8.動揺のあとに
「フィルバート様……」
怒りを爆発させたかつての主人を見ながら、ジャスティンは苦痛に満ちた声を出した。それでなくても傷ついていた長兄の心は、さらに大きな痛手を受けたはずだ。
フィルバートは体と声を震わせて、支離滅裂なことを言い続けている。
「私は……私には選択の余地はなかった……お前たちに勝てないことが、心の中で重いしこりとなって……。私は人並み以上の能力が欲しいんだ……夢にまで見た、劣等感のない人間になれるんだ……」
そう言ってフィルバートは胸を押さえ、体をむしばむ痛みに耐えるような表情になった。
「う……ううぅ……」
「フィルバート様、胸がお苦しいのですか? フィルバート様っ!」
ジャスティンが何度も呼びかける。
「お前が心配する必要はない! お前など、私の人生には不要な存在なんだっ!!」
ジャスティンが自らに向かって伸ばした指先を、フィルバートは無理やり引きはがした。
明らかに苦し気なうめき声を漏らすかつての婚約者の姿に、ミネルバの胸は千々に乱れた。心に刻み込まれた記憶がよみがえり、さまざまな感情が押し寄せてくる。
(フィルバートが口にした言葉が真実なら……私たちはお互いに、相手を深く傷つけていたの……?)
頭の中まで混沌としてきた。
7歳で婚約してから17歳で破棄されるまで、ずっと寄り添えないままだった。近くにいるのに、一番遠い存在だった。
物静かで几帳面なミネルバと、やんちゃで気ままなフィルバート。たしかに、ふたりの性格はかけ離れていたけれど。
初顔合わせのとき、第一声で「可愛くないし不愛想で、何を考えているのかちっともわからない」と言われたことを思い出す。
フィルバートの馬鹿にしたような口調から、自分の姿かたちが見苦しいと思われていることが察せられた。
11歳のフィルバートの目には、ミネルバは理想的な婚約者として映らなかったのだ。鋭い視線を向けられて、体がびくっと震えたことを覚えている。
フィルバートは常に不機嫌だった。せめて内面を気に入ってもらおう、打ち解けようと側に近づくたびに、彼の苛立ちを肌で感じた。
ミネルバはいつも不安で──心が落ち着くのは、王太子妃教育を受けている間だけだった。夫となる人から愛されないのなら、国のために役に立つ人材になるしかないと思っていた。だから、力を振り絞って勉学に励んだ。
(だってそれ以外、どうすればいいのかわからなかったから。でも私のその行いが、フィルバートの心に爪を立て、傷つけたの? すべて私のせいなの……?)
息が苦しい。身体から力が抜けて、脚がふらつく。間髪を入れずにたくましい手が伸びてきて、ミネルバの体を支えてくれた。
「ミネルバ、自分を責めるな。この状況は君のせいではない」
ルーファスの熱い息が耳をかすめた。背中に固い筋肉を感じる。ルーファスが後ろから包み込むように抱きしめてくれているのだ。
体の震えが止まり、沈んできた気持ちが浮上する。ミネルバは目にたまっていた涙をまばたきで払った。
ミネルバは深呼吸をして気持ちを切り替えた。冷静になってみると、室内全体に邪気のようなものが充満し、空気を重く淀ませていることに気づく。
ルーファスの結界に守られていないふたりの側近たちは、少し息が苦しいのだろう。身をよじらせて顔をしかめている。
「フィルバート様! フィルバート様っ!」
ジャスティンが声を張り上げる。
「うる……さい……私を惑わせるな……もう、うんざりなんだ……」
フィルバートがかすれ声で言葉を返した。
ミネルバは首をねじってルーファスと目を合わせた。
「ルーファス様。やはりフィルバートの胸の中に、何かが潜んでいるように思えます」
「ああ、よくない兆候だ。明らかに悪いものを抱え込んでいる」
床の上で体を丸めるフィルバートの脇に両手をつき、ジャスティンが奥歯を噛み締めている。
「くそっ! セリカの魔力はフィルバート様も狙っているのか? 自分の夫を殺そうとしているのかっ!?」
玉の汗を浮かべるフィルバートを見ながら、ジャスティンは絶望感の漂う声で叫んだ。
「違う……! これはセリカから私への贈り物だ。私を守るため……私の勇気が……くじけないように……っ!」
フィルバートは髪が乱れるほど激しくかぶりを振った。
「セリカの力は……まだ未熟なんだ。それでも私に強さを授けてくれた……これは、彼女の愛が誠である証……」
フィルバートはぎゅっと目をつぶり、胸部を抱え込んでいる。痛みのあまりか、悲鳴のような声が喉からほとばしる。
ルーファスの右手がミネルバの体から離れた。鞄から取り出した翡翠を握り締めて、意識を集中させているのがわかる。彼が右手を突き出すと白い霧が渦を巻き、一本の筋となって床を走り、あっという間にフィルバートの体全体を覆った。
結界はすぐに無色透明に変わった。ジャスティンが驚きに目をみはっている。
「結界で封じておけば大使公邸内にいる人間は安全だが、フィルバートは……。そろそろロアンが戻ってくるはずだが……」
ルーファスのつぶやきに言い知れぬ恐怖が込み上げてきたとき、誰かが廊下を駆けてくる音がした。
「マーカスさんもっと、もっと速く走ってっ!」
「人使いが荒いなロアン、文句言うなら自分で走れええっ!」
ルーファスとミネルバは顔を見合わせ、廊下の角まで走り出た。
長い廊下の先に視線が引きつけられる。こちらに向かって長身の男が突進してくる。背中に誰かを抱えて、驚くほど軽々とした足取りで。
悪態をつきながら、ものすごいスピードで走っているのは次兄のマーカスだった。筋骨たくましい体で、軽い荷物を運ぶかのようにロアンをおぶっている。
「僕はお腹が空いてふらふらなんです。大勢を浄化するのってめちゃくちゃ力を使うんですよ! ご飯食べたいご飯っ!」
「時間が無いんだから我慢しろ、つーかお前、携帯食俺の分まで奪ってたよな!?」
「あんなもんで足りるわけないでしょおおお」
マーカスが一歩進むごとに、彼の背中にいるロアンが弾んでいる。
「感じる感じる、セリカの邪悪な魔力! さっさと片付けてご飯食べたいっ!」
ロアンが手首を持ち上げる。手のひらに白い光の球が浮かんでいる。
「あとちょっとだよマーカスさん。ルーファス様ミネルバ様、大変長らくお待たせしましたっ!」
マーカスの背中に担がれたロアンが、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「うおおおおっ」
マーカスが腹の底から咆哮を上げ、ミネルバたちを通り越して角を曲がり、フィルバートのいる室内に飛び込んだ。
次の瞬間、真っ白い光が炸裂した。いくつもの太陽が爆発するような、すべてを吹き飛ばすようなロアンの強い力が室内に充満する。
天才児が持てる力を奮い起こして放った、邪悪な物だけを浄化する光。触媒である水晶によって増幅された美しく明るい光が、ジャスティンごとフィルバートを包んでいた。




