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5.秘密の日課

 グレイリングからの一行の滞在期間は三日ほどで、歓待のための大小さまざまな行事をつつがなく終えることができた。

 準備のためにミネルバも一生懸命働いたから、すべてを終えたあとの高揚感は素晴らしいものがある。


(いよいよ今日は、グレイリングに出発する日)


 まだ夜が明けたばかりだが、ミネルバは寝室の窓を開けて爽やかな空気を吸い込んだ。

 ここしばらく、ずっと王宮西翼に寝泊まりしていた。皇帝一家をもてなすためには、内部のことを熟知している女主人(ホスト)が必要だったからだ。


(晴れててよかった。新しい門出にぴったりの日だわ)


 ミネルバは手早く顔を洗い、ひとりで着替えを済ませた。

 身に着けたのはマーカスのお下がりの運動着と、コリンが使い古した子ヤギの革のブーツだ。髪はポニーテールにして、広大な庭の一角にある運動場へ向かう。


「おはようマーカス兄様、ロアン君。私が一番早起きだと思ったのに」


「おはようミネルバ。俺は散々汗をかけば、緊張が治まるタイプだからな。グレイリングに出発する日だからと言って、日課をさぼるのは性に合わんし」


 ミネルバが声をかけると、柔軟体操をしているマーカスがにっと笑った。

 地べたに座って、まだ眠そうにしているロアンが盛大なあくびをする。ミネルバは弟を見るような眼差しを向けた。


「ロアン君は『宗主国専用の離宮』には泊まらなかったんだね」


「ふああ、おはようございます。いや、マーカスさんの部屋で喋ってるうちに寝落ちしちゃって。それにしても例の事件からの二か月、ミネルバ様が一日も欠かさずに体力づくりをしてるって本当だったんですねえ。見た目は繊細なお嬢様なのに、すごいや」


「うん。護身術や格闘技を習う前に、まず走り込みをしろってマーカス兄様に言われたから。体力がなさ過ぎて、最初の数日はぼろぼろの状態だったよ。荒唐無稽に思われるのはわかってるけど、また異世界人が関係する問題が起こったときにルーファス様の力になりたいの。ただ千里眼が使えるだけで、ぼさっと立ち尽くして守られてるのは嫌なの」


 ミネルバもマーカスの隣に立ち、入念に準備運動を始めた。

 体力づくりをしていることは、まだルーファスには秘密にしている。試しに腕立て伏せをしてみたら、なんと五回しかできなかったのだ。これでは異世界人が事件を起こしたとき、現場に連れて行って欲しいとはとても言えない。


「セリカのケースのような意図的な異世界人召喚は禁止されているとはいえ、手を出したがる人間はきっといるだろうし。異世界人が突発的に降ってくる現象は頻繁に起こることではないけれど、こちら側の人間には止めようがない。もしも困っている異世界人がいれば助けの手を差し伸べるし、悪意を持っている場合はこちらの世界の住人を守り抜く……グレイリングの勢力圏内で、ルーファス様はそういう活動をしているのよね」


「そうっすね。セリカはレアケースにしても、ほとんどの異世界人はとてつもない力を備えてるんで。過去のデータを収集・分析して対抗手段を考えてます。なんらかの神の加護を持ってる異世界人と違って、僕らは『触媒』がなきゃお話にならないんで。宝石とか古代の遺物とか、代々伝わる聖なる剣とか魔除けのハーブとか、よさげな触媒が見つかりそうならジャングルにも分け入りますね」


「だったらよけいに強くなる必要があるなあ。千里眼で助けようにも、まだ精度が安定してないし。距離的なこととか、対象となる相手と私の関係性とかで変わってくるみたいで。例の事件ではすごい力が使えたけど、あれから同じ力は発揮できていないわ。まだ使いこなせない以上、鍛えられるものは徹底的に鍛えないと」


「いいですねえ、あくなき挑戦って好きですよ。一緒に行動するつもりなら、ミネルバ様の身を案じてる場合じゃないって状況もあると思います。ルーファス様が同行を許すかはわかんないけど、僕は応援します。ふああ、やっぱまだ眠いや」


 ロアンはもう一度あくびをしてから、マーカスの横でストレッチを始めた。

 朝の空気の中で体を動かすのは気持ちがいい。準備が整うと、マーカスが大股で走り始めた。ロアンも身軽に後に続く。ミネルバも大きく息を吸って走り出した。

 運動場を二周すると呼吸が速くなってきた。すでに四周目に入っているマーカスは息も切らしていない。彼のうしろにぴったりくっついているロアンもだ。


(あんなに華奢なのに、信じられないほど運動神経がいいんだなあ)


 ロアンはただでさえ珍しいオッドアイで、左が青で右が赤という印象的な色の組み合わせをしている。髪はストロベリーブロンドで、少女と見まごうような美しい顔立ちだから、存在しているだけで強烈に人目を引くのだ。

 特殊能力の持ち主は異世界人だけではなく、こっちの世界にも魔女や魔法使い、妖術使いや霊媒師、白魔術に黒魔術の使い手がいる。彼らは数は少ない上に、迫害されがちなために隠れ住んでいることが多い。ロアンは孤児だが、そういった人々の血を引いている可能性が高いらしい。


「あーあ、異世界人みたいに桁違いの能力を、一切の代償無しで使えたらいいのになあ。無尽蔵の魔力に体力、あいつらホントずるいもん」


 ミネルバを抜き去りながらロアンがぼやく。

 異世界人はまだセリカしか見たことがないミネルバと違って、ロアンは幼いころから何人かの異世界人と交流があったらしい。彼の過去については、いろいろと謎だ。


(ロアン君が本当に心を開いてくれたら、きっと教えてくれるはず。それまでに、千里眼の能力を自在にコントロールできるようにならないと)


 グレイリングの宮殿で、同じように体力づくりが続けられるかはわからない。淑女らしくない振る舞いをすればどんな目で見られるかは、よくわかっているから。

 それでも絶対にやり遂げたい。ルーファスのために、自分のために、ミネルバの力を必要としているすべての人々のために。

 汗がどんどん流れてくる。侍女たちの手を借りて身支度を整える前に、水浴びをしておく必要があるだろう。

 五周目に入るころには息がかなり苦しくなっていたが、走るのをやめたいとは一回も思わなかった。

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