1.フィルバートからの接触
ミネルバは白馬の背に乗って、なだらかに起伏する丘を駆け抜けた。
「このアシュランで、お前ほど見事に馬を乗りこなす女はいないだろうな。久しぶりとは思えないほどすばらしい腕前だが、無理な飛ばし方をするんじゃないぞ」
「わかってるわ。私が勘を取り戻したら競争しましょう、マーカス兄さま」
並走するマーカスとともに、ミネルバは人馬一体となって走った。
フィルバートに婚約を破棄されてから、ミネルバは家にこもっていることがほとんどだった。だからこうして馬に乗るのは1年以上ぶりのこと。それでも三兄弟で一番上手に馬を操れるマーカスと、同じ速度を保つことができる。
馬に関する知識と経験は、父サイラスが授けてくれた。彼は素晴らしい教師だった。
上に立つ者は自分の足で領地を見て回り、土地の利点や弱点、人々にとって必要なものを把握しなければならない──というのが父の持論だ。
それは女であっても変わらない。だから父はミネルバを立派な王太子妃、そして王妃にするために、幼いころから馬の乗り方を教え込んだ。
アシュランは古い価値観の国なので、女が自由奔放に馬を操っていると眉をひそめられる。しかしグレイリング帝国の淑女にとって乗馬はたしなみのひとつだ。
霧が晴れたように前向きになり、人生の目標が見えてきたいま、娘に三兄弟と同等の馬術を仕込んでくれた父には感謝しかない。
「ミネルバ、少し速度を落とせ。後ろからコリンが追いかけてくる」
風と競争する気分で馬を飛ばしていると、大きな声でマーカスが言った。ミネルバが振り返ると、たしかに追いかけてくるコリンの姿が目に入る。
兄妹の中ではマーカスの牡馬が最も速い。その次がミネルバの愛馬である白毛のエディだ。コリンとジャスティンの馬も十分に速いが、先へ先へと進みたがるマーカスとミネルバの後ろから、余裕を持って乗馬を楽しんでいたはずだった。
ミネルバは愛馬の速度を落とし、落ち着いた常歩にして半回転した。
ひづめが土を蹴り上げる音がぐんぐん近づいてくる。固い表情をしたコリンが追いついてきて、ミネルバたちの前で手綱を引いて止まった。
「どうしたのコリン兄さま。もしかして、ジャスティン兄さまに何かあったの?」
ああ、と返事をしたコリンは盛大なしかめっ面になった。
「僕とジャスティン兄さんを、フィルバートが馬で追いかけてきたんだ。なにやらミネルバに話があるらしい。あっちの丘の下でジャスティン兄さんと睨み合ってる」
ミネルバは小さく目を見開いた。
「何の用かしら。まさかなんの前触れもなく、フィルバート本人がやってくるなんて」
妙な寒気を覚える話だ。またフィルバートと顔を合わせると思うだけで頭が痛くなる。
しかしアシュランにいる以上、好むと好まざるとにかかわらずフィルバートを避けることはできない。
隣にいるマーカスがちっと舌打ちをした。
「どうするミネルバ。俺たちの馬ならば、フィルバートを振り切ることもできるぞ」
「いいえ、やめておきましょう。彼が対面を望んでいる以上、いま引き延ばしてもまたやってくるに違いないわ。コリン兄さま、セリカは一緒ではないんでしょう? 彼女は馬に乗れないから」
「ああ、フィルバートと側近が2名だ」
「だったら、さっさと終わらせる方がいいと思う」
ミネルバはため息をついた。
いま身に着けている美しい緑色の乗馬服は、ルーファスからの贈り物の中に入っていた。長い銀の巻き毛を編んで、乗馬服と同じ緑色のリボンを結んでいる姿は、フィルバートではなくルーファスに見てもらいたかったのに。
(フィルバートが何を言ってくるか……内容次第ではルーファス様に連絡しなければならないわ)
ルーファスがバートネット公爵家を訪問してから、十日ほどが過ぎている。その短い間も、ミネルバは毎日のようにルーファスと手紙のやりとりをしていた。
彼は連絡手段として、特別な訓練を受けた『ハルム』という種類の鳥をプレゼントしてくれたのだ。ハルムは高度な知性を持っており、グレイリングでは皇族の使いとして活躍しているらしい。
「行きましょう、いつまでもジャスティン兄さまをひとりにしておけないわ」
マーカスとコリンが同時にうなずく。
フィルバートの馬が、彼を乗せてトゲだらけの藪にでも突っ込んでくれたらいいのだが、そんなことを期待しても仕方がない。
それにしても「フィルバートのいるところにセリカの姿あり」というほどベッタリくっついて離れない二人なのに、ひとりで会いに来るとは。ろくでもない話であることに変わりはないだろうが、妙に心に引っかかる。
しかし何があっても屈服しないし、恐れも怯えも見せたりしない。ミネルバはそう心に誓って、マーカスに続いて愛馬エディを襲歩で走らせた。




