1.同情と共感
ミネルバが客間に足を踏み入れると、カサンドラは立って待っていた。顔はなおも蒼白で、ベッドに横たわって安静にする必要がありそうだが、並外れた自制心で背筋を伸ばしているのだろう。
(無理をしないで、と言うのは簡単だけれど。ここで同情や哀れみの言葉をかけて、彼女の必死の努力を台無しにするのはやめよう)
ミネルバは瞬時にそう決めた。
カサンドラはいま、グレイリングの公爵令嬢として誰よりも強くあろうとしているに違いない。こちらも普段通りの、冷静な態度を保つほうがずっと思いやりがあるだろう。
ミネルバは落ち着いた態度でカサンドラの前に立った。そして真っすぐに彼女と目を合わせる。
病人への労りを放棄した人間では断じてないが、先に口を開くことはしない。すでにミネルバはカサンドラよりも格上なのだ。誰にでもいい顔をしようとしてルールを破るつもりはなかった。上下関係に個人的な感情は関係ない。
そしてカサンドラはきっと、誰よりもそれを知っている。
「ミネルバ様、お会いできて光栄に存じます」
カサンドラが礼儀正しく膝を曲げてお辞儀をした。少しふらついたが、しなやかで優雅な動きだ。青ざめた顔の周りで豊かな赤い巻き毛が揺れる。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。どんなお叱りも受ける覚悟です」
「気にする必要などありませんよ。どんな人でも体調を崩すことはあるのですから」
ミネルバは笑みを浮かべ、落ち着いた態度で椅子に座った。
こちらが「座ってください」と言うのを待って、カサンドラも腰を下ろす。崩れるように座り込んだものの、彼女はすぐに姿勢を正した。
やはり同情されたくないのだ。まったく同じではないけれど、一人前の淑女になるために厳しくしつけられ、ありとあらゆるレッスンを受けてきた者同士、その気持ちには共感できる。
「気分はどう?」
「かなりよくなりました。ありがとうございます」
カサンドラの返事が嘘なのは明らかだったが、ミネルバは「よかった」とうなずいた。
「ジャスティン様にも大変お世話になりました。心から感謝しています。私など一緒にいて楽しい相手ではないでしょうに……惜しみなく親切にしてくださって」
「長兄は穏やかながらも、かなりの頑固者なの。彼がそうしたいなら、誰も止められない。やりたくてやったことだから、気にしないで」
カサンドラが顔を赤らめ、不思議なほど穏やかな目で壁際を見た。
そこに静かに立っているジャスティンの顔に、様々な感情が浮かぶ。緊張、憂い、そして一瞬ではあったが喜びが。見つめあう二人の様子はどこか、特別だった。
「本当に……感謝しています。とても。私は今日、ミネルバ様とソフィーさんに謝罪するために来たのです。この舞踏会が最後のチャンスになるだろうから、逃したくなくて」
カサンドラがミネルバに視線を移し、ゆっくりと立ち上がった。
ジャスティンは『最後のチャンス』という言葉に、明らかに驚いた様子で目を見開いている。
「私のしたことは愚行としか言いようがありません。ソフィーさんを責めるしか手がないと思い込んで、卑怯極まりない真似をしました。心からお詫び申し上げます」
そう言ってカサンドラは深々と頭を下げた。
「私はリンワース子爵のところへ嫁ぐことになりました。子爵はご高齢で、療養とリハビリのために領地にこもっていらっしゃいます。結婚後は私も帝都に出てくる機会はないでしょうから、今日を逃したら……一生後悔すると思って」
カサンドラは笑顔だが、握り締めた両手を関節が白くなるほど強く握り締めている。
ジャスティンが何かをつぶやいて天を仰いだ。きっと無慈悲な神を恨む言葉だろう。
「私も後悔すると思うから、ここからは本音で話しましょう」
ミネルバはすっくと立ち上がった。カサンドラに近づき、ためらわずにその背中を支える。
「あなたの謝罪を受け入れます。だから座って」
「ミネルバ様……」
「聞きたいことがたくさんあるの。ああ、最後まで落ち着いた態度を保つつもりだったけれど、自制心がどこかへ吹き飛んでしまったわ」
ミネルバは怒りの波に襲われていた。その強さは、めったに経験したことのないようなものだった。
「メイザー公爵家には直系の男子がいないわよね。あなたが嫁いだら、称号は遠い親戚のものになる。その未来の跡取りが、あなたの嫁入り先を決めたの? 祖父ほど年の離れた相手に?」
「あなた……もしかして私のために怒っているの?」
カサンドラは目をぱちくりさせた。よほど驚いたのか敬語が崩れている。
ミネルバは「わからない」と答えた。
「溜飲を下げるべきなのかもしれない。安堵を感じるべきなのかもしれない。でも、湧いてくるのは腹立たしさだけなの」
「変わってるって言われたことない?」
「兄たちからは、頑固だと言われるのと同じくらい何度も言われてるわね」
椅子に座ったカサンドラが「本当に変わってる」とぼそりと言った。
「でも……ありがとう。あなたは最初から私を憐れまなかった。下手な慰めも言わなかった。高慢でもなければ卑屈でもなく、自然体でいてくれた。社交界の誰もが異様なほど態度を変え、悪評のある人間とは関わり合いになりたくないと去っていったわ。謝罪するために来たけれど、同情されるのは……やっぱり嫌だったの」
ミネルバを見上げて、カサンドラが淡く微笑む。
「きっとあなたは同情ではなく、共感してくれているのよね。素敵な女性だわ。ルーファス殿下に申し分なくふさわしい。ジャスティン様も、私の感情や立場を考えてくださった。私に労力を費やしても意味がないし、何の得にもならないのに」
カサンドラは少しうつむき「来てよかった」とつぶやいた。
「リンワース子爵との結婚話はもう、私の力では何も変えられないの。ずっと外国にいて、会ったこともなかった親戚だけど──彼は私のことを、自分が受け継ぐべき資産のひとつとみなしている。お父様がしでかしたことで社交界の人々からは距離を置かれているけれど、まだ罪が確定したわけではないわ。だからいますぐに嫁がせたいのよ。持参金が必要ないどころか、高額の支度金をくれる相手に」
「強欲で見下げ果てたやつだ」
ジャスティンが唇を歪める。
「でも、私にはそれを受け入れてやっていくしか……ほかに道がないんです。その親戚が私の後見人だから。一家で屋敷に乗り込んできて、財産はすべて取り上げられてしまいました。だから今日も、古いドレスで来るしかなくて。せめて髪だけでも結おうかと思ったけれど、侍女まで奪われてしまったから……」
「なんてこと。あなたを守るべき人たちが、そんなことをするなんて」
ミネルバは奥歯を嚙み締めた。
メイザー公爵が罪を犯したのだとしたら償いをすべきだし、家族がそのために辛い思いをすることはあるだろう。
しかし親戚の行いは、完全に不適切なものだ。カサンドラに襲い掛かっている事態は、ミネルバの経験の範囲をも超えている。
カサンドラはおそらく、父のために嫁ぐのだ。そんな親戚なら、メイザー公爵のための弁護士費用はおろか、拘留中の差し入れにかかる金すら惜しむだろう。彼女は高齢の子爵に嫁ぐことで、それらの費用を賄おうとしているに違いない。
このまま彼女を屋敷に戻したら絶対に後悔する──それだけは間違いがなかった。




