
ソフィーの口元に笑みが浮かぶ。この様子なら、涙もじきに止まるだろう。それでも今日のソフィーは疲れ切っている。女官の話を持ち出すのは明日にしようと、ミネルバはそっと心でつぶやいた。




