2.皇家の一員として
「テイラー夫人、例の物をニューマンさんに」
ミネルバがさっと片手をあげると、テイラー夫人が「はい」と答えてニューマンを一瞥する。
夫人が書類を手に近づいてきたので、ニューマンが眉をひそめた。こちらの意図がわからないまま書類を受け取り「なんですかな」と低い声でぼそぼそと言う。
「報告書です。あなたが後見人として不適任だということを証明するために、必要な情報がすべて書いてあります。ひとつひとつ読み上げる気はありませんので、ご自分で目を通してください」
「じょ、情報?」
ニューマンの体がわなわなと震えた。
ミネルバは彼の心の声が聞こえたような気がした。いくら皇族とはいえ、たった四日で正確な情報を手に入れられるはずがない──そんな風に、自らに言い聞かせているのだろう。
一家の座っているソファーの後ろに人々が集まってきている。
ニューマンは体をひねってセルマー男爵をはじめとする着飾った男女を見まわし「散れ!」と叫んだ。
蜘蛛の子を散らすように人々が逃げたのを確認し、ニューマンが前に向き直る。しかしミネルバからは、モリッシー男爵が抜き足差し足で忍び寄ってくるのが見えた。
彼は間違いなく、盗み見た内容を控え室の外に漏らすだろう。ミネルバは少し考えて、ニューマンのために追い払ってやる義理はないと結論付けた。それもまた、ニューマンの行為にふさわしい報いだ。
「急いで集めた情報というのは、しばしば信用できないものですよ」
ニューマンはそんな強がりを言いながら、恐る恐るといった手つきで表紙をめくった。リリベスとサリーアンも、ニューマンにぴったりくっついて報告書を覗き込む。
しばしの沈黙が流れた。
読み進める三人が頬を赤く染める。冷や汗を拭い、動悸を鎮めるように胸に手をやり、歯を食いしばり──読み終わるころには、彼らはすっかり顔色を失っていた。
後ろから盗み見ていたモリッシー男爵が、下品としか言いようのない笑みを浮かべる。
「ご……誤認情報だ。でたらめだ。いわれのない侮辱だ!」
モリッシー男爵の視線に気づいたニューマンが、力任せに報告書を握りつぶした。しかし男爵は人がたくさんいる方へ去ってしまった。かなり足早に。噂話になるのは防ぎようがないだろう。
「う、うちの使用人がこんなことを言うはずがないっ!」
「驚くのも無理はありません。あなたは使用人を恫喝し、注意深く監視していたのですから」
控え室にミネルバの声が響く。威厳と落ち着きが満ち溢れた態度で、さらに言葉をつづけた。
「ジェイコブ・ニューマン。あなたが相手にしているのは、世界の陸地面積の三分の一にも及ぶ巨大な帝国を統治するグレイリング皇家です。私たちの勢力圏内で、私たちに知られずに済むことなど何ひとつないのです」
ミネルバは精一杯の威厳を込めて言った。人々をかしずかせる皇家特有の威厳が、己の姿からも滲み出ていたらいいのだが──そんな風に思っていたら、ニューマンが本能的な恐れを感じた小動物のように背中を丸めた。
ニューマンを容易ならざる状況に追い込んだ報告書には、カサンドラが非人道的な扱いを受けたこと、彼女個人の財産を浪費したこと、使用人たちが絶えず脅されていたことが詳細に書かれている。
さらにバルセート王国に滞在している諜報員が、伝書鳥ハルムを飛ばして追加の情報を送ってくれた。グレイリング帝国の情報伝達の速さには目を見張るばかりだ。
ニューマンが営んでいた宝石店が抱える、緊急に返済しなければならない借金問題。リリベスとサリーアンによる従業員へのいじめや嫌がらせ。その他にも、ニューマン一家に不利な証拠が大量に出てきた。
「あなた方の行いが、皇帝陛下と皇弟殿下の不興を買うのは明白です。遠からず、公正な決断が下されるでしょう」
「わ、私から後見人の権限を奪うと? そんなことをしても、私は公爵になるんだ。カサンドラに対して責任がある!」
「責任には誠実な行動が伴わなければなりません。あなたの振る舞いは決して容認できない。後見人として失格です。私はこれに関して、譲歩の気持ちなど持ち合わせておりません」
ミネルバはきっぱりと言った。
