4.老婦人の作戦
「彼女、どうやら体に異変が生じているようだ。父親が拘留されてから、何日もろくに食事や睡眠をとっていないんだろう」
ジャスティンの言葉に、マーカスが不思議そうに首をひねる。
「そこまで大変な状態には見えないがなあ……」
コリンがうなずき、カサンドラに目をやった。
「うん。周囲のひそひそ話や、くすくす笑いがもたらす苦痛は耐えがたいだろうし、堂々としているのは相当な苦行だろうけど。非の打ちどころのない、見事な立ち居振る舞いだよ」
たしかに背筋を真っすぐに伸ばしているカサンドラは美しかった。凛とした顔に、一分の隙もない完璧な化粧が施されている。
身に着けている鮮やかな赤のドレスは大胆なデザインで、襟ぐりが深く開いている。赤い巻き毛がむき出しの肩にかかり、胸元を飾るルビーのネックレスが一層彼女を引き立たせていた。
ちなみに今シーズンは、ミネルバが流行らせたアシュラン王国風のクラシカルドレスが主流になっている。慎み深い襟ぐりと、手首までの長さの袖が特徴で、若い娘たちはみな似たような仕立てのドレスで着飾っていた。
そして最新流行の髪型は、ミネルバがブームの火付け役となったアップスタイル。カサンドラの装いはその真逆なので、あり得ないくらいに目立ってしまっている。
「抜群にオーラの相性がいいからですよ。相手のことを自分の一部のように感じてしまうから、心の奥に隠しているものがわかるの。相手が弱っているときは特に」
デメトラがにっこりする。ルーファスが「私にも覚えがある」とつぶやいた。
「ミネルバに初めて会ったときに感じたんだ。この女性は心の奥に、大きな痛みを隠していると」
ミネルバは小さく笑った。
「あの日のルーファスの、労りの気持ちが浮かぶ目をよく覚えているわ。家族以外の誰かに気遣われるのが久しぶりすぎて……あの嬉しさは、言葉にできないほどだった」
互いに視線をかわし、それから同時にカサンドラを見る。
「私たちが行動を起こせば、状況をがらりと変えられるけれど。彼女のプライドをずたずたにしてしまうかもしれない」
「ああ、問題はそこだ」
この舞踏会には、国内の要人という要人がすべて集まっている。
もし自分たちが主役でなかったら、カサンドラの様子にすぐ気付いただろう。あまりに忙しすぎて、こうして歓談の時間になるまで彼女を窺えなかったことが悔やまれる。
気付いてしまったからには放ってはおけないが、彼女にとってミネルバは分不相応に出世した憎い相手だ。たとえ善意でも迷惑に感じるに違いない。
「ルーファス殿下とミネルバ様が、自ら事を処理する必要はありませんわ。貴族たちの関心の矛先を変えるには、この私が騒ぎのひとつも起こせば十分」
デメトラが椅子から立ち上がった。誰にも有無を言わせぬ威厳と迫力がある。
「さあ、世話焼きおばさんの本領発揮ですよ。私は至れり尽くせりが売りですからね、まかせてちょうだい」
デメトラは輝くような笑顔をジャスティンに向け「行きましょ」と彼の腕を掴んだ。
「え、いや、あの。属国の王太子と相性がいいなんて、彼女からしたら最悪の現実ですし、いきなり突き付けるのは──」
「心配無用。ごく普通のやり方にするわ。まあ、ちょっと工夫は凝らしますけど。あなたとカサンドラさんなら上手く行くに決まってるんだから」
ジャスティンの腕をぎゅっと掴み、デメトラが重ねて「行くわよ」と凄みを利かせる。その顔は怖いどころの話ではなく、ジャスティンは観念したように「はい」と答えた。
ミネルバたちは「頑張って」という感情のこもった目で二人を見送った。
「いやあ、迫力あるなあ。あの貫禄で、ロスリー辺境伯を意のままに操っているに違いないぜ」
マーカスの言葉に、ソフィーが穏やかに微笑む。
