6.心を満たすもの
<そろそろ心の繋がりを切ろう。そっちの部屋の前まで迎えに行くから待っていてくれ>
<ありがとう。中央殿のお医者様と侍女頭に、指示を与えてから部屋を出るわ>
ルーファスと最後の会話をして、ひと呼吸してからミネルバは心の繋がりを切った。疲労感が押し寄せてくるが、それに屈せず笑顔を浮かべて、ジャスティンに医師と侍女頭を呼んできてもらう。
彼らは数分もたたないうちにやってきて、てきぱきとした動作でカサンドラの様子を確認した。
特に侍女頭は若い令嬢の扱いにも慣れているらしく、優しい目と落ち着いた声で世話をしている。しばらくの間カサンドラを任せるのに申し分のない人物だ。
病人食の話が出ると、カサンドラは表情を曇らせた。
お腹が減っていないわけではないが、いろいろありすぎて胸がいっぱいらしい。用意してもらっても食べ切る自信がないと、カサンドラは再び泣きそうになっていた。
「それでもスープだけは飲んだ方がいいだろうな。喉に優しくて栄養満点な……厨房担当者を呼んで、私が指示を出しましょう」
ジャスティンがにっこり笑う。ミネルバが小さいころから、彼は本当に面倒見がよかった。
自分の役目は終わったと判断して、ミネルバはエヴァンとともに部屋を出た。すぐに元気のいい足音が聞こえ、満面の笑みでロアンがやってくる。
ルーファスも大股で近づいてきた。完璧に鍛え抜かれた筋肉質でしなやかな体を、トレードマークの漆黒の衣装に包んでいる。
安堵のあまり体から力が抜け、ミネルバは思わず壁に手をついた。特殊能力を使うと体力を消耗する。頑張りすぎたつけが回り、空腹感と疲労に襲われていた。
めまいを感じたとき、ひょいとルーファスに抱き上げられた。がっしりしていて、広くて、すがり心地のいい胸に寄りかかって、ミネルバは満ち足りた息をついた。そして慌てて我に返る。
「ルーファス、歩けないほど弱っているわけじゃないわ!」
「いいや。あんなに長く特殊能力を使ったあとだ、疲れ切っていないはずがない。君の精神力の強さ、意志の強さが並大抵ではないとはいえ」
ミネルバをしっかり自分に引き寄せ、ルーファスはエヴァンを見た。
「エヴァン、ご苦労だったな。ミネルバの護衛はロアンに任せて、君はジェムのところへ行ってくれ。カサンドラの庇護にまつわる、諸々の手続きを進めるんだ」
「はい」
エヴァンが一礼して去っていく。
中央殿の使用人に見られたら恥ずかしいという気持ちが湧き上がるが、ルーファスの腕の中は温かくて気持ちがよかった。ミネルバは顔が赤くなるのを感じながら、ゆっくりと息を吸った。
「ミネルバ様、ご心配なく。廊下のこっちとあっちで、セスさんとぺリルさんが見張りをしてますから」
ロアンがいたずらっぽい笑みを浮かべる。彼が口にした名前はルーファスの護衛官たちだ。
なるほど、急いでルーファスの腕から抜け出す必要はないらしい──ミネルバは落ち着きを取り戻した。持つべきものは用意周到な婚約者だと、つくづく思う。
皇族の結婚準備期間は長く、挙式まで一年以上かかることもざらだ。世界に五つある大聖堂で祝福を受けなければ、正式な結婚許可が出ないのだ。
一か月近く前の婚約式でひとつ目の祝福を受けたが、先は長い。いつでも親密に触れ合いたいが、婚約期間中は決して慎みを忘れてはならない。
「この先に兄上のプライベートな空間があるから、そこへ行こう。君が腹を空かせているだろうと、ソフィーがあれこれ用意してくれている」
ルーファスがほほ笑みかけてくる。
「じゃあ、エヴァン特製のアロキャンディーは大事に取っておくわね」
ミネルバも微笑みながら答えた。
アロキャンディーというのは、魔女の血を引くエヴァンが作ってくれたお菓子だ。彼の故郷にしかないアロという豆が主原料で、非常に栄養価が高い。ルーファスからの贈り物でもあるそれを小さな袋に入れて、いつも持ち歩いているのだ。
ミネルバを抱きかかえたまま、ルーファスは廊下を進んでいった。
グレイリング帝国の宮殿には『中央殿』と呼ばれる半球形の大きな塔があり、そこからいくつもの翼棟が放射状に伸びている。
ルーファス専用の居住棟は『翡翠殿』と呼ばれ、皇帝一家と先代夫妻にも専用の翼棟がある。だが皇帝トリスタンは中央殿で過ごす時間が長いため、こちらにもくつろぐための部屋を用意している。
二つの扉を通り過ぎたところで、壁に飾られた芸術作品の雰囲気が変わった。飾られているのは無名の、だが才能の片鱗を見せる若手作家の絵だ。トリスタンの好みなのだろう。
三つ目の扉をくぐるとき、なぜかロアンがついてこなかった。閉ざされた扉を見ながら、ミネルバは小さく首をひねった。
「ロアン、どうしたのかしら」
「あいつもついに『気を利かせる』ということを覚えたのさ。少しの間だけだが、二人っきりだ」
疲労でさっぱり働かない頭で、ミネルバがルーファスの言葉の意味をようやく理解したときには、彼の顔が触れ合う寸前まで接近していた。
「この先の部屋で、温かい歓迎が君を待っている。空腹を満たせる。だがその前に心を満たすべきだし、そのためにはいまここで唇を寄せるべきだと思うんだが、どう思う?」
「非の打ちどころがないほど魅力的な提案だと思うわ」
ミネルバはそっと目をつぶった。唇に、ルーファスの熱い唇の感触を感じた。情熱的な口づけに息もつけなくなったが、気が付いたら「もっと欲しいわ」とおねだりしていた。
「君の望み通りに」
額に、頬に、唇にキスの雨が降ってくる。すっかり心が満たされて、最高の気分だ。いまの自分に必要なのはまさにこれだ、とミネルバは思った。
「兄上たちが言っていたな。婚約者時代は、いかにしてテイラー夫人の目をかいくぐるか、そればかりを考えていたと。物陰に隠れて、ひそやかな口づけや抱擁をしたそうだが、私たちもまったく同じだ」
ルーファスがこみ上げてくる笑いを抑えきれないような顔になる。
「口づけを交わすには似つかわしくない場所だけれど、そうせずにはいられないのね。衝動に駆られるという言葉の意味を、生まれて初めて知った気がする」
ミネルバはくすくす笑って答えた。そして自分から彼の唇にキスをした。
これから様々な困難が待ち受けていることはわかっている。それらを乗り越えるためにも、こういうひとときが重要なのだ。
「君を愛しているよ」
ルーファスが情熱を込めてささやく。心からの幸せに浸りながら、ミネルバも愛の言葉を口にした。
家族の体調不良のため、執筆時間を取りにくくなっております(涙)




