1.皇帝トリスタン
皇帝トリスタンの私室に入ると、温かい歓迎がミネルバを待っていた。
「おうミネルバ、お疲れさんだったな!」
「お腹を空かせているでしょう? それでなくても舞踏会の間は忙しくて、何か食べているところを見ていないもの」
マーカスが両手を広げ、手に大きなトレイを抱えたソフィーが明るい調子で言った。
安らぎの場所と愛する人たちを目前にして、ミネルバはその場にへたり込みそうになった。さすがにエネルギーが切れかけだ。
ルーファスがさりげなく背中を支え、座り心地のよさそうなソファに案内してくれる。醜態をさらすことなく、ミネルバは彼と並んでソファに腰かけた。
「さあ、まずはエヴァンさんの薬草で作った滋養強壮剤よ」
摩訶不思議な色合いの液体の入ったグラスを、ソフィーがテーブルに置く。
「ありがとうソフィー。エヴァンのレシピをすっかり覚えたのね」
「それだけじゃなく、改良もしているの。前のは草の香りがきつすぎたから」
ソフィーの言う通り、さわやかな匂いがあたりにたちこめている。ミネルバはグラスに手を伸ばした。前回これを飲んだのは、カサンドラが公爵令嬢を引き連れてソフィーを糾弾しに来た直後のことだ。
すべて飲み干すと、目の前が一気に開けた気がした。以前飲んだときは、即効性はいまいちだったのに。
「すごい、疲れがかなり吹き飛んだわ」
ミネルバが目をしばたたくと、ソフィーが「そうでしょう」と満足げな笑みを浮かべた。
「このドリンクを、あなたのためにいつも持ち歩けたらいいんだけど。難点は日持ちしないことなのよね」
そう言って笑うソフィーの目には優しさがあった。ミネルバへの思いやりも。カサンドラとの過去のいきさつを考えれば『妃の庇護』に対して複雑な感情を抱いているだろうに。
「念のため言っておくけれど、私は怒っていないから安心して」
何種類もの焼き菓子や果物、冷たいゼリー、ミネルバの大好きな甘いお茶をテーブルに並べながら、ソフィーが小さくつぶやく。
「あなたと心を繋げたルーファス殿下が、カサンドラの事情を筆記して教えてくださったわ。正直、個人的な恨みなんか通り越しちゃった。あの子が面と向かって『ごめんなさい』って言ってくれたら、お互いに刺激しあうことのできる女官仲間として受け入れるつもりよ」
「切磋琢磨できる同年代の仲間ってのは、いいもんだよな」
マーカスがソフィーの肩をぽんと叩く。
「ソフィーは女官としての自分の能力に自信を持っている。ミネルバのもとで自由に翼を広げて、真価を発揮している。カサンドラにとっては、頼りになる先輩になるはずだ」
ソフィーもマーカスも憤っている雰囲気は微塵もなく、妃の庇護という決断を受け入れてくれている。ミネルバは胸にのしかかっていた重しが取れたような気がした。
壁際に立っているテイラー夫人──ミネルバの教育係である厳格な老婦人──が閉じた扇の先を唇に押し当てる。
「ソフィーさんはスケジュール管理が上手です。カサンドラさんには語学の才能があるようですから、得意分野で貢献してもらいましょう」
この尊敬すべき立派な老婦人は、グレイリングでもっとも有名な淑女教育の専門家だ。ミネルバは毎日彼女から厳しい教育を受け、皇族の一員になるということの重みを実感している。
向かい側のソファーにゆったりと寄りかかったトリスタンが苦笑を浮かべた。
「こんなことになろうとは、というのが正直な気持ちだな」
そう言って磁器のカップを口に運ぶ仕草にも、威厳がにじみ出ていた。生来の気品と美貌はルーファスにそっくりで、腰まで届く長い黒髪が権力者としての存在感をいや増している。
「だが、ミネルバの決意と気概を否定するつもりはさらさらない。妃の庇護はよい決断だったと思う」
「本当にそうね。ミネルバさんは最初からやわなほうではなかったけれど、虐げられている令嬢を救いたいという岩のように揺るぎない熱意がある。優しくて、いつも人を気遣い、相手のために何が一番いいかを考えている。妃の庇護も、立派にやり遂げるに違いないわ」
トリスタンの隣に座る皇后セラフィーナがにっこりと微笑んだ。
「セラフィーナの言う通りだ。これほど勇気のある女性と一生連れ添えるなんて、お前は幸せ者だなルーファス。男冥利に尽きるというものだ」
ルーファスが美しい白い歯をのぞかせ、若者らしく笑った。
「ええ、兄上。私は幸せです」
ルーファスとトリスタンの兄弟愛はどこまでも深い。トリスタンが生まれながらに抱える病の問題やそれにまつわる政治の問題もあるが、彼らの絆は言葉ではとても言い表せないほど強いのだ。
「メイザー公爵はトリスタンの即位に積極的に賛成していなかったし、セラフィーナの実家であるブレスレイ公爵家とも仲が悪い。おまけにいまは拘留中だ。カサンドラの庇護者としては、たしかにミネルバが最もふさわしいな」
少し離れた場所に座っている先代皇帝グレンヴィルが言った。彼の横には皇太后エヴァンジェリンが、向かい合う席にはミネルバの父サイラス・バートネット公爵と母アグネスが座っている。
実の両親と義理の両親はすっかり打ち解けていて、リラックスしたムードの中で楽しげにお茶を飲んでいた。
「それにしても、あのご老体には困ったものだな」
トリスタンが椅子に背をあずけ、天井を見上げて苦り切った口調になった。セラフィーナが「リンワース子爵ね」と相槌を打つ。
