6.涙
「怯えていらっしゃいますね。王太子たるもの、どんなときでも恐怖心を見せてはいけないとお教えしましたのに」
ジャスティンが整った眉の片方をつり上げる。その顔にはルーファスとは別種の凄みが漂っていた。側近の任を解かれて一年以上がすぎても、ジャスティンから剣士特有の迫力は失われていないようだ。
「よ、よくもそんなことを……っ!」
挑発的な視線にさらされ、フィルバートがぐっと頭を持ち上げる。しかし次の瞬間、彼の瞳に恐怖がよぎった。
「お前、なぜ剣を持っている……」
困惑した声を出して、フィルバートが床に頭を戻す。ジャスティンが背中に帯びている剣の切れ味を意識したのか、彼は身をすくめて顔を青くした。
ジャスティンは容赦なく鋭い視線で、自分が捕えている元主人を睨みつける。
「あなたが私から目をそらさずにいるなら、背中から降ろしません。ひとつひとつの質問に正直に答えるなら、鞘から抜きません」
フィルバートは口をぱくぱくさせた。何らかの言葉を発したかったようだが、声が出せないのだろう。
ジャスティンが背中に斜め掛けにした剣帯には、軽量で取り回しのよい短めの剣がおさまっている。彼が短剣を好むのは、味方を──守るべき主人を傷つけにくいからだった。
「お、お前……やっぱり頭がおかしくなったんだな、こ、こんなやり方に、私が従うとでも……」
フィルバートが声を絞り出した。恐怖で喉が締め付けられているのだろう、かすれた声しか出せていない。額には冷や汗すらにじんでいた。
「ならば剣を振るうまで。私の剣の鋭い切れ味はご存じでしょう」
ジャスティンが鼻を鳴らした。
彼がフィルバートを倒した位置は絶妙だった。おかげで戸口に立つルーファスとミネルバからは、二人の表情の変化がはっきり見える。
お世辞にも勇敢だとは言えないフィルバートだが、今日はいつにも増して怯えているようだ。ジャスティンの背中から覗く短剣の柄を、魅入られたように見つめている。
ミネルバたちの姿にまったく気づいていないし、新しい側近たちに助けを求める余裕もないようだ。
「なにしろ私は、剣を持たせれば向かうところ敵なしですからね。あなたに人生の半分以上を捧げて、献身的な働きをしたおかげで強くなりました。だからこそ側近の任を解かれたときはつらかった。納得するのは難しかった」
ジャスティンがわずかに顔を歪めた。
「あなたがミネルバを愛せなかったのは、ある意味では仕方のないことだ。恋愛感情は強制されるものではありませんから。しかしあなたは、己の感情に行動を左右されることが許される立場ではない。いつかは気づいてくれる……そう信じていた。いえ、正しくは夢見ていたんでしょうね。しかし、夢はやはり夢でしかなかった」
そう言って、ジャスティンは自嘲的な笑いを漏らした。ミネルバの前では隠していた苦しみが、はっきりと顔に刻まれている。
「必死で尽くしてきた私たちを切り捨てた結果が……これだ。もう笑うしかない」
「おい……お前はいったい何を言っている……」
「怪しい人間には近づくなと、私は何度も警告したではありませんか。あなたはおだてに弱い。乗せられやすい。そんな性格だから、レノックス男爵につけこまれたんでしょう」
ジャスティンが身を屈めて、フィルバートにさらに顔を近づける。
「レノックス男爵はね、あなたが思っているよりずっと狡猾かもしれませんよ」
「いい加減なことを言うな! アダムは心から私を敬い、盲目的に服従している。お前と違って私を叱らないし──どんなときも私の考えに従うのが当然だと思っている、世界一の忠義者だっ!」
「なるほど。ではその忠義者が言ったことを当てて見せましょうか。書庫の奥深くに眠る禁書を使って、それはそれは凄い能力を持った聖女を召喚しませんか──そんな言葉ではないですか?」
フィルバートの顔にぎくりとした表情が浮かんだ。しかしすぐに頭を振り、しかめっ面でジャスティンを睨みつける。
「……な、何を……そんな危険な行為に、やすやすと手を染めるわけがないではないか。セリカは……セリカは異世界から落ちてきたんだ、馬鹿なことを言うな!」
「私は正直に答えろと言ったはずですよ。もう状況が変わったんです。あなたがとてつもなく愚かな、どう考えても正気の沙汰ではない行為に手を染めていたことを、私は知っています。頭のてっぺんから爪先まで、罪と嘘にどっぷりつかっていることをっ!!」
ジャスティンの声の激しさに、フィルバートが虚をつかれたような顔になる。
「私だって信じたくはなかった! あなたが無分別な欲望にかられて、実の祖父母を重大な危険に晒しただなんてっ! 道徳心のかけらもなく、呪い殺そうとしただなんてっ!!」
空気を震わせるような大きな声で言ったあと、ジャスティンは獣のように低いうなりを漏らした。
「わたしがよく知っているあなたは……無類のいたずら好きで、ユーモアがあって……楽しいことが大好きで、いつも私を笑わそうとした。記憶力がいいのにも困ったものです。あなたと過ごした幸せな日々が、つい昨日のことのような気がする……」
フィルバートの顔はひどく青ざめている。王宮を留守にしたことが致命的な間違いだったことに気づいたのだろう。見せかけの自信は、すべて剥がれ落ちてしまったようだ。
「本当にセリカが、何の前触れもなく異世界から降ってきたのだったら……あなたが偶然出会った彼女と心から愛し合った末に、やむなく私たちを捨てたのなら……まだ心の持って行き場があったのに……」
「ジャスティン……お前……」
ジャスティンが顔をくしゃくしゃにする。
フィルバートはぽかんと口を開けた。彼は自分の体にまたがるジャスティンの目から、とめどなく溢れる涙を呆然と見つめていた。