「こ、この娘の父親は罪を犯したんだぞ。他国に極秘情報を売ろうとしたんだ。グレイリングに対する反逆だ。あ、あんた、重罪人の娘をどうして庇護するんだよ!?」
「たとえそうだとしても、親の罪で子が苦しむことのない世の中でなければならないからです」
この場を支配しているのが誰であるかを知らしめるように、ミネルバはニューマンを睨みつけた。
「それにメイザー公爵の有罪は、まだ決まったわけではありません。多少なりとも血の繋がりがあるのなら、潔白を信じるべきではありませんか? それなのにあなたは、公爵が有罪になればいいと思っている。それを通り越して、有罪を確信しているようにも見えます」
「ぐ……っ!」
ニューマンが喉の奥が締め付けられたような声を出した。
彼の目が揺らいだのを、ミネルバは見逃さなかった。やはりこの男、何かを隠している。さらに人員を割いて、しらみつぶしに調査したほうがよさそうだ。
カサンドラを取り戻すというニューマンの野望は、粉々に打ち砕くことができた。もうお引き取り願ってもいいのだが、あとひとつ、どうしても伝えておきたいことがある。
「ニューマンさん。妃の庇護が滅多に使われないのは、どうしてだと思いますか?」
ミネルバは真っすぐにニューマンの目を見据えて言った。
ニューマンが「え?」と聞き返すまで、一瞬の間があった。何を聞かれたのかよくわからないという顔をしている。
「そ、それは……父親や後見人の権限を奪うような真似を、グレイリングの貴族が許さないからなのでは……?」
「そうではありません」
ミネルバは首を横に振った。
「先代のグレンヴィル様、当代のトリスタン様はもちろん、歴代の皇帝陛下や皇弟殿下が、女性の権利を尊重してきたからです。力を合わせて帝国を統治するパートナーとして、妃を愛し、敬意を払っている。皇家と帝国への忠誠心に溢れる貴族たちはそれを見習い、自分に未来を託してくれた妻や、生まれてきた娘を大切にしています」
実際グレイリングの皇家では、婚約破棄などただの一度も行われたことがない。どの夫婦もお互いを愛し、尊敬しあい、頼りにしあってきた。
「グレイリングは女性の権利に対して、世界で最も先進的な立場をとっていると言えるでしょう。土地や財産の所有が認められていますし、トリスタン様は女性の社会進出の推進派でいらっしゃいます。皇太后エヴァンジェリン様と皇后セラフィーナ様は、女性の権利を守る運動をしていらっしゃる」
妃は女性たちの見本だ。妃が夫と対等であれば、他の女性たちもそれに倣おうとする。
もちろん、誰もが幸せな結婚ができるわけではない。その場合グレイリングの女性は、自ら夫に離婚を突きつけるという、強くて勇気ある行動に出ることが多い。
「女性を物扱いし、不幸な暮らしを強いるような男性と結婚するという事態が、他国よりずっと少ないのです。だから妃の庇護は、あなたが言うところの『黴の生えた制度』になった」
ニューマンが冷水を浴びせられたような顔になる。リリベスは怯え、サリーアンは弱気になっているようだ。
「メイザー公爵家はグレイリングでも屈指の由緒ある旧家です。その家を継ぐということがどういうことか、あなたは全くわかっていない。傲慢な態度と、それに見合わない教養のなさが明らかになるばかり。高位貴族ほど、より厳しい基準で判断されるというのに」
ニューマンがぱっと顔を赤くする。
ミネルバは立ち上がった。ソフィーとカサンドラも後に続く。
「私の婚約者ルーファス殿下は、トリスタン陛下の御代をよりよくするために尽力しています。皇弟としての責務の重要性を認識しているからです。ですから私も、己の責務を決して怠りません。血の繋がりのある人間が守ろうとしないのだから、カサンドラのことは私が守る。何があっても妃の庇護をやり抜きますから、これ以上議論を続けてもあなた方に得るものはありません」
ミネルバの落ち着きぶりは、狼狽するニューマン一家とは見事に対照的だった。決意を込めた目で彼らを見つめ、最後の言葉をはっきりと告げる。
「さあ、出ていきなさい。選択肢はありません、これは命令です」