4.カサンドラの涙
「私は嘘偽りなく、カサンドラさんの力になりたいと思っている。生粋のグレイリング貴族、それも公爵令嬢であるあなたが、人生の主導権を私に明け渡すのは辛いでしょう。でも私は、あなたの信頼を勝ち取るために最善を尽くすわ」
ミネルバはカサンドラの反応をじっとうかがった。やはり激しく動揺しているようだ。
「ミネルバ様……。私、ここのところあまり食べていないせいで、とんでもない幻覚を見ているのでしょうか……?」
カサンドラが悲壮な顔つきで言う。ジャスティンは彼女を安心させるように微笑んだ。
「幻覚などではありませんよ。妹の女官になれば、宮殿で安全に暮らすことができる。不幸な結婚を無理強いされることもない」
「でも、私は社交界では嘲りの対象です!」
カサンドラが声を荒げた。彼女の瞳の奥には、不安の光が揺らめいている。
「まだ取り調べ中だけれど……貴族たちはお父様が、ロバートと結託して国家に対して卑劣な犯罪を犯したと思っている。私を庇護したら、ミネルバ様の評判まで落ちてしまうわ!」
「それは……もしもメイザー公爵の有罪が確定したら、ちゃんと償いをしなくてはならない。しかし親と子は切り離して考えるべきだ。それにカサンドラさん自身は、お父様が無実を信じているのでしょう?」
ジャスティンが椅子の脇でひざまずき、カサンドラの顔をじっと見つめる。しかし彼女は無理だというように首を振った。
「信じています。それでも私には、汚名がついてまわります」
カサンドラの目に涙が滲む。
「ああ。泣くのは誰にも見られないところでって、決めていたのに」
カサンドラはまばたきで涙を払おうとしたが、手遅れだった。溢れた涙が次から次へと零れ落ちる。
「ニューマンが私を利用する計画を、簡単に諦めるはずがないわ。絶対に宮殿に押しかけてくる。ミネルバ様とルーファス殿下に大変なご迷惑をかけてしまうに違いないし、社交界はその噂でもちきりになるわ。貴族たちはいつでも、面白い醜聞を追い求めているから」
その予想はカサンドラを裏切らないだろう──ミネルバ自身にも、アシュランでの不幸せな過去があるからよくわかる。
ミネルバはカサンドラから手を放し、ドレスのポケットからハンカチを取り出そうとした。しかしそれより早く、ジャスティンが真っ白いハンカチを差し出す。
「思いっきり泣けば気分がすっきりします。妹の申し出について考えるのは、そのあとでいい」
カサンドラはハンカチをおずおずと受け取って、目を押さえた。
<そういえば私も、ルーファスが初めてバートネット公爵邸に来た日に大泣きしたっけ。人前で泣くのは恥ずかしいことだと思っていたのに>
<私がいきなり求婚した日だな>
<ジャスティン兄様、あの日のルーファスみたい。優しく見つめられて、余計に涙が止まらなくなったの>
<ジャスティンがいてくれてよかったな。カサンドラは多分、感情をさらけ出すのが下手なタイプだ。だがジャスティンを前にすると、非常に人間らしく見える>
カサンドラは涙にむせび、ろくに口がきけなくなっている。ジャスティンは彼女が泣き止むのをじっと待っている。
長い沈黙が流れる。その間、ミネルバはルーファスと心で会話をしていた。ここから先はすべてジャスティンに任せたほうがいいだろう──そう話がまとまったとき、カサンドラが小さな声で言った。
「父は……ミネルバ様が皇弟妃になる事実に、反感を持っていました……。私も、です」
「知っています」
「ミネルバ様のことを快く思わない気持ちが、私の目を曇らせました。ルーファス殿下が私より地位が上の花嫁を選ぶのならば、まだ納得できた……。でも、婚約破棄歴のある属国の令嬢に惹かれるなんて……理解できなかった。グレイリングの公爵令嬢として、それは恥辱だったんです……」
カサンドラはすすり泣きながら言った。いままで心に押し込めていたものが、涙と一緒に溢れ出てきたらしい。
「我がアシュラン王国でも、似たようなことがありました。いきなり降ってきた異世界人セリカと、当時の王太子フィルバート様の運命の出会い。おとぎ話のような熱烈な求婚。彼女はフィルバート様の権力を利用するために近づいてきたし、実際に王家が築き上げてきたものを、浪費して失う寸前でしたが」
「そのような女性と、ミネルバ様がまったく違うことは……いまではわかっています。でもあのころの私は、ミネルバ様がグレイリング皇家の権力と莫大な富を利用するために、ルーファス殿下に近づいたのだと信じて疑わなかった……。大きな野心を持った、成り上がり者だと……」
「ミネルバは実際、成りあがり者です。グレイリング貴族の生まれじゃない。だからこそ、多くのことを学ばなければならない」
「本当に……素晴らしい方ですわ」
カサンドラが鼻をすすり上げる。
「本物の勇気をお持ちです。私がソフィーさんにしたことは間違っていました。その点は、非難されて当たり前です。私を庇護するなんて……そんな無理を通してもらうことはできません……っ!」
「そうやって反省を口にできるあなたも、本物の勇気をお持ちだ」
ジャスティンが穏やかな声で言う。
「私の妹は頑固で、いったん決断したら揺らぎません。そのせいで自分が不利になっても、後ろを振り返らずに努力する人間です。小さな頃は騎士になるのだと言って、男装して剣を振り回していたな。当時はなかなかの腕前でしたよ。あんまり板についているものだから、三番目の弟だと錯覚してしまうくらいで。とにかくもう、納得するまでやらないと気が済まないんです」
たしかにミネルバは、己の選択を後からとやかく言うタイプではない。ジャスティンが伝えたかったのはその点なのだろうが、心の中で叫ばずにいられなかった。
<ジャスティン兄様、それは持ち出さないでほしかった……っ!>
<不思議だな。男装している小さなミネルバの姿が、いとも簡単に思い浮かぶ>
<いえその。事実なんだけど、まったく間違ってないんだけど、ちゃんと女の子らしいこともしてたのよ?>
ミネルバは必死の思いで平然とした表情を保った。ジャスティンがさらに言葉を続ける。
「ただ……女官になれば、ルーファス殿下と頻繁に会うことになる。奪い取られてしまったものを見せつけられるのは、やはり辛いですか? その、あなたが殿下に恋心を抱いていたのなら……」
「いいえ!」
カサンドラは慌てたように首を振った。
「自分にほとんど見込みがないことはわかっていました。ルーファス殿下は私なんかに、まったく興味がありませんでしたし。ただ父が……私の生まれや経済状態に釣り合う夫は、殿下しかいないと思い込んでいて。皇族に嫁ぐこと以外は、たとえ夢の中でも考えることが許されなくて。私もできれば、父の望みを叶えたいと……」
「じゃ、じゃあ、殿下を男性として意識したことはないんですね?」
「はい。そういう感情って、まず話をしなければ抱けませんし。殿下とは公の場でご挨拶をする以外は、ほとんど話したことがありません。その……ジャスティン様との方が、よっぽど親しく話しています……」
「そ、そうですか!」
カサンドラが顔を赤らめる。ジャスティンも頬を染めた。
<女房の妬くほど亭主もてもせず、というやつだな>
<そう……なのかな?>
ミネルバは小首をかしげた。まあとにかく、恋愛的な意味でカサンドラから妬まれているということはないらしい。
涙ですっかり化粧が剥げてしまっているカサンドラを、ジャスティンは嬉しそうに、そして惚れ惚れと眺めていた。




