3.義務と権利
「宮殿内で休ませていただき、ご親切に感謝いたします。体のほうは十分に回復しました」
カサンドラが感謝の笑みを見せる。
「まさか屋敷に戻るつもりですか? あなたの体が休息を欲しているのは明らかだ。宮殿の医師も、あと二日三日は安静にする必要があると言っていたではないですか」
ジャスティンのしかめっ面が、彼が本気で心配していることを物語っていた。
「お気持ちはとてもありがたいのですが……私をここまで連れてきてくれた使用人の立場が悪くなってしまいますから」
「ニューマンから罰を受けるというわけですか。メイザー公爵家の使用人たちも、ずいぶん不幸な生活に耐えているようだ」
カサンドラが「そうですね」とかすれた息を吐く。
「もうすでに、帰宅時間には遅れています。でもいまならまだ、馬車が混んでいたと言い訳ができるわ。ニューマンはきっと、推薦状もなしに使用人を解雇してしまう。我が家に長年仕えてくれた者をそんな目にあわせるわけにはいきません」
毅然とした表情で立ち上がり、カサンドラは深々と頭を下げた。
「ミネルバ様、ジャスティン様。本当にありがとうございました」
「そんな……あなたを放っておけというんですか。上に立つ者としての責務を果たそうとする姿勢は立派だ。私だって同じ立場なら、自らの道義心を貫こうとするだろう。でも……わかっていることと、受け入れることは別だ」
ジャスティンが断固とした動きでカサンドラに近づき、両手で彼女の肩を抱いた。カサンドラは大きく目を見開いたが、ジャスティンのふるまいを咎める様子はない。
「帰っては駄目だ。ニューマンから精神的、物理的に離れられるよう、何とか手を考えますから」
「宮殿に留まっても、どうせ連れ戻されます。よそへ逃げても、ニューマンはどこまでも追いかけてくるでしょう」
カサンドラが淡く微笑む。その顔は、ジャスティンの側にいたいと言っているように見えた。
ミネルバの心の中に、ルーファスの驚いたような声が響く。
<短い時間で、互いへの信頼が芽吹いたようだな。しかし、この問題の解決法は……>
ミネルバの心に触れたことと、いままでの会話を聞いて、事情はおおよそ見当がついたらしい。
<ルーファス。私、リスクを冒すわ。カサンドラにはそうするだけの価値があると思うから>
<せめぎあう思いはあるが……君の意思を尊重する>
ルーファスが離れた場所で眉間にしわを寄せているのを感じた。
ミネルバは後ろに控えているエヴァンに視線をやった。彼が小さくうなずいたので、心が決まった。
<同情でも哀れみでもなく、共感。真の繋がりを求める気持ち。私は間違いなくそれを感じている>
ジャスティンとカサンドラは互いから目を離せないでいる。ミネルバが咳ばらいをすると、二人とも狼狽したように後ずさった。
「す、すみません。私ときたら、後先も考えずに……ご令嬢の体に断りもなく触れてしまった」
「わ、私は大丈夫です……ええと、ジャスティン様は、支えようとしてくださっただけで……」
「いえ、責めているわけではないの。ただ、ちょっと私の言葉に耳を傾けてほしいなって」
安心させるために言ったつもりが、二人は同時に顔を真っ赤にした。自分たちの世界に浸っていたことを指摘されたと思ったらしい。
<気まずい思いをさせちゃった……。この二人が、お互いに惹かれあっていることは明らかなんだけど。いまは難しくても、いつか事情が変わって結ばれる日が来てほしい……って思っているのは、まだ言わないほうがいいわよね>
<そうだな。新たな出発が可能になるかは、まだわからない>
ルーファスと心で会話をしながら、ジャスティンとカサンドラを交互に見る。感情を高ぶらせている二人を落ち着かせるように、ミネルバは穏やかな声を出した。
「今日の舞踏会の出席者全員の安全を図るのは、ルーファス様と私の責任です。ですからカサンドラさんには、宮殿で最高の治療を受けてもらいます。ニューマンがいくらわめこうと叱ろうと、あなたを宮殿から出しません。使用人が責任を問われることがないよう、ここにいるエヴァンを使いに出します。彼は私の護衛ですが、ルーファス様の直属の部下でもありますから」
カサンドラは信じられないと言いたげな面持ちでミネルバを見た。ジャスティンが「たしかに」とつぶやく。
「殿下の意向なら、ニューマンから一時的に逃げられる。その間に、永久に逃げる方法を考えれば……」
「そんな方法はありませんわ。私が完治したら宮殿に乗り込んできて、後見人としての権利をはっきりさせるはずです。下手をしたら、誘拐だと吠え立てるかもしれません。ルーファス殿下とミネルバ様が、迷惑をこうむることになってしまいます」
カサンドラの青白い顔に汗が浮かんでいる。ミネルバは彼女に向って手を伸ばした。椅子に座らせ、自らは前かがみになって目と目を合わせる。
「方法はあるわ。自活できるだけの収入と住む場所を、いますぐに手に入れられる方法が。あなたは己の人生を支配しようと目論む者から逃げられる。私が……特別な権利を行使すれば」
「特別な権利?」
ジャスティンとカサンドラが同時に声を出した。ミネルバはうなずいた。
「そう、皇后や皇太子妃、そして皇弟妃だけに許された権利。あなたにはわかるわよね、公爵令嬢として申し分のない教育を受けているのだから」
「まさか『妃の庇護』のことを言っているの?」
カサンドラが体を硬くした。
初めて聞く言葉に意表を突かれたのか、ジャスティンは混乱したようにミネルバを見て、それからカサンドラに視線を移す。
「その、妃の庇護というのは?」
「何百年も前に作られた制度です。滅多に使われないから、知っているのは皇族の事情に通じているひと握りの人間だけではないかしら。昔、結婚を無理強いされた公爵家の令嬢が、当時の皇太子妃に必死で保護を求めたの。お妃様は令嬢の庇護者となって、父親や夫から守り抜いた。皇太子も皇帝も、彼女たちを無理に従わせることはできなくて……ついには妃に敬意を表して、令嬢を奪い返そうとする輩を諫めたそうです」
カサンドラの言葉を引き継ぐように、ミネルバは口を開いた。
「その公爵令嬢は、宮殿で初の女官になったの。彼女は不幸な結婚をせずに済んだわ。そして『妃の庇護』は制度として確立した」
「つ、つまり、カサンドラさんをお前の女官にして、庇護するということか? 後見人よりも、さらに強い権利で」
ジャスティンが問いかけてくる。ミネルバは「ええ」と答えた。
「これは妃に与えられた正当な権利。使う機会があるのに行使しないなんてありえない。皇弟妃になるからには、義務を果たさなければならないわ。私と同年代の令嬢は、私が守らなければ。カサンドラさんが助けを求めてくれるなら──役目を放棄するつもりはないの」
それは本心からの言葉だった。ミネルバは深呼吸して、カサンドラの震える手に自らの手を重ねた。