「ロスリー辺境伯はデメトラ様にべた惚れですもの。喜んで尻に敷かれているという感じよ。鋭い観察眼の持ち主で、男女を引き合わせることに情熱を燃やしていらっしゃることは知っていたけれど。その、ああいう特質をお持ちだとは知らなかったわ」
「ルーファス殿下の妃問題が片付くまでは、オーラが見えることは隠しておくべきだと思ったんじゃないか? グレイリングの令嬢の中に適切な相手が見つからないなんて、そりゃ言えないだろうし」
「私たちはミネルバや殿下、ロアン君の力を十分すぎるくらい目にしているから、特殊能力に抵抗がないけれど。それでもちょっとびっくりしたわ」
「まあなあ。普通はありがたがるより先に、薄気味悪く思うだろうからな」
大広間にはいくつもの社交の輪ができていて、ずんずん歩くデメトラはそのうちのひとつに突っ込んでいこうとしていた。エスコート役のジャスティンは、もはや開き直った顔つきだ。
「なんだデメトラ、性懲りもなく仲人役に勤しんでいるのか?」
さっきまでカサンドラの方をちらちら見ていた老紳士が、デメトラに気付いて醜いしかめ面になった。彼と同じ社交の輪にいる着飾った貴婦人たちは、デメトラとジャスティンの組み合わせを不思議そうに眺めている。
「デメトラ、お前は役に立つ立派なことをしているつもりだろうが。地位や財産より相性が重要なんて意見は、外聞を何よりも重要視する貴族の世界にはそぐわないぞ。ジャスティン様も連れ回されてお気の毒に」
「あーらラスティ、お久しぶり。聞いたわよ、家柄も財産も釣り合った三番目の奥さんに逃げられたんですって? 四人目で失敗したくないなら、私を当てにしてくれていいのよ。相性ぴったりな人を紹介して差し上げ──たくはないわね、あなたは性格が悪すぎるもの」
デメトラが氷のような冷ややかさでラスティことダベンボート侯爵を睨みつける。侯爵の顔色が一変し「なんだと!?」という怒鳴り声が響き渡った。
大広間にいた全員の視線が、一斉にデメトラとダベンボート侯爵に向けられた。
違う社交の輪にいる皇帝トリスタンや皇妃セラフィーナ、先代のグレンヴィルとエヴァンジェリン、ミネルバの両親であるバートネット公爵夫妻が、驚いたように目を見開いている。
「じ、自分にぴったりの相手くらい、ちゃんと自力で見つけられるっ!」
「懲りないわねえ。次はあなた、自分を害しかねない危険な相手を選ぶような気がするわ。若くて美人で、財産目当ての」
「酷い侮辱だ、最低の気分だ! もはや我慢ならないっ!」
ダベンボート侯爵の怒りが火を噴いた。ルーファスが「あの老人は短気だからな」とつぶやく。
遠くの方からロスリー辺境伯が慌てたように歩いてきた。二人の仲裁に入るためだろう。そういった一連の騒動を眺めていたら──いつの間にかジャスティンの姿が消えていた。
「なるほど、これがちょっとした工夫。上手いなあ。自らが囮になる作戦かあ」
ロアンが小さく口笛を吹く。その見方はたしかに合っていた。すっかり影が薄くなったカサンドラの前で、ジャスティンが丁寧にお辞儀をしている。
どぎまぎしながら眺めていると、カサンドラは少しためらってから同様にお辞儀をした。姿勢を正そうとした細い体が、ふらりと揺れる。
ジャスティンの逞しい腕が、掬い上げるようにしてカサンドラを抱きかかえた。そして急いで人混みから離れていく。
デメトラとダベンボート侯爵の喧嘩に人々が気を取られている間に、ジャスティンは使用人が開いた扉から出て行った。宮殿の侍女の先導で救護室に向かうに違いない。
「どっかで見た光景だなー。ねえルーファス殿下、ミネルバ様」
ロアンがいたずらっぽく笑う。彼の言う通り、それはルーファスとミネルバが出会った日を再現するかのような光景だった。