1.それぞれの戦い方
カサンドラが翡翠殿で暮らし始めて三日が過ぎた。
もちろん、ニューマンは初日に面会を求めて押しかけてきた。ミネルバたちがジミーからの報告を受けた後のことだ。
ニューマンは緊急の用件だと言い張ったが、まずはテイラー夫人に対応してもらった。
宮殿を訪問する際は、前日までに予告するのがマナーだ。皇族にすぐに面会できるのは大変に名誉なことで、ごく少数の者にしか許されない。
カサンドラの後見人とはいえ、いち商人にすぎないニューマンには許されないし、許すつもりもなかった。
中央殿には面会のための併設施設があり、ニューマンはそこでかなりの時間粘ったという。すでに公爵気取りで、自分が波風を立てればテイラー夫人が考えを変えると思ったようだ。
ニューマンの行いは少々の無礼ではすまなかったようで──静かに激怒したテイラー夫人が守衛の騎士たちに命じて、力づくで追い払ったらしい。
誰であろうと無礼な真似をする人間を、夫人は許しておかない。結局ニューマンの面会日は、翌日どころか数日後に設定された。
父親に会いたいというカサンドラの願いは、二日目に叶えられている。昼夜を問わず謎の声に悩まされている公爵が、ちょうど眠りに落ちたタイミングだったそうだ。
カサンドラは公爵を起こすことを望まなかった。そして、やつれた父の寝顔を一時間眺めて帰ってきた。彼女にとっては生涯で一番嬉しい一時間だったらしい。
三日目までで、カサンドラは女官としての初歩の知識を身に付けた。テイラー夫人やソフィー、そしてミネルバから言いつけられた仕事を全力でこなし、少しでも早く新しい環境に慣れるよう努力を続けている。
ルーファスが心待ちにしている『専門家』たちの到着は、あと少し時間がかかりそうだ。彼らは特殊能力を高める『触媒』の探求のために、難破船が多く発見される絶海の孤島、人がほとんど足を踏み入れていない古代の遺跡、神秘的な地下洞窟の中などに姿を消している。
皇族の使いである、高度な知性を持つハルムという鳥が連絡役だが、呼び集めるにはどうしても時間がかかるのだ。
そして四日目の早朝──ニューマンの面会当日──ルーファスや兄たち、護衛と一緒に翡翠殿の壁の内側を二十周したミネルバを、カサンドラが目をぱちくりさせて眺めていた。
「ミネルバ様は毎日、こんな朝早くからトレーニングをしているの……?」
花壇の手入れのために屈んでいたソフィーが「ええ」と立ち上がり、両手を腰に当てて背筋を伸ばした。彼女は緑の手の持ち主で、エヴァンの『魔女の薬草』の栽培も手伝っているので、ミネルバに負けず劣らず早起きだ。
「自分の身は自分で守れるようになりたいんですって。ルーファス殿下が引き受けている、特殊能力に関する仕事は困難が多いから、身近で助けたいそうよ。エヴァンさんから呼吸法とか型を習って、一歩一歩努力して、どんどん強くなってるの。凄い人でしょ」
ミネルバが膝に手を当てて呼吸を整えていると、カサンドラの「本当に」というため息交じりの声が聞こえた。
早朝に走り込みをしているのは、速く、そして長く走れるならそれに越したことはないからだ。護身術を完璧にマスターしたとしても、屈強な男性相手にどこまで通用するかはわからない。
万が一ひとりでいるところを襲われたら、まず逃げることを考えるべきだし、一番近い仲間のところまで走った方がいい。
(かなり走れるようになったとはいえ、息も絶え絶えなのは私ひとりで、ルーファスもロアンも他のみんなも涼しい顔なんだけど)
ロアンは線の細い少年だが、まったく呼吸が荒くなっていない。ルーファスの部下としてかなり鍛えていることは察せられたけれど、それでも負けたくないと思う。
ルーファスたちも『触媒』を求めて、密林の奥地や砂漠地帯に行ったり、高い山に登ることがあるらしい。一緒に行くためにもっと鍛錬しなければ。
竜手の練習に入る前の柔軟体操をし、エヴァンの最高の手本を見ながらいくつもの型をこなす。竜手はゆっくりした動きながら、かなりの体力を要する運動だ。しかしほとんどの動きは反射的にできるようになった。
護身術の基礎である防御の構え──攻撃から頭や体を守る動きが、竜手にはすべて組み込まれている。正しい殴り方、蹴り方なども習得できる。無駄のない動きを習えば習うほど、ミネルバは竜手が好きになった。
組み手の練習も始めたが、しょっちゅう体と体が触れ合うので、相手はルーファスか兄たちと決まっている。ルーファス曰く、エヴァンやロアンが相手でも嫉妬してしまうから、だそうだ。
頬を染めながら可愛いことを言ってくれたのだが、ルーファスの指導は容赦がない。力のハンデを補うための動きを、ミネルバに徹底的に教え込もうとする。
それは彼が自分の身を案じているからだとわかっているので、ミネルバも積極的にトレーニングに励んでいた。
「よし、今朝はここまでにしよう。ミネルバ、今日教えた動きを忘れないように、部屋でもイメージトレーニングをしておいてくれ」
「はい。稽古をつけてくれてありがとうございました」
終了を宣言するルーファスに、ミネルバは息を弾ませてお礼を言った。訓練中は婚約者同士というより、師匠と弟子のような関係なのだ。
すっかり汗だくのミネルバに、タオルを持ったカサンドラが近づいてくる。
「ミネルバ様って本当に綺麗」
「え!? すっぴんだし汗をかいてるし、適当にまとめた髪はくしゃくしゃだし、兄さまのおさがりのズボンとシャツ、履き古したブーツっていう格好なのにっ!?」
いまの自分がどれほど令嬢らしくないか、ミネルバにはよくわかっていた。カサンドラが「それはそうだけど」と微笑む。
「それでもあなたは、私がいままで見た中で一番美しい女性だわ。普通の令嬢には決してできないこともやってのける、困難に屈しない人特有の美しさって言うのかしら」
「そ、そう?」
ミネルバは思わず苦笑した。必要に迫られたら──愛する人が見つかったら、カサンドラだってやってのけると思う。そう思いながら、受け取ったタオルで汗をぬぐった。
「男の人の格好をしたミネルバ様は、なかなか格好いいものね」
ソフィーが部屋に飾る摘みたての花を抱えて歩いてくる。
「でも、節度をわきまえた令嬢とは言い難い姿なのは間違いないわ。大急ぎで湯あみをして、髪を乾かして、ドレスに着替えなきゃ。今日はニューマンが面会に来る日なんだし」
ミネルバが答えようとしたとき「その通りです」という凛とした声が響いた。
「ここから先に必要なのは、美しく輝かしく立派な淑女の姿です。ヘアスタイル、メイク、ドレス、すべてを完璧に仕上げますよ。教育係としての私の手腕が問われるのですから」
建物の陰からテイラー夫人が出てくる。扇を揺らす彼女の後ろには、ミネルバがグレイリング入りしてから雇われたデザイナー、裁縫師、髪結師に化粧師がずらりと並んでいる。
彼女たちはミネルバだけではなく、なぜかソフィーとカサンドラも取り囲んだ。
テイラー夫人が扇を閉じる。彼女はその閉じた扇でミネルバたちの肩を順番に叩き──凄みのある笑みを浮かべた。
「さあ、女としての戦いの時間です」