「ああ。カサンドラとは祖父と孫ほども年が離れているではないか。若い美女を金で買って、田舎の屋敷に閉じ込めるのは何度目だ? もういいかげん、武勇伝どころか笑い物だぞ。一族全員の顔に泥を塗るようなものだ」
「今回はただの美女ではなく公爵令嬢よ。でっぷり太った老人が最高位の令嬢を囲い込んで、思いのままにするなんて……ぞっとするわ」
セラフィーナが顔をしかめた。
「カサンドラさんの誇りを傷つけ、辱める結婚話を持ってくるだなんて。後見人のニューマンというのは、禿鷹のような男ね」
「品行方正な人物とは言えないな。金のためなら何でもするつもりだろう。妃の保護のことを知ったら、ニューマンは直接的な行動に出るかもしれない。ルーファス、ミネルバ、宮殿の外に出たら、カサンドラは安全とは言えないぞ」
トリスタンの言葉に、ルーファスがすっと背筋を伸ばした。
「ええ。金があって道徳心が欠如した老人と、強欲な後見人の組み合わせは最悪だ。カサンドラを連れ去って、既成事実を作ろうとするかもしれません。そうなったら手の打ちようがないし、ミネルバのためにもそういった事態にだけはしたくない。立派に義務を果たす人間を、カサンドラの護衛につけましょう」
「そうだな」
トリスタンがなぜかにやりとした。
「護衛として、とてもいい人材がいるな。大変な剣の腕前の持ち主だし、醜聞で傷ついた令嬢の相手をするのにも慣れている。私は彼の知性に信頼を置いているし──うん、やっぱり『彼』を護衛隊長にするのが最善の道だな。カサンドラのために全力を尽くそうとするのは間違いない」
わずかな沈黙のあと、ルーファスが「ジャスティンですか」と苦笑した。
「その通り。実は前々から、ジャスティンとマーカスに、私の顧問官になってもらおうと思っていたんだ。ジャスティンの卓越した剣技、マーカスの洗練された体術は、本当に素晴らしいからね。マーカスは長期でいけるが、ジャスティンは立場的に短期しか無理だな」
トリスタンが楽しそうにそう言うと、ロアンと並んで立っているコリンが顔を輝かせた。
「兄たちを皇帝陛下の顧問官にしていただけるなんて、アシュラン王国にとって大変な名誉です!」
たしかに皇帝の顧問官は誰でもいいというわけではない。歴代の顧問官は、例外なく一芸に秀でている。属国の王太子だからという理由だけで、その栄誉を授けられはしないのだ。
「俺が……陛下の顧問官……」
マーカスが信じられないと言いたげに首を振った。
「君たち二人は前回の訪問時、私直属の騎士団員と手合わせをしただろう。ジャスティンは剣で、マーカスは拳で、我が国の精鋭たちをなぎ倒した。騎士団の連中からも、勝者に褒美を与えるべきだという意見が出ていてね」
やはり信じられないという顔つきだったソフィーが、状況を理解して手で口元を押さえた。きっと感動のあまり嗚咽が漏れそうなのだろう。
ミネルバも感激していた。ソフィーは宗主国の辺境伯令嬢で、マーカスは属国の公爵家の跡取り。婚約したとはいえ身分の差を思うと、マーカスがずっとコンプレックスを抱えて生きていかなければならないのは明白だった。
(よかった……。皇帝の顧問官という役職があれば、マーカス兄様の悩みはかなり軽くなる)
そういえば二人の兄が騎士団員たちと手合わせしたのも、カサンドラがソフィーを糾弾しに来た日のことだった。たった一か月弱で、こんなにも状況が変化するなんて。
「マーカスには、ルーファスの手伝いをしてもらいたい。メイザー公爵の調査は、細心の注意を払って対処しなければならない。あらゆることに警戒の目を向け、ルーファスとミネルバの身の安全を守ってほしい」
「はい。身命を賭して努力いたします」
マーカスが姿勢を正し、頼もしさを感じさせる声で答えた。
「ジャスティンは──いまここにはいないので、コリンに言うが。君の兄の理解力、交渉能力、社交術、そして剣術でもってカサンドラを守ってもらおうと思う。メイザー公爵とロバート、そしてガイアル陣営のクレンツ王国との関係を解明するのは、絡まった糸を解きほぐすようなもの。ルーファスが陣頭指揮をとって、少しずつ進めているところだ。その間、カサンドラは安全であることが望ましいからね」
「はい! 我が兄ジャスティンが、陛下を失望させることは決してありませんっ!」
「ジャスティンが不在にする間、アシュランのことはコリン、君に任せる。図書館の司書たちが褒めていたよ、君は素晴らしく優秀な人材だと」
「こ、光栄です……!!」
コリンが顔を真っ赤にして身震いしている。
アシュランの人々が、新しい王太子であるジャスティンが皇帝の顧問官になったことを好意的に受け止めることは間違いない。属国の人間にとって最高の栄誉なのだから、短期の不在は問題にならないだろう。
<トリスタン様はやっぱり、皇帝になるべくして生まれてきたような方ね>
どうしても気持ちを分かち合いたくなって、ミネルバはルーファスの手をそっと掴んだ。
<ああ。兄上を見ていると、いつも新しい面に感心するんだ。本当に素晴らしい人だと思う>
ルーファスがぎゅっと手を握り返してくれる。
この先どんな運命が待ち受けていても、ルーファスとトリスタン、こちらに残ってくれる頼もしい二人の兄がいれば、決して負けることはないに違いなかった。
久しぶりの更新となったので、今回は長めです。今後は1~2日おきくらいの更新頻度になるかと思います。もしかしたらそれ以上間が空くこともあるかもですが、なんか忙しいんだなと思っていただけましたら……!




