6.ミネルバの気持ち
それからの時間はあっという間に過ぎ、締めの乾杯のグラスが貴族たちの手に行き渡った。
「今日は私たちの婚約を祝うために集まってくれてありがとう。皆と共に素晴らしい時間を過ごせたことを、心から嬉しく思う。グレイリング帝国にさらなる繁栄がもたらされるよう、私とミネルバ、そしてここにいる皆で一致団結し、我が兄トリスタンを支えていこうではないか」
深くて力強い声でルーファスが言う。ひたむきで真面目な彼は、有り余る力をトリスタンを支えるために使っている。
ミネルバは背筋を伸ばし、礼儀正しい笑みを浮かべた。お腹に力を入れて、未来の皇弟妃として威厳のある声を出す。
「皆さん、グラスを掲げてください。グレイリングの素晴らしい皇帝トリスタン様、賢明なる皇妃セラフィーナ様、そして未来の皇帝レジナルド様に乾杯しましょう」
「グレイリングの平和と、我が兄トリスタンの治世に、乾杯!」
ルーファスがグラスを掲げる。
「グレイリングの平和と、皇帝陛下の治世に、乾杯!」
ミネルバと貴族たちが唱和し、グラスを掲げて口に運ぶ。それから人々は様々な言葉で皇族に賛辞を贈った。ルーファスとミネルバの婚約を祝う言葉も大広間中に溢れている。
皇弟であるルーファスと、いずれ妃となるミネルバの全うすべき役目はトリスタンを支えること。自分たちの忠誠心が筋金入りであること、何かあれば全力で皇帝一家を助けるという決意を、国中の貴族たちの前で示すことができた。
(さあ、次はカサンドラと正面から向き合わなくちゃ……)
貴族たちのいとまごいの時間となり、ようやく長い一日が終わろうとしている。
しかしデメトラの起こした騒動と、ジャスティンとカサンドラが消えたことへの説明を求めるたくさんの顔が見える。実の両親と義理の家族だ。
「ミネルバ、説明は私が引き受ける。君はジャスティンのところに行っておいで。エヴァン、彼女を頼んだぞ」
ルーファスが穏やかな声で言う。大人数で押しかけたらカサンドラがどう感じるか、ちゃんと想像できる人なのだ。
「ありがとうルーファス」
ミネルバは躊躇しなかった。護衛のエヴァンを連れて、皇族だけが使える扉に向かう。好奇心旺盛なロアンも当然のようについてこようとしたが、ルーファスが手で制した。
「ミネルバ様。カサンドラ嬢は医師による診察を受けた後、より安静にできる客間に移されたそうです」
エヴァンの言葉にうなずいて、ミネルバは宮殿の客間に足を向けた。
きびきびとした足取りで廊下を歩く。エヴァンはミネルバの歩調に合わせ、足音を立てずに歩いている。
「緊張していらっしゃるようですね」
エヴァンの優しい声に、ミネルバは感情を隠そうとはしなかった。エヴァンは己の身を守ってくれる人であり、護身術の師匠でもある。
「そうね。私の中にも、意気地のない部分があるみたい。元々臆病な性格ではないし、そう簡単に怖気づくタイプでもないのだけれど。カサンドラはやっぱり、一番強く意識してしまう女性なのよ」
「たしかにグレイリングの社交界では、動かしがたい存在感のある女性ですね。序列一位の公爵家に生まれた、美しく知的で近づきがたい、すべてにおいて完璧な令嬢……こうして言葉にしてみると、ミネルバ様と彼女の生まれ育ちは奇妙なほど似ている」
「ええ。宗主国と属国という、出自の大きな隔たりはあるけれど。もしかしたら……カサンドラのことを、私以上によく知る人間はいないのかもしれない。敵ではなく友人になれる気がするの。私には彼女のことがわかるから、彼女も私のことをわかってくれるんじゃないかって。あくまでも勘なんだけど」
「ミネルバ様の勘はよく当たりますから」
エヴァンがほほ笑む。ミネルバは「でも」とため息をついた。
「今回ばかりは自信がないわ。自分がおごり高ぶっていないか、心配になることがあるの。自分の意見や希望、願いを叶えるために、無意識にルーファスの権力を笠に着ていないかしらって」
どんなものとも闘う覚悟はできているし、降参などしないと決めている。
属国の令嬢が宗主国の皇族になることは、おとぎ話のようなもの。だからこそ精一杯生きるつもりだ。グレイリングに益をもたらす存在になれるように。
でも、ひそかに不安になることがある。
「ねえエヴァン、お願いがあるの。私が自分の考え以外、何も目に入らなくなったら──無意識に人を傷つけてしまったら、諫めてほしいの」
おとぎ話のお姫様たちのお話は、王子様が現れて終わる。
しかしミネルバは、問題が起こるたびにルーファスを待つわけにはいかない。カサンドラをはじめとする公爵令嬢たちとの心のしこりは、ミネルバ自身が解決するべき問題だ。
「自分だけなら、どう思われようと気にしないけれど。私が調子に乗れば、ルーファスの評判を犠牲にしかねない。高慢な人間になっていないか、護衛と同時に観察していてくれないかしら」
「私の主は、なんと素晴らしいのだろうとつくづく思います。ルーファス殿下は正しい相手をお選びになった。ミネルバ様はもう十分、皇弟妃としての資質を備えていらっしゃる」
エヴァンはそう言って、若草色の瞳をミネルバに向けた。
「観察の件、しかと承りました。あなた様からそれほど信頼されていると思うと、喜びがこみ上げてきます」
「ありがとう。公爵令嬢であること以外に私たちに共通点はないし、ジャスティン兄様と彼女のオーラの相性がいいことも、溝を埋める助けにはならないわ。第一、いきなりそんなことを持ち出すのは失礼だもの。宗主国の皇弟妃になる私から、属国の王太子をお相手として薦められたら……底意地悪く見下しているように思われかねない」
「ジャスティン様は立派なお方です。グレイリングの貴公子にもまったく引けを取りません」
ミネルバは歩き続けながら「それは私もそう思う」と答えた。
「でも、実際はいろいろと難しいわ。メイザー公爵が拘留されて、さらに厄介なことになっているから。カサンドラが、私やジャスティン兄との相関図のどこに位置することになるのか……それは今後の調査次第だわ。やっぱり、オーラだけで決められることじゃない」
ジャスティンもそのあたりの分別は働かせているだろう。なにしろ彼は、生まれ変わったアシュラン王国のために、体を張って働かねばならない王太子だ。
「それでもまずは、ごく自然な態度で彼女に会うべきだと思う。まだ何もわかっていないのに、決めつけるのは早すぎるもの」
ついに客間の扉の前に到着した。エヴァンから伝授された竜手の呼吸をして姿勢を正す。
カサンドラからどんな反応が返ってきても、すべてをありのままに受け入れる──ミネルバはそう思いながら、エヴァンが扉をノックするのを見守った。