1.フィルバート
「着替えも化粧も大急ぎでやった割には、いい仕上がりだわ。綺麗よミネルバ、ルーファス殿下もいちころよ!」
シーリアが腰に手を当てて胸を反らす。化粧道具を片付けている侍女のリーザも、同意するように微笑んだ。
ミネルバは鏡の中の自分を見た。グレイリングで流行している、凝ったデザインのドレス。上品な薄紫色で、豪華な刺繍と小さな宝石がちりばめられている。
髪飾りや手袋、靴といった細々としたものも完璧で、まるでファッションプレートから抜け出してきたかのように美しい。
これらはすべてルーファスが贈ってくれたもので、両親がここに避難する際、ミネルバのために持ってきてくれていたのだ。
王宮東翼から大使公邸に戻ってきたとき、ミネルバは当り前だが乗馬服姿だった。
やはりルーファスから贈られた緑色の乗馬服は、東翼でのあれやこれやと馬での往復のせいで、それなりに汚れてしまっていた。巻き毛ももつれて、シーリアの目にはひどい格好に見えたらしい。
『そんな恰好ではフィルバートに嘲られるわ。対決にふさわしいドレスを着なくちゃ! そうよ、二度とミネルバを馬鹿にさせるものですかっ!』
シーリアが鼻息も荒く言ったことを思い出す。
たしかにフィルバート相手なら、とりわけ着飾ることが重要だろう。しかしミネルバは身支度に時間をかけることに躊躇した。
森のはずれにある屋敷で暮らす、キーナン王の腹違いの兄とその家族のことが気にかかっていたからだ。
フィルバートにとっては大伯父、従叔母とその夫、はとこである子どもたち。そして──ミネルバの千里眼では確認できなかった従叔父。
ルーファスは姿の見えない彼の調査を、緊急かつ最優先項目とした。
特別な訓練を受けた伝書鳥ハルムで、浄化作業にあたっているロアンに追加の指示を飛ばした。さらにマーカスとコリンも現地に向かった。
コリンはルーファスの部下とともに調査にあたり、マーカスはロアンを連れて戻ってくる手筈になっている。
『ミネルバだって、見た目がどんな影響を及ぼすかは理解しているでしょう? 大丈夫、フィルバートは眠らせてあるから。ニコラスいわく、単純な手段に引っかかってくれたんですって。つまり食べ物に薬を盛ったのよ』
シーリアは大きなお腹にもかかわらず、ぐいぐいとミネルバの背中を押しながら言った。
フィルバートが胸元にセリカの魔力が籠った『何か』を抱えていることも、ミネルバの千里眼で判明したことのひとつだ。
ルーファスからの連絡を受け取ったニコラスは、安全のために眠らせることが得策だと考えたらしい。これにはルーファスも苦笑していた。
「じゃあ、ルーファス殿下のところへ行きましょうか。フィルバートと側近たちのいる区域には、壁と壁の間に隠し通路があるのよ。グレイリングでも最先端の技術を使っているから、絶対に気づかれずに『お客様』を観察できるようになっているの」
シーリアが誇らしげに言った。
大使公邸の内部はそれでなくとも迷路のようだ。広い廊下から狭い廊下に入り、壁に擬態した扉を通り抜ける。静まり返った通路は薄暗かった。
シーリアはドレスが立てる衣擦れの音を気にする様子もない。ミネルバは彼女に従って、人気のない通路を進んだ。
「もうすぐ着くわ」
小声で言われて、ミネルバは唾を飲み込んだ。ついにフィルバートの近くまでやってきたのだ。
「中に入ってびっくりしないでね。フィルバートたちの姿が驚くくらいよく見えるから。それに壁に小さな穴があって、向こう側の声が聞こえるようになっているの。フィルバートたちには壁紙の模様にしか見えないわ。でもこっちが大きな声を出すと、勘づかれてしまうかもしれないの。まあ、あの人たちぼんくらと言うか、すっごく鈍そうだけど」
「わかったわ。ありがとうシーリア」
心の準備をして、狭い通路をするりと抜ける。壁と壁の間にある秘密の空間に入ると、ミネルバは言葉を失った。
(フィルバート!)
すぐ近くに、こちらを睨みつけているフィルバートがいる。いや、彼はただ壁を見ているだけだ。自分の姿が観察されていることに気づいている様子はない。
フィルバートは相変わらず尊大な顔つきで、大きく伸びをした。ちょうど目が覚めたところだったらしい。
「くそ、あんまり待たされるものだから寝てしまった! グレイリングの大使め、私を取るに足りない者のように扱いやがってっ!」
フィルバートはテーブルの上のグラスを掴んで、中身をごくごく飲んだ。そして不満げに鼻を鳴らす。
ミネルバが息を詰めていると、奥の方から近づいてきたルーファスに手を握られた。彼はミネルバの手を唇に持っていき、軽い口づけを落とした。そして耳元に唇を寄せてくる。
「これは透視鏡と呼ばれるものだ。明るい側からは鏡にしか見えないが、暗い側からは向こうの姿がはっきり見える。ロアンが戻ってくるまで観察するとしよう」
至近距離からルーファスの息がかかって、ミネルバは頬が熱くなるのを感じた。
暗闇の中で目が慣れてくる。ルーファスが浮かべる温かい微笑みに勇気づけられた。ミネルバも愛情を込めて微笑み返した。
ミネルバの存在に気づいていないような態度で、ひたすらフィルバートを見つめているジャスティンがいる。その隣にいるニコラスは心底うんざりした顔つきだった。
うんざりしているのはフィルバートも同じのようで、透視鏡の向こうの彼は大きく息を吐いた。
「アダムの言う通りにすれば、すべて順調に進むと思ったのに……やっぱりあいつも連れてくればよかった。いや、アダムには重要な仕事がある。私たちの協力関係は上手くいっている、とにかく一刻も早くミネルバを奪い返さねば。おい、もう一度大使をせっついてこいっ!」
アダムというのはレノックス男爵のことだ。フィルバートに怒鳴り散らされて、以前見た2人の側近が肩をすくめた。
「そうは言われましても、あちら側は『ミネルバ・バートネット公爵令嬢は重要人物だから、審議に時間がかかる』の一点張りでして。一体全体、重要人物とはどういう意味なのでしょう。突飛な考えかもしれませんが、彼女がグレイリングの皇弟から見初められた可能性があるのでは? それならば、異常なほどの肩入れにも納得がいきます」
側近の一人が言う。それなりに頭の回る人物のようだ。彼の言葉は真実だったが、欲求不満が頂点に達しているフィルバートは気づかない。
「馬鹿め。ルーファスは大帝国グレイリングの第二皇子で、体の弱い兄貴が死んだら皇帝になるんだぞ。兄貴の息子はまだ小さいからな、そうするに決まっている。野心ある男が、ミネルバごときに手を出すはずがないじゃないか」
フィルバートはよちよち歩きの子どもを諭すような口調で言い、面白がるような表情になった。




