3.生まれて初めて
シーリアの笑顔を見たら、いらない力が入っていた肩が楽になった。
(ええっと……シーリア様が教えてくれた告白のコツは『迷わず突き進む』こと。秩序立っている必要はない、寄り道や回り道だってちゃんとした道なんだから、前進あるのみ)
ミネルバはひとつうなずき、シーリアに笑みを返した。笑顔の下に固い決意を隠しながら。
シーリアは悪戯っぽい目になって小さく手を振ると、ゆっくり階段を降りて行った。
「あの、ルーファス様。私はこれから、素直な自分の気持ちを述べます。でもそれって、私にとっては学問以上に難しくて大変なことで……整理しながら話すので、椅子にお掛けくださると嬉しいです」
「あ、ああ。わかった」
ミネルバの足元にひざまずいていたルーファスが、ぎくしゃくと立ち上がる。ミネルバの緊張が伝染したかのように、彼はもぞもぞと椅子に座り直した。
「あのですね……私、7歳で未来の王太子妃と定められて、女の子らしいあれこれを経験する機会も時間もなかったんです。保守的なアシュランでさえ、幼いうちに婚約するのはまれです。普通は社交界デビューしてからお相手探しをします」
さっきまで喉が詰まって上手く声が出せなかったが、シーリアのおかげで頭の中に渦巻いている感情を言葉にすることができた。
自分でも『そこから!?』と思ってしまうけれど、とにかく前進あるのみと己に言い聞かせながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「私の中には、丸くなって泣いている7歳の女の子がいます。だって婚約者との初顔合わせのとき、第一声で『可愛くないし不愛想で、何を考えているのかちっともわからない』って言われたんですもの。実際には泣かなかったし、私の自尊心はびくともしないって顔をしましたけど」
ミネルバの言葉に、ルーファスが眉間にしわを寄せた。
「途中で言葉を挟んで申し訳ないが、時間をさかのぼれるなら11歳のフィルバートをぶん殴ってやりたい」
「ありがとうございます、私もです。でも愛以外の理由で結ばれても上手くいくケースはありますし、結婚生活を通じてゆっくりと、家族的な愛情を紡いでいけばいいと思っていたんですが……。愛されていないと知りながらお妃教育を受ける日々は、やっぱりつらかった」
過去の情景を思い浮かべ、ミネルバは膝の上で両手を握りしめた。
「いまから思えば、フィルバートは悔しくてたまらなかったのだと思います。私は4歳も年下なのに、フィルバートより勉強ができましたから。彼の穴を埋めるために選ばれたとはいえ……プライドを傷つけてくる相手を愛するのは、やっぱり難しいですよね」
「器の小さい男だ。自分の欠点を埋めてくれる相手と巡り合えたのは、この上ない恵みだったというのに。奴のことだから、努力もせずに己の不幸ばかりを嘆いていたんだろう」
「当たっています。おかげで10年間、婚約者から嫌味を言われ続けるという不名誉な思いをしました。それでもお互いに、表面的には上手くやっていたんです。2人で将来について語り合い、笑い合うことだってあった。あの娘が──思い通りにならないとすぐに泣く、あのセリカが現れるまでは」
フィルバートがセリカを連れて帰ってきた日のことを思い出すと、いまでも少なからず胸がざわつく。あの日もミネルバは、お妃教育を受けるために王宮に上がっていた。
「私がセリカの教育係だったのはたったの3か月間。でもその短い間に受けた屈辱は、筆舌に尽くしがたいものでした。淑女は感情をあらわにしないものだし、誰がなんと言おうと私は未来の王太子妃。セリカの態度はしゃくに障ったし、忌々しい女だと思ったし、怒りで押しつぶされそうになっていたけれど、決して顔には出しませんでした。あんな女に屈したくありませんでしたから」
ミネルバはゆっくりと息を吐いた。
ルーファスがこちらに向けてくるまなざしが優しくて、涙が滲みそうになってしまう。でも、いまはまだ泣きたくない。
