6.ロアン・アストリー2
「お二人の初期の症状がどんなものだったかと、その症状が出始めた日を覚えていますか?」
執事のアントンを凝視したままロアンが言った。高すぎず低すぎない、まるで音楽を奏でるような美しい声だ。
アントンは首を縦に強く振った
「もちろん覚えています。手足や顔がつっぱる、足がつるといった痙攣の症状が、お二人にほとんど同時に起こったんです。その……フィルバート様がミネルバ様との婚約を破棄する1週間ほど前のことでした」
「そのときは、意識を失うようなことはなかったんですか? 転倒して怪我をしたといったことは?」
「ありませんでした。ただその日から、お二人とも様子がおかしくなって……予定を忘れたり、同じ話を繰り返したり、まるでらしくない言葉を口走ったり……頭がぼうっとしている状態とはっきりしている状態を、行ったり来たりするようになりました」
アントンは首を傾げ、考えるような表情になった。
「侍医の診察では、体に悪いところはなかったんです。しいて言えば脳の老化だろうとのことでした。ちょうどセリカ様のことで、いろいろと悩んでいる時期でしたし……不安によるノイローゼの可能性もあるが、いずれにしろ考えることをやめて静養するようにと指示を受けました」
なるほど、とロアンがうなずく。その姿は実に堂々としていて、15歳の少年とは思えないほど存在感が際立っていた。
「最初の症状が出たのがおよそ1年前。それ以降、意識がしっかりしている時間がどんどん短くなっていったんですね?」
「その通りです。いまではほぼ1日じゅう、呆けたように自分だけの世界に閉じこもっていらっしゃいます」
「お二人、もしくはどちらかの意識がはっきりしていた、最後の日はいつですか?」
「1か月までは経っていないと思いますが……前に皇弟殿下がいらした日です。得体のしれない使用人が増えた西翼で、破廉恥なお茶会が開かれた日ですよ。王様も王妃様も、皇弟殿下からお預かりした伝言を見て激怒なさいましたから。あの日の夜、フィルバート様とひどい口論になったんです。王様が震える手で、グレイリングに送る手紙をお書きになって……きっとあのせいで、体力や気力が尽きてしまったんです……っ!」
アントンが吐き捨てるように言った。
ミネルバは眉をひそめてルーファスを見た。ルーファスも思うところがあったのか、ミネルバを見てうなずく。
「私の脳裏には、お二人が最初の痙攣を起こしたときのお姿が繰り返し浮かびます。フィルバート様はただの老人病だとおっしゃる。外に漏らすのは恥をさらすのと同じこと、お二人の誇りが傷つくと。でもあれは……あれは絶対に呆けの症状なんかじゃありません。しかし立場上、フィルバート様に刃向かうこともできず……私の頭までおかしくなりそうです」
そう続けたアントンの声は震えていた。
彼が国王夫妻のことを話すときの苦悶に満ちた表情、つらそうな声に嘘はないと思える。
よくわかりました、とロアンがつぶやいた。
「最後の質問です。いまでも王太子妃が、この東翼にやってくることがありますか? あるとしたら、頻度はどれくらいですか?」
「もちろんいらっしゃいます。見舞いに来たと言いながら、毎回そそくさと帰って行かれますが。頻度は……月に2、3回といったところです。そうそう、本日の夕方こちらにお越しになる予定だとお聞きしております」
「なるほど……降臨の地から戻ってきて、その足で東翼に来るつもりということですね。ありがとうございました、必要なことはすべてわかりました」
ロアンが含み笑いを漏らした。彼はさりげなく肩をすくめてから「では」と両手を叩いた。
「時間がもったいないので、早速患者の診察を始めましょうか。まずはジェムさんに体のほうを診てもらわないと」
「そうだね。いまが昼前だから……午後のお茶の時間までには何とかしないと」
ジェムが穏やかに答えた。
アントンは勢い込んでうなずき、ミネルバたちを国王夫妻の寝室へと案内してくれた。東翼は広いので、やはりそれなりの距離があった。
扉の前には、見るからに疲れた顔の従僕が立っていた。国王夫妻の本当の病状はごく一部の者しか知らないそうなので、念のため見張りを立てているのだろう。
「グレイリング帝国皇弟殿下と御婚約者様、そしてお医者様がお越しくださった。これからお入りいただくから決して騒がないようにと、中にいる者たちに伝えてくれ」
アントンが言うと、従僕は慌てて寝室に入っていった。
扉を見上げて、ロアンが深い息を吐く。
ロアンは扉に向かって右手をかざした。手のひらの上に、鶏の卵ほどの大きさの白い玉がのっている。その玉の周りでぱちぱちと火花が弾けた。玉はロアンの手の上でくるくると回転を始め、ふわっと浮かび上がった。
「ここからでも痛烈な敵意を感じる……まあ力としては弱いけど。この寝室の中には間違いなく、忌まわしく邪悪なものの気配がありますよ」
その瞬間、白い玉から強烈な光が放たれた。
アントンが度肝を抜かれたように、ロアンの美しい顔を呆然と見つめていた。