2.心の援軍
「せめて母が生きていてくれたら。忌まわしい病気が兄の命を奪わなければ。祖父母と、叔父と従弟たちまで相次いで亡くなって、私のことを心配してくれる家族は誰もいなくなってしまった……」
カサンドラが静かに言った。
「遠い親戚──ジェイコブ・ニューマンと妻のリリベス、娘のサリーアンは、お父様が拘留されて大喜びなんです。ニューマンよりも血の繋がりが遠いけれど、優秀な男の子を養子に迎える直前のことでしたから。最高の住まいに最高の食事、最新の馬車や大勢の使用人を手に入れて、有頂天になっています」
「後見人の立場にある人間だから、保護者として法的な権限があるにしても。いきなり乗り込んできて財産をすっかり牛耳るとは、なんと卑劣な……」
ジャスティンは動揺している。怒りに駆られてもいるようだ。ミネルバ自身も、震えが走るほど腹が立っていた。
どんなに不愉快で嫌な人間でも、よその家の事情に他人が口を挟む権利はない。後継ぎとして生まれたわけでもなく、そのように育てられてもいない人物が爵位を継ぐことは、ままあることだ。
「私は父が無罪であると信じていますが、恥をさらしたことに変わりはありません。これ以上メイザー公爵家の名に傷をつけるわけにはいかないと、父はニューマンに爵位を譲るつもりでいるようです」
カサンドラの言葉に、ジャスティンが息をのむ。
「なんてことだ、正気の人間の考えることじゃない。話を聞いただけでも、ニューマンが善人と呼べるような男ではないことがわかるのに」
「ニューマンもリリベスもサリーアンも、父の前ではいい人みたいで。優しくて思いやりがあって、心から私のことを気にかけている演技をしているようなんです」
「あなたはお父様の面会に行っていないのですか?」
「彼らが乗り込んできて以来、屋敷は監獄と同じです。私は閉じ込められていて……手紙のやり取りすら禁じられています。この舞踏会に出席できたのは、ニューマンがまだ爵位を継いでいないから。メイザー公爵家から一人も参加者を出さないのは大変な無礼であると、必死で説得しました」
小さく罵り言葉を口にして、ジャスティンは頭をかきむしった。
「後見人は大きな権力を持っているから、誰も口出しできないとはいえ……酷すぎる。私にしてあげられることはないのかっ!?」
「ジャスティン様はお優しい方ですね。だからでしょうか、私ったらぺらぺらと喋ってしまって。舌がまるで自分のものではないみたいな感じで……いつもはなんでも自分で抱え込んでしまって、父や侍女からたしなめられるのに」
長いまつ毛に縁どられた茶色の瞳で、カサンドラはじっとジャスティンを見つめている。
ミネルバは彼女のドレスに目をやった。サイズ直しをした形跡がある。体重が落ちてぶかぶかになってしまったのだろう。
父親が拘留されたストレスを考えれば、やつれるのも無理はないだろうと思っていたが──我が物顔にふるまうニューマンとその妻子から、食事まで制限されていることは明らかだ。
彼らは大層なご馳走を食べながら、カサンドラには粗末なものしか与えていないのだ。それなのに彼女はまったく品格を失っていない。静かな絶望と諦めは感じられるけれど。
(よその家の問題だからと、このまま彼女を帰してしまっていいの? 公爵令嬢の名誉が踏みにじられているのに?)
ニューマンに口頭で注意したとしても、よけいに上手く隠すようになるだけだろう。令嬢が法的な権限のある後見人から自由になるには、結婚するしか手はないのだ。
だがリンワース子爵に嫁いでも幸せになれないことは、十分すぎるほど見通せる。若さと美しさだけを求める老人に、カサンドラの才能を活かすことなどできるはずがない。
(でも今日、運命はカサンドラを私たちの元に導いた。私にできることは? 彼女の人生をいますぐに立て直す方法は?)
ミネルバはこの状況にふさわしい解決策を求めて頭をフル回転させた。
ジャスティンはこちらが驚くほど真剣な目をしているが──アシュランの王太子が、後見人の許可なくグレイリングの公爵令嬢を連れ去れるはずもない。
無意識に胸元に手を当てる。そして、ペンダントがじわじわと熱を発しているのに気が付いた。
それはミネルバのお守りで、プラチナの鎖に小瓶がぶら下がったものだ。中には砂が入っている。
婚約を神と祖先に報告するためにそれぞれの故郷の砂を混ぜ合わせ、神官長からも祝福を受けた特別な砂だ。千里眼と結界を同時に発動するための『触媒』にもなってくれる。
左手でペンダントを握りしめると、薬指に嵌ったトパーズの婚約指輪まで熱を帯びてくるのを感じた。
その燃え立つようなエネルギーは、ルーファスがこちらに呼びかけていることを示している。彼もまた、同じペンダントをずっと胸につけているのだ。
(きっと心配しているのね。私が落ち着かない気分になっていることが、ペンダントを通して伝わったんだわ)
心配をかけたくないという気持ちの一方で、ルーファスが自分のことを気にかけてくれていると思うと嬉しい。
ルーファスのほうから心を繋げることはできないから、彼の心へ通じる扉をわずかに開いて呼びかける。
<ルーファス>
<ミネルバ、君の身に何かが起きたんじゃないだろうな?>
<違うわ、私なら大丈夫。でもいまは、心の深いところで触れ合えない。私の混沌とした感情が、あなたの心を揺さぶってしまうもの>
ルーファスは誰よりも深く強くミネルバと繋がれるだけに、こちらの感情の波がすべて彼に向って押し寄せてしまうのだ。
<私の精神状態なら心配しないでいい。君が体力を消耗して弱ってしまうことは心配だが、繋がったままでいた方がいいような気がする。私にも関わりのあることで悩んでいるんだろう?>
たしかにグレイリングの公爵令嬢の名誉は、皇弟であるルーファスにも関係のある話だ。
特殊能力は使いすぎると、回復するのに時間を要する。ミネルバの場合は対象との距離が離れているほど疲弊する。それでもルーファスと繋がっていると、気持ちが落ち着いてくる。
<そうね。これから私が話すことは……ルーファスにも聞いていてほしい。扉をすべて開くから、心の準備をして>
<わかった>
目に見えない、感じ取れない、触れることもできない心の扉。全神経を集中し、触媒であるトパーズと砂の力を借りて、ミネルバはゆっくりと扉を全開にした。ルーファスのぬくもりが全身に広がっていくような気がする。
ミネルバの感情が一気に流れ込んだに違いないのに、ルーファスは微塵も揺らいでいない。本当に深く繋がっているので、ここから先は彼も同じものを見て、同じ声を聞くことになる。
この場を取り仕切るのは自分の役目で、カサンドラの問題を解決することも──恐らく自分にしかできない。そのためには心を強く持たなくてはならず、型破りな方法でルーファスと繋がれることを、ミネルバは神に感謝した。




