2.恐ろしい可能性
フィルバートは乱暴な仕草で椅子を引き寄せ、音を立てて腰を下ろした。
「あのいけ好かない黒ずくめの男! ルーファスの心は、髪や瞳と同じように黒いに違いない。奴は冷酷で人間味に欠けているから、色気がなくて死ぬほど退屈なミネルバにも耐えられるかもしれないな。いやいや、いくらルーファスだってあんな女は願い下げだろうよ!」
そう言って、フィルバートはにやりと口元を歪めた。
「あの男と結婚したい女は列をなすほどたくさんいる。グレイリングどころか、世界中の洗練された美女がこぞって秋波を送ってくるんだぞ。ミネルバみたいな『傷もの』に目を向ける必要は無いだろう。あの女はもう、高位な家柄の夫など望めないんだ」
聞くに堪えない言葉だった。すぐ側にいるルーファスの血が怒りで煮えたぎるのを、ミネルバは肌で感じ取った。
「ルーファスはどんな女も思うがままなのに、自分から女に声をかけない変人だ。誰とも親しくならず、決まった相手を作らずにいる。きっと特別な能力を持つ相手を探しているんだ。そう、私の可愛いセリカのような! あいつは異世界人を娶った私をやっかんでいるに違いないっ!」
「フィルバート様、滅多なことをおっしゃいますな。いまのような言葉がグレイリング側の耳に入れば──あちらも気分を害するでしょう」
もうひとりの側近がうなるように言った。本当は「ただではすまされない」と言いたかったのだろうが、フィルバートの怒りを買うのを恐れたのだろう。
(たしかに王太子にあるまじき愚かで危険な発言だわ。自国の貴族である私はともかく、ルーファス様に対する発言は問題外……)
フィルバートはまるで、全世界が自分の意のままに動くと思い込んでいるかのようだ。
(楽観的な性格とはいえ、宗主国に逆らおうと考えるほど愚かではなかったはずなのに……)
鏡の向こうで、フィルバートの体が緊張しているのがわかった。彼はきょろきょろと辺りを見回し、何かが潜んでいないか感じ取ろうとしている。
「こちらを覗けるような仕掛けがないことは、お前たちが最初に確認したじゃないか。私は属国とはいえ未来のアシュラン王だぞ。特に今回は正当な主張をしに来たんだ、監視されるいわれなどない」
フィルバートがいらだたし気に床を踏み鳴らす。
客間に閉じ込められていることにほとほと嫌気がさしているらしく、小馬鹿にした口調でグレイリング側の対応を罵り始めた。
透視鏡を眺めているニコラスがため息をつき、眼鏡を鼻の上に押し上げた。
「くそ! アダムの計画さえ上手くいけば、私はもう何ひとつ気の進まないことをする必要はないのに……っ!」
フィルバートが吐き捨てるように言う。
「そうさ、私はアダムの言う通り、グレイリングの言いなりになるべきじゃないんだ。ルーファスめ、この先に待ち受けるものを知ったら腰を抜かすに違いない!」
やはり、フィルバートをこれだけ無鉄砲にしたのはレノックス男爵らしい。
ずっと国王夫妻の言いなりだったフィルバートが、なぜ突然兄たちを切り捨てたのか。それだけは知りたいと思っていた。
すぐに楽な方に飛びつくという悪い癖をレノックス男爵に見抜かれ、いいように操られているとしても不思議はない。
ミネルバがそんなことを考えていると、ルーファスが耳元で囁いた。
「フィルバートが他人を頼るのに慣れ切っているにしても、実現できるはずもない幻想を抱かせたレノックス男爵というのは、なかなかの策士かもしれないな。忠誠を捧げられて当然だと信じて疑っていないようだが……」
ミネルバはうなずいた。
忠実なふりをして、フィルバートを操るのは簡単だろう。彼の幸福だけを願って守り続けてきた兄たちを捨てたとき、フィルバートは丸裸になってしまったのだ。
「お飾りの王にするには、フィルバートは理想的とは言えません。いまは楽観的に未来に希望を抱いているようですが……レノックス男爵がフィルバートの癇癪とわがままに耐えて、忠誠を尽くしているとは思えない。何か裏があるとしか……」
ミネルバは言葉を切り、レノックス男爵の姿を思い浮かべた。ロアンと探し物をする前にも思い出した顔だ。
(三十代半ばの見目麗しい男性。鼻筋が真っすぐで歯並びがよく、どこかの国の王族だと言われても信じられるくらいに気高い雰囲気がある……)
まさか、と思った。全身に困惑の波が襲ってくる。まったく説明がつかないが、ミネルバは身をよじってルーファスを見上げた。
「ルーファス様……。間違いなく王家の血を引いているのに、庶子の血筋ゆえに王位を継げないと知ったら、人はどれほど打ちのめされるでしょう。自分の手にすることのできない権威が、頭が空っぽの暴君のものになるとしたら……」
ルーファスが小さく目を見開いた。
「そうか、ミネルバの千里眼で確認できなかった従叔父か。たしかに可能性はあるな。どういうからくりでレノックス男爵となったかは謎だが……もしも同一人物だとしたら、フィルバートは絶望的なまでに不幸なのかもしれない」
鏡の向こうのフィルバートの青い瞳は、生き生きとして無邪気そうに見える。
ミネルバは体が震えるのを感じた。こんなにぞっとしたのは生まれて初めてだった。




