2.純聖女の遺物
「触媒の力としての力が強すぎて、制御が大変だということですか?」
ミネルバは必死に考えを巡らせた。
『召喚聖女』の遺物は、レベル1の力を9や10にしてしまう。術者と離れていても制御や運用ができてしまう。異世界人の力が込められているから、こちらの世界ではありえないような離れ業ができるのだろう。
『純聖女』の遺物では、そのような反則技は使えないと考えるのが妥当だ。こちらの世界の神も純聖女も、古代の人々に自立への努力を求めたそうだから。
こちらが考えていることを見抜いたかのように、アイアスは「きっとそうなんでしょう」と穏やかに言った。
「でも召喚聖女との戦いの後、純聖女の遺物をちゃんと機能させたという報告例は、残念ながらまったくないんです」
「そうなんですか……。あの、どうしてなのか教えていただけますか?」
アイアスは微笑みながら「もちろん」と答えた。
たしかに、少しおかしいとは思っていた。純聖女の遺物は深い意味がある品だ。召喚聖女の遺物と戦うという目的にぴったり一致するのに、ルーファスもロアンもおじいさんたちも、これまで一度もアイアスの発見に言及してこなかったから。
「純聖女の遺物が、現在までに大半が失われたことはご存じですよね」
「はい。召喚聖女との戦いで壊れてしまったとか」
「そうです。私が見つけたものは、ルピータ神殿で人知れず眠っていた。壊れなかったから残ったわけではなくて、そもそも戦いに参加しなかったんです。人々の愚かさに絶望し、心に鎧戸を下ろしていたから」
そう言ってアイアスはジャケットのポケットを探り、象嵌細工の小さな箱を取り出した。彼が蓋を開くと、そこには白い宝石が散りばめられた猫の彫像が鎮座していた。
「ベレーナといいます。純聖女のしもべだった猫です。伝説によれば、非常に高い能力を備えていたようですね。人間に愛玩されるような存在ではなく、神や純聖女に似た遠い存在です」
「綺麗……。純聖女は、自らのしもべを模したものに力を込めたんですね」
「他にもたくさんの動物が純聖女に仕えていたそうですが、ベレーナは特に気難しいことで有名だったとか。このベレーナの彫像だけではなく、現在まで残っている純聖女の遺物は、人間に力を貸すべきではないと判断した。神と純聖女の願いを無視して、どこか違う世界の神に縋ったわけですから。きっと怒りしか感じなかったのでしょう」
「当時の人々の子孫としては、文句は言えませんね」
ミネルバはため息をついた。当時の王族たちが召喚聖女の力の恩恵を得て、一般の人々の命を危険に晒しかねない状況に陥ったのだ。ベレーナが絶望したのも当然だろう。
ロアンが右手を口元に寄せ、悔しそうに爪を噛む。
「つまり現存している純聖女の遺物は、学術的にはめちゃくちゃ貴重だけど、実用的じゃないんですよね。こいつを使って、あっさり解決できたらよかったんだけどなあ。駆使できる力の全容を、知りたいっちゃ知りたいし。僕らがいま使っている触媒より、比べ物にならないほど強力なはずですよ」
「私たちが使えないということは、ガイアル陣営もそうだということだ。あっちは自分たちの利になりそうなものなら、人が死のうが傷つこうがためらわずに使用する。人間に手を貸すのを嫌がるものばかりが残って、かえって良かったのかもしれない」
ルーファスが宥めるような声で言う。
アイアスが「そうですね」とうなずいた。
「私は純聖女の遺物の歴史を、手当たりしだい調べました。絶望している……伝説ではそう言われているけれど。なんとなくこのベレーナは、お眼鏡にかなう人間を注意深く待っているような気がするんです。自分の術者となるのにふさわしいかどうか、観察しているんじゃないかって。だからポケットに入れてずっと持ち歩いていました。ルーファス殿下やミネルバ様を見てほしくて。いや、希望的観測にすぎないのはわかっているんですけどね」
アイアスが指先で鼻の頭を掻く。
護衛として壁際に立っているエヴァンが「観察……」と小さくつぶやくのが聞こえた。彼が任務中に独り言を言うのは、非常に珍しい。
「エヴァン、どうかしたの?」
「いえ、以前ミネルバ様から『私を観察していてほしい』と頼まれたことを思い出しまして」
ルーファスが怪訝そうな顔をする。
エヴァンが慌てて言い添えようとして、ミネルバの顔を見た。言ってもよいという気持ちを込めて、ミネルバはうなずいた。
「カサンドラ様が体調を悪くした、大舞踏会の日のことです。ミネルバ様はこうおっしゃったのです。『私が自分の考え以外、何も目に入らなくなったり、無意識に人を傷つけていたりしたら、諫めてほしい。自分が調子に乗ればルーファス殿下の評判を犠牲にしかねない。高慢な人間になっていないか、護衛と同時に観察していてほしい』と。私はそれを聞いて、己の主人は何と素晴らしいのだと感動いたしました」
ルーファスが「そうだったのか」と目を丸くしている。
「主人びいきが過ぎる……とミネルバ様には叱られてしまうかもしれませんが。ミネルバ様は心が温かく親切で、他人のためにご自分を犠牲にできるお方です。常に己を向上させる努力をして、人々の役に立てる機会を探しておられる。ベレーナにとっては、ミネルバ様こそが理想の術者なのではないでしょうか」
ミネルバは頬が赤くなるのを感じた。
「ありがとうエヴァン。でも本当に、主人びいきが過ぎるわ。ベレーナの彫像を見ていると、なんとなく拒絶されているのを感じるの。私は特別な人間じゃないのよ」
いち早く反応したのはエヴァンではなくルーファスだった。彼は「いや」と首を横に振った。
「君はたしかに、他の女性とは違う。それに、何事も試してみなければ始まらない。アイアス、ベレーナの彫像をミネルバに持ち歩かせてもいいか?」
「ええ!? 純聖女の遺物は、世界にいくつもないんでしょう? 私にそんな貴重なものを──」
「大丈夫です、これは頑丈で金槌で叩いても割れませんので。ブローチになっていますから、ミネルバ様が身に着けるのが最良だと思います」
アイアスが箱ごとベレーナを差し出してきた。ミネルバは恐る恐る受け取った。
「ミネルバ様、あんまり気負わないでいいですよ。駄目で元々って感じで!」
ロアンがそう言って、最後の冷肉を口の中に放り込んだ。
手のひらの上で温かいエネルギーが脈打っているのがわかる。
恐らく徒労に終わるだろうが、ベレーナの目の前で全力を尽くそう。美しい白い猫の彫像を眺めながら、ミネルバは決心を固めた。