3.衝撃
ミネルバはジャスティンの様子を窺った。彼はぼんやりと透視鏡を見ている。薄暗闇の中でも、その顔は憔悴しきっているように見えた。
ルーファスは音を立てずにニコラスの側まで歩き、何事かを耳打ちした。それからミネルバの背後に戻ってくる。彼の温かくて大きな手がミネルバの肩に置かれた。
「ニコラスに追加の指示を出した。キーナン王にも協力してもらう。レノックス男爵が何者かは、遅かれ早かれわかるだろう」
ルーファスの息が耳にかかる。そのときにはもう、ニコラスの姿は消えていた。ミネルバはルーファスの迅速な動きに感謝した。
フィルバートの背後にいるレノックス男爵が、いったい何を企んでいるのか。アシュラン国王とグレイリング全権大使の両方が動いて、情報が何も出ないということはないだろう。
「私が千里眼を使おうにも、手がかりがないと呼びかけられませんから。レノックス男爵……もしかしたらキーナン王の甥にどす黒い野心があって、フィルバートの身に危険が迫っているのかもしれない。だとしたら皮肉な話ですね、彼にとって一番安全な場所がグレイリングの大使公邸ということになる」
「たしかにそうだ。それに、セリカが心からフィルバートを愛しているかどうかも怪しい。異世界から転移もしくは転生してきた者は、人生をやり直す絶好の機会を与えられたと思うらしい。不思議な力を駆使して、思い通りの生活ができると。そんな異世界人が新しい人生を分かち合うには、フィルバートは頼りなさすぎる」
「そうだとすると、また話が異なってきますね。二人の心はしっかり結びついていると思っていましたが……あの人、私には想像がつかないほど孤独なのかも……」
唯一の庇護者であった国王夫妻は、すでに孫を裁く覚悟を固めている。フィルバートの身の安全だけを考えて献身的な働きをしてきた兄たちも、もう彼の味方にはならない。
ミネルバはフィルバートの顔を見た。彼はルーファスを罵りながら、やかましく自慢話を続けている。
「私はルーファスよりも先に、人生を特別なものにしてくれる女を見つけることができた。セリカの力はずいぶん大きくなったし、彼女がいれば怖いものなしだ。本格的に動き出したら、誰もが私に一目置くに違いない。セリカの力を使って、世界中をあっと言わせてやるっ!」
まるで、新しいおもちゃを自慢する子どものようだ。その姿を見ていると、気の毒にさえ思えてくる。
ロアンから術式を返されたセリカは、十中八九無傷ではない。
セリカ召喚に深く関わり、いまも一緒にいるだろうレノックス男爵は、新しい策を練ろうとするだろう。しかしそれには時間がかかるし、彼の城はすでに包囲されている。
「セリカがいなくなって、寂しがっている親や兄弟姉妹はいないのでしょうか……」
「どうだろう。記録によれば、異世界人は天涯孤独の身の上だったり、周囲に心配する人がほとんどいないというケースが多いが……」
自信に満ち溢れていて、色気を振りまくことに何の罪悪感も持っていないセリカ。無邪気で自由奔放で、フィルバートの心を強烈にひきつけた彼女は、いったい何のためにこの世界に来たのだろう。
「レノックス男爵とセリカがどうあれ、フィルバートは哀れな被害者ではない。痩せ衰えた祖父母を見て、最後の日が近いことを知っていながら放置していたんだからな」
ルーファスの言葉に、ミネルバは小さく「はい」と答えた。
あんなにむごい仕打ちをしたフィルバートが、まっとうな人間ということはあり得ない。邪魔になると判断したものを、冷酷に切り捨てたのは彼自身だ。
鏡の向こうのフィルバートの目がぎらりと光った。
「それにしてもイライラする! ミネルバの引き渡しまで、いつまで待てばいいんだ。あの女はこの私を侮辱したんだ、取り戻したら即、監獄行きだっ!」
フィルバートの暴言には慣れていたが、やはりぞっとせずにはいられなかった。ルーファスとジャスティンが同時に歯ぎしりする様子が伝わってくる。
「あの女、せっかくチャンスを与えてやったのに。アダムの言う通り極刑に値する! しばらくの間、暗くてじめじめした牢に鎖でつないでやるぞ。アダムに下げ渡すのはそのあとだ。それにしてもアダムの奴、退屈で特別な能力など何も持っていないミネルバを欲しがるなんて、物好きな男だ!」
フィルバートが吐き捨てた言葉に、ミネルバは衝撃に打たれた。いつかのルーファスの言葉が思い出される。
(召喚陣を完成させるためには『捧げ物』が必要。誰かの血、小動物の命、人間を生贄とすることもあった……)
なんてこと、とミネルバはつぶやいた。
「ルーファス様……もしかして私、召喚陣の生贄に使われるところだったのでしょうか……。私自身もルーファス様がいなければ、死の恐怖と隣り合わせだった……」
ひどい寒気を感じる。ルーファスが後ろから両腕を回して、ミネルバの震える体をぎゅっと抱きしめてくれた。
「いまの君には私がいる、大丈夫だ。フィルバートは召喚陣について詳しくは知らないのかもしれない。だとしても馬鹿だ、愚かだなどという言葉ではとても足りない」
ミネルバの体に巻き付けた腕に、ルーファスがさらに力を込める。ミネルバの気持ちが落ち着いてきた、そのときだった。かすかに震えるジャスティンの声が耳に届いた。
「間違っている……あなたは絶対に間違っている……」
小さな声だったが、ジャスティンが取り乱しているのが口調でわかる。
内心で渦巻く激しい感情に突き動かされるように、ジャスティンは秘密の空間から飛び出していった。




