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2.メイザー公爵

 ミネルバたちは急いで馬車に乗り込んだ。座席に腰を下ろすと、マーカスが身を乗り出して向かいに座るソフィーの手をきつく握った。


「もう大丈夫だぞ。もう二度と、あの男の顔を見ることはない。いや、あるとしてもそれは、俺がこの拳でやつの顔をぶん殴るときだけだ」


「そのときは私も殴ってやるわ。あの人は本当に見下げ果てた男よ。私の拳だって、マーカス様の役に立つんだから」


 ソフィーの勇ましい返事にマーカスが目を丸くする。彼は「頼もしいな」とつぶやき、いとおしそうな顔で笑った。

 ミネルバは左隣に座るカサンドラを見た。頬が少し青ざめていて、元気がないのが気になる。


「ぜひ私も参加させてくれ。メイザー公爵とカサンドラさんと同等の苦しみを、あいつに味わわせてやる」


 ジャスティンが珍しく拳を握って言う。それを見たカサンドラが、なんとも表現しがたい顔つきになった。


「ジャスティン様、お願いがあるんですが……」


「なんですか?」


「い、一緒にロバートを殴ってもらえますか。チャンスが来たら私、絶対に失敗したくないんです!」


 今度はジャスティンが目を丸くする番だった。カサンドラの顔に血色が戻ったのを見て、彼は「喜んで」と微笑んだ。


「ソフィーとカサンドラが殴りかかる前に、ロバートをしっかり弱らせておかないといけないわね」


 ミネルバもぐっと拳を握りしめた。自分もできることならロバートを力いっぱい殴ってやりたい。


「令嬢の手は、悪人と殴り合いをするようにはできていないからな。竜手の訓練に励んでいる君を除いて」


 ルーファスが優しい声で言う。


「だったら、俺が『正しい殴り方講座』を開きますよ。まず、手を握るときに親指は──」


 マーカスの即席講座がミネルバたちの気を紛らわせてくれる。そして馬車での移動はなごやかな雰囲気のうちに終わった。

 馬たちが頑張ってくれたおかげで、一時間もかからずにメイザー公爵のいる拘置所に到着できた。そこは牢獄よりは街の中心部に近い場所で、メイザー公爵は厳しい監視下に置かれている。

 出迎えてくれたのはルーファスが組織した医療チームの責任者だった。メンバー全員がジェムのように、特殊能力による健康被害の知識が豊富であるらしい。


「メイザー公爵はとても幸運ですよ。こういったケースでは、わけがわからないうちに命を落とすのも珍しいことではないのです。ルーファス殿下のご指示で、できることはすべてやっています。精神面に比べて、体の状態は落ち着いている。そうはいっても、弱りつつあることは否定できませんが……」


 メイザー公爵の部屋は一番広い個室だ。ミネルバたちが足を踏み入れると、公爵はベッドでうとうとしていた。


(たった一か月で、こうも変わってしまうなんて……)


 公爵の顔を見た途端、ミネルバは衝撃に襲われた。かなり顔色が悪いし、目の下には濃い隈が出ている。

 以前はなかった髭がかなり伸びていた。一分の隙もなく整っていた髪も、くしゃくしゃに乱れている。公爵の髪は栗の実のような色だが、半分以上が白髪になってしまっていた。

 それでもセリカに呪われたアシュランの国王夫妻よりはましだった。彼らの場合は、医学は素人のミネルバでも絶望的な状態にあることがわかったから。ルーファスの助けがなければ、公爵もそうなっていたかもしれない。


「お父様……」


 カサンドラがベッドの脇に膝をつく。公爵が目を開け、真っすぐに娘を見つめ返した。


「カサンドラか。また声が聞こえたよ。遠くのほうの、手の届かない闇の中から、ざらざらした声がするんだ」


 カサンドラは父親の手をぎゅっと握った。公爵が起き上がろうとする。聴診器をつけた医師が即座に介助に当たった。

 体を起こした公爵が、わずかに恐怖の浮かぶ目で周囲を見回す。


「ルーファス殿下、ミネルバ様。私はこれまでの非礼を、どうお詫びしたらいいのか……。その上ニューマンが、品性下劣なろくでなしであることも見抜けず……」


 どうやら深く恥じ入っている様子だ。ルーファスが重々しくうなずいた。


「非礼については、カサンドラ嬢から十分すぎるほど謝罪してもらった。そして罪のあるなしに関わらず、まずは貴殿が回復することが重要だと思っている。ミネルバの側にいれば、カサンドラ嬢は安全だ。いまでは翡翠殿が彼女の家だ」


「ありがとうございます。ミネルバ様がしてくださったことは、一生忘れません……」


 公爵は深々と頭を下げた。そしてそのまま頭を抱えてしまう。


「お父様、頭が痛いの?」


「ああ……よくこうなるんだ。頭ががんがんする」


 公爵が頭を上げる。ひどく顔色が悪くなっていた。おまけに下唇が震えている。


「声が聞こえるなんて、私はもうまともではないんだ。いまとなっては、以前の自分がまともだったのかどうかもわからない……」


 公爵の顔に、いくつもの感情が次々と現れた。最初に現れたのは怒りだろうか。そして苦悩に顔が歪む。悲しみが顔をよぎり、最後に諦めが浮かぶ。疲れた目が一層光を失って、心を閉ざしてしまったのがわかった。


「私がやったんだ。でも、何がやったのか覚えていない。私の意志などどうでもいい。いや、どうでもよくなどない……。私は認めなければならない。一体何を? いいから意志を捨てろ、その瞬間に身を任せろ……」


 公爵が話せば話すほど、どんどん支離滅裂になっていく。何かに取りつかれたような目をしている。どうやら急速に正気を失いつつあるようだ。


「いくつか検査します。スタッフの皆さんも、ミネルバ様たちも下がってください」


 壁際にいたアイアスが飛び出してきた。おじいさんたちも後に続く。ミネルバはカサンドラの肩を抱いて、邪魔にならない位置まで下がった。

 ひどく深刻な事態に陥っているようだ。いつも飄々としていたおじいさんたちが、かなり険しい表情になっていた。

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