2.溢れる想い
首から下げた鎖にぶら下げた小瓶が、じわじわと熱を発している。千里眼と結界を同時に発動するための、特別な砂を入れた小瓶。ルーファスから守られているという感覚が全身に広がった。
ミネルバの意識は、ふわりと浮かんで舞い上がった。不気味な黒い霧の中の、公爵の魂が囚われている場所を目指して。
他人と心を繋げることは、簡単なことではないし危険でもある。こちらも完全に心を開かなくてはいけないから、無防備に付け込んで襲われかねないのだ。でもルーファスが守ってくれている限り、ミネルバの身に危険が迫ることはない。
<メイザー公爵、どこにいますか!?>
公爵の魂を求めて、黒い霧の中を這うように進む。中心部に近づくにつれて、圧力がどんどん増した。両目に刺すような痛みが走り、喉が締め付けられる。
<ミネルバ様ですか?>
公爵の声が頭蓋骨を直撃した。やはり彼の心に通じる道があったのだ──集中しすぎて全身汗びっしょりになりながら、ミネルバはほっと安堵の息を漏らした。
<来てはいけません。ここは恐ろしい場所、危険な場所です>
<ルーファス様が守ってくれるから大丈夫です。さあ、私の手を取って。意識を集中させて、そう思い描けばいいんです。私としっかり繋がることができれば、あなたの魂も結界に守ってもらえる>
すべてが黒い霧に満たされた中で、小さな球体が弱々しく光っていた。
ミネルバは必死の思いで、その球体に手を伸ばした。公爵の魂である小さな光は戸惑い、おずおずとしている。だから抱きしめるように包み込んだ。二人の心が、しっかりと繋がるように。
黒い霧がミネルバたちをぐるりと取り囲んだ。それは鳥籠のようで、ここを離れさせまいとする強い意志を感じた。
ここから先は我慢の時間だ。ロアンが黒い霧を削り、この鳥籠が破壊されるまで公爵の魂を守り抜かねばならない。
「くっそー、硬いな。でも、こっちの力もまだまだこんなもんじゃないからな!」
目の前でロアンが戦っている。ルーファスは彼に防御の結界をかけ続け、黒い霧が発する負の感情を寄せ付けないようにしていた。
肩で息をするロアンに、ルーファスが「大丈夫か」と問いかける。
「これが終わったらへとへとになるんで、特別手当弾んでくださいね」
「まかせておけ。頑張った人間には、たっぷりのご褒美があるものだ」
ルーファスの励ましに、ロアンがにやりと笑う。そしてまた、力と力の無言の格闘。白い浄化の猛攻に、黒い霧もよく耐えていた。
ミネルバは目を逸らさずにいるのが精一杯だった。大事な人たちが苦しんでいる姿を見るのは、とても辛い。彼らはとっくの昔に心も体も疲れ果てているのに、膝をつかずに前だけを見つめて進んでいる。
<ミネルバ様。あなたにたっての願いがあります。とても辛いことを……頼んでしまうのですが>
心を震わせるような、悲しい決意に満ちた声で、公爵の魂が言った。
<ルーファス殿下も、あの少年も、恐らく長くは持たない。この鳥籠はとても固い。少年が削っている外側よりもずっと。きっとこの世界の人間には、打つ手がないんだ>
<でも、やってみなくては──>
<私は一か月以上もこいつの力に翻弄されてきました。だからわかることもあるんです。殿下も少年も命を削っている。もうこれ以上は……見ていられません>
抱きしめた公爵の魂が、小さく震えた。
<私を見捨ててくれと……殿下に伝えていただけると助かります>
<そんな、メイザー公爵!>
<お願いします、あのお方はグレイリングの宝なのです!!>
それは胸が痛くなるほど悲痛な叫び声だった。
<私はトリスタン様の即位に賛成ではなかった。あのお方は生まれながらに健康問題を抱えていたが、ルーファス皇子は頑強なお子だった。とても優秀で、人格も素晴らしく──会うたびに、わくわくするような驚嘆の思いに駆られたものです。第二皇子であることが心底惜しいと思った。あのお方に野心がないのはわかっています。けれどトリスタン様の病状が、これから先悪化しないとは限らない。皇太子レジナルド様はまだ幼く……国が混乱に陥ったら、ルーファス殿下の鋼の意思と強い決断力が、絶対に必要になるはずなんです!>
ミネルバは口もきけず、腕の中の小さな光を見つめていた。
<私はグレイリングを愛している。いまこの瞬間も例外ではない。もしルーファス殿下が健康を損なうようなことになれば……私は一生自責の念にさいなまれるでしょう。カサンドラを妃にと望んだのは、権力がほしかったからではありません。一番の理由は娘の幸せだったけれど、二番目の理由は……いざというとき、皇妃になれる素質を持った娘が、殿下の側にいるべきだと思ったからだ。ミネルバ様がいてくだされば、もはや後顧の憂いはない……!>
<メイザー公爵……>
何も言葉が見つからなかった。彼はグレイリングを守るために、自らの命を捨てようとしている。公爵としての矜持、揺らぐことのない忠誠心。
ミネルバの心にいくつもの感情が渦巻く。そのひとつは畏敬の念で、後は悲しみと焦りと、とてつもない混乱に襲われている。
浄化に一生懸命なロアンと、結界を押し流されまいと堪えているルーファスの姿が見える。ミネルバははっとした。ルーファスは自分が責任を負っている者たちを、必ず守ろうとする人なのだ。
<あなたの命を守ることがルーファス様の使命なんです! あなたの崇高な思いはわかるけれど、生きることを諦めないで……っ!!>
腕の中の球体が、どんどん冷たくなっていく。公爵が心を閉ざしたのだ。
<駄目! 魂が諦めてしまったら、体も死んでしまう……っ!!>
これしか道はないとばかりに、光が消えていく。公爵を死なせたくないという強い思いが、ミネルバの中で爆発した。自分の体から発せられる、黒い霧をかき乱すほどのエネルギー。実力を遥かに超えた、火事場の馬鹿力のようなもの。
トパーズも聖なる砂も輝きを増している。それなのにベレーナだけが反応しない。だから体の中で溢れかえる膨大なエネルギーを、ありったけベレーナに注いだ。
「ベレーナ、召喚聖女の遺物と戦う私たちは傲慢ですか? 私たちがあとどれほど苦しめば、あなたは目覚めてくれるのですか? たしかに人間の心は、私利私欲に満ちています。誘惑に弱くて、単純で……でも、いまの私たちの心を繋いでいるのは信頼です。この場にいる誰の心にも、汚い欲望はありません……っ!!」
心の声ではなく、実際に声に出して叫んでいた。
ルーファスとロアンが息を止めたような顔でこちらを見る。次の瞬間、ベレーナを握りしめた指が燃えるように熱くなった。