「フィルバートがセリカにまんまと騙されて、私の世界は足元から崩れました。それでも婚約破棄された瞬間、私は誰よりも冷静でした。我ながらあれは偉業だったと思います。心は荒れ狂っていたし、自制心も吹っ飛ぶ寸前だったのに」
ミネルバは手を落ち着きなく握っては開いた。
「私にも悪いところはいっぱいあったけど、これはあんまりじゃないのって泣きたかった。でも泣けませんでした。あんな人たちのために泣いてたまるかって思ったのと……長い間我慢し続けたせいで、気がついたら泣き方を忘れちゃってて」
ルーファスが立ち上がり、再びミネルバの足元にひざをつく。彼は微笑みを浮かべて、ミネルバの手に自分の手を重ねた。
じっと見つめられると背筋が震える。
ずっと自分を守っていた殻から出て、心の中を見せるのは恥ずかしい。
でもルーファスができると信じさせてくれたから、きっとできる。
「社交界から追放されて……なんだかもうどうでもよくなって……。どこか遠い国に逃げたくなったけど、両親も兄たちも私を愛してくれたし……。家族がなんとか次の相手を探そうとしてくれるから、修道院にも行けなくて……でも近づいてくるのはろくでもない人ばっかりで……」
ミネルバは鼓動が速くなるのを感じた。顔が熱くなって、恥ずかしさで身をよじりたくなる。
「婚約中の10年と、そのあとの1年……私は11年も無駄にしてしまった。でもルーファス様と出会ったあの日、すべてが無駄だったわけではないかもしれないと思えました。ルーファス様を庇うあの瞬間のために、厳しい教育に耐えてきたような気がして……」
ルーファスに横抱きにされたとき、名状しがたい感情が広がったことを覚えている。どんな状況に陥っても決して慌てない自信があったのに、ものすごく混乱した。
「みっともなく怪我をして、ルーファス様に運んでもらった。か弱い女の子みたいに。あれは白昼夢かと思いました。だって、自分には絶対に起きないことだと思っていたから。顔には出さなかったけど、すごく嬉しかった……」
苦しいほど胸がドキドキする。小さいころから肝が据わっている、強いと言われ続けてきたのに、緊張で心臓が破裂しそうだ。
「あの日から、目を閉じるたびにまぶたの裏に思い浮かぶのは、つらかった過去ではなくなりました。つまり、その……あの、私いますごく立ち上がりたい気分なんですけど、立ってもいいですか?」
あまりにも激しい感情に揺さぶられて、思わず頓狂なことを言ってしまう。
それでもルーファスは「もちろん」と優しく言って、ミネルバの手を握ったまま立ち上がった。そしてミネルバの手を引いて立ち上がらせてくれた。
「それで、その……私が思い浮かべるのは、ルーファス様のお顔だったんです。抱き上げてくれたときの、間近に迫った凛々しいお顔。手の甲に口づけしてくれたときの、おごそかで気高いお顔。求婚を受けて泣いてしまった私に向けてくれた、真摯で誠実なお顔……それはつまり、つまり……」
ルーファスの顔を見上げながら、ミネルバは深く息を吸い込んだ。
「つまり……つまり私、生まれて初めて恋をしたんです! 私はルーファス様が大好きになったんですっ!」
ルーファスの反応を待たずに、ミネルバはさらに言葉を続けた。
「こんな私ですがルーファス様を力の限り幸せにすると約束します! だから私と結婚してくださいっ!」
ひと息に言ったせいで上手く呼吸ができない。ミネルバははあはあと肩を上下させた。
顔が真っ赤になっている自覚があるのと、猛烈な恥ずかしさに襲われて、そわそわと片方から片方の足へと重心を移動させる。
「……まいったな。君は私を泣かせるつもりか」
そうつぶやいたルーファスの顔が朱に染まった。ミネルバの手を握る指先が震えている。これほど狼狽している彼を見るのは初めてだった。
ルーファスは熱を帯びた瞳でミネルバを見つめ、ただひと言「嬉しい」と言った。その声は小さかったが、ミネルバの体の奥深くに響いた。




