1.大広間にて
ミネルバ・バートネット公爵令嬢はいま、アシュラン王国の王宮大広間の扉の前にいる。この世界で大きな影響力を持つ、グレイリング帝国の皇族たちと一緒に。
扉の向こうには、アシュラン王国のすべての貴族の当主とその妻が集まっている。
アシュラン王国は小さな国であり、大帝国グレイリングの属国だ。
貴族たちはきっと興奮し、自分たちの宗主国であるグレイリングの皇帝トリスタンと皇妃セラフィーナ、幼い皇太子レジナルド、皇帝の弟であるルーファス、そして皇弟妃となるミネルバの登場を待ちわびていることだろう。
ミネルバは婚約者であるルーファス・ヴァレンタイン・グレイリングと目を合わせた。彼は精悍な美男子で、誠実な心の持ち主だ。過去の出来事でたくさん傷ついて、心を引き裂かれたミネルバを癒し、未来を明るいものに変えてくれた。
「それでは中に入るとしよう。ルーファス、ミネルバ、新しい人生の始まりだ。お前たち2人の前には、輝かしい未来が開けている」
ルーファスの兄であり、グレイリング帝国の皇帝であるトリスタンが威厳に満ちた声で言う。
「はい兄上。さあ行こうか、ミネルバ」
ルーファスが手を差し出してくる。ミネルバは「はい」と応えて、そっと手を重ねた。
宝石や金箔や銀箔で装飾された両開きの扉の前に立っている使用人たちが、右と左から同時に扉を開いた。
王宮付楽団の金管楽器が、グレイリング国歌を高らかに吹き鳴らす。
皇帝トリスタンと皇妃セラフィーナが、皇太子レジナルドの手を引いて大広間に入った。ミネルバとルーファスは、その数歩後ろを並んで歩く。
シャンデリアのまばゆい光の下に、美しく着飾ったアシュランの貴族たちがいる。その誰もがしきたりに従って膝をつき、深々と頭を垂れた。
(王太子だったフィルバートから婚約破棄された私が、こんな形でこの大広間に戻ってくるだなんて……)
一度は輝きを失った人生。一生回復するとは思えなかった名誉。臣従の礼を取る人々の間を颯爽と歩きながら、ミネルバは感慨に浸らずにはいられなかった。
大広間の奥には玉座があり、両国の国旗が掲げられている。五段ほど高い場所にある玉座はグレイリングの皇族のためにあり、それより二段下がった場所にある玉座がアシュランの王族ためのものだ。
グレイリングからの随行員やルーファスの部下たちは、玉座に近い場所で立ったまま頭を下げている。全権大使ニコラス・フィンチと天才児ロアン・アストリーの姿もあった。
玉座のある高台の、一番高い五段目まで登る。中央に皇帝、その右側に皇妃と皇太子が立つ。皇帝の左側には皇弟であるルーファスとミネルバが並んだ。
「みな頭を上げよ。アシュランの者たちは立ってよい」
皇帝トリスタンの張りのある声が大広間じゅうに響く。
ミネルバの位置からは、一斉に立ち上がる貴族たちが見渡せた。彼らの先頭にはキーナン王とオリヴィア王妃、そしてわけあって新しい王太子となったミネルバの長兄ジャスティンがいる。
ほとんどの女性たちが、台座を見上げてうっとりとした顔つきになっていた。ミネルバには彼女たちの気持ちがよくわかった。
礼装用の騎士服に身を包んだ27歳のトリスタンと22歳のルーファス兄弟の、なんと見目麗しいことか。26歳のセラフィーナは女神のようだし、5歳のレジナルドは宗教画の中の天使そのものだ。
皇族たちの非の打ちどころのない風格に、女性だけでなく男性たちも圧倒されているのがわかる。
「みなも知ってのとおり、アシュラン王国は破滅の危機にあった。愚かな企ては未遂に終わったとはいえ、アシュランは痛みを伴う激変を経験した。傷を癒すにはそれなりの時間がかかるだろう」
超然とした威厳を発揮しながら、トリスタンが言葉を発した。
痛みを伴う激変という言葉は、ミネルバの胸に迫るものがあった。
王太子フィルバートとレノックス男爵が共謀して行った、禁じられた異世界人召喚。王太子妃となった異世界人セリカの魔力を使っての、国王夫妻暗殺未遂。レノックス男爵に成り代わっていた、王家の庶子の血筋であるマーシャル・カイルモアの野望……。
ルーファスとロアン、そしてミネルバの活躍によってすべての真実が明かされ、王太子にあるまじき行いをしたフィルバートは廃嫡された。
「みなに忘れないでいて欲しいことは、誰のおかげでアシュランが国として存続できたかということだ。我が弟ルーファスと、そしてミネルバ・バートネット公爵令嬢がいなければ、グレイリングはアシュランを暴力的なやり方で併合するしかなかっただろう」
トリスタンに視線を向けられ、ミネルバは気恥ずかしくなった。しかしそれを顔には出さない。
「ミネルバは申し分ない知性と勇気を兼ね備えた淑女だ。我が弟ルーファスの妃にふさわしい。皇弟妃という高い地位に昇るミネルバを侮辱することは、すなわち、グレイリングに牙剥くことだと心得よ。アシュランの者たちは自らの過去の行いを深く反省し、二度と彼女を貶める言葉を口にしてはならない」
きっぱりとした口調でトリスタンが言う。それでなくとも宗主国の皇帝の言葉は絶対だ。貴族たちは真摯に受け止め、神妙な顔つきをしている。
国中の貴族たちの前で汚名が晴らされ、名誉が完全に回復されたのだ。ミネルバは心が羽ばたくのを感じた。ようやく解き放たれた気分だった。
家族に心配をかけたくなくて平気なふりをしていたけれど、フィルバートとセリカによって社交界を追放されたことが、どれほど屈辱だったことか。
心に受けた傷は数多く、いくつかは傷痕になって残っている。それでもこれから先は、傷痕さえ勲章だと思えるようになるだろう。
「よかったな、ミネルバ」
ルーファスが優しい笑顔を向けてくる。
彼は現実の存在であることが信じられないくらい、どこをとっても完璧な人だ。外見が人を惹きつけるだけでなく、素晴らしい心根の持ち主でもある。
「これで未来だけを考えることができるな。もちろん、過去に起きたことは決して忘れられないだろうが」
小さな声だったが、はっきりと聞こえた。ミネルバは誰よりも雄々しく力強い婚約者を見つめ返した。そして微笑んだ。
こんなに素晴らしい人と強い絆で結ばれ、一緒に新しい出発ができることが、この上もなく嬉しかった。